「言葉のメカニズムについて」普勧坐禅儀に学ぶ⑬

こんにちは、harusukeです。

本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。

今回は、

所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。須らく囘光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。

という部分を解説していきます。

それではまず初めに前回の、

のポイントを振り返りたいと思います。

前回のポイント
  • お釈迦様から数えて「二十八代目」、達磨様まで伝えられた真実の教え。
  • 真実の教えとは、世間に背を向け、他との兼ね合いを放棄した「面壁九年の坐禅。」の事。
  • ここで言う「九年」というのは年数の事ではなく、長い年月の事、つまり一生涯坐禅しつづけたという事。
  • その「古人」が過去にやって来た正しい行いを、何故今の我々が行わないのか

それでは前回のポイントをおさらいしたところで、本記事を読み進めていきたいと思います。

この記事を書いているのは

こんにちは「harusuke」と申します。

2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。

さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。

それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?

ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。

普勧坐禅儀(訓読文)

直饒(たとい)、会(え)に誇り、悟(ご)に豊かに、瞥地(べつち)の智通(ちつう)を獲(え)、道(どう)を得、心(しん)を(の)明らめて、衝天の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にっとう)の辺量に逍遥すと雖も、幾(ほと)んど出身の活路を虧闕(きけつ)す。矧(いわ)んや彼(か)の祇薗(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。少林の心印を伝(つた)ふる、面壁九歳(めんぺきくさい)の声名(しょうみょう)、尚ほ聞こゆ。古聖(こしょう)、既に然り。今人(こんじん)盍(なん)ぞ辦ぜざる。所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。須らく囘光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目(めんもく)現前(げんぜん)せん。恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲せば、急に恁麼の事(じ)を務(つと)めよ。

目次

言葉をもって真実は辿り着けない

前回触れた、

少林の心印を伝(つた)ふる、面壁九歳(めんぺきくさい)の声名(しょうみょう)、尚ほ聞こゆ。古聖(こしょう)、既に然り。今人(こんじん)盍(なん)ぞ辦ぜざる。

この部分は、

お釈迦様から、菩提達磨様へ伝えられた「真実の仏法」。それなのになぜ、古人が守り伝えた正しい仏法を今の我々が行わないのか?

と、道元禅師の憤りが垣間見える一文となっております。

そこから今回は続きの、

所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。須らく囘光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。

という部分を読んでいきたいと思います。

所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。

まずはこの部分。

「所以に」、とは「だから」という意味です。

そして「言を尋ね」というのは、「言葉の意味を尋ねまわって」ということ。

語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。」というのは、「言葉を理解しようとする事はやめなさい」ということ。

つまりまとめると、

だから言葉の意味を尋ねまわって理解しようとするのはやめなさい。

となります。

要するに「物事」を言葉によって細かく分類して、理解し、いくら追いかけたとしても「真実には辿り着けない。」ということですね。

道元禅師が我々に警鐘を述べている部分と言えますが、今回はこの「言葉」について深く参究していきたいと思います。

人間はいつもない物ねだり、物足りたい一心で「物事」を言葉によって追いかけ回しております。

例えば、「真実」という言葉。

このblogでもよく耳にする言葉かと思います。

例えば人生に迷ったときとかにこの「真実」という言葉を人間は追い求めます。

どこかにこの「真実」はありはしないか。

このように自分の頭で考えた「言葉」もしくは「概念」によって、この「真実」を求めようするわけです。

しかし道元禅師は、

道元禅師

言葉の意味を尋ねまわって理解しようとするのはやめなさい

と言います。

つまり「真実」は言葉や概念で手に入らないと言うんですね。

真実にたどり着くためにはどうしたらよいのか?

そもそも「言葉」とはなんでしょうか?

ここで少し考えてみましょう。

「語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。」と、先ほどもありましたが「言葉を追い掛け回したとしても、そこからは真実は生み出されない」という内容がありましたね。

「言葉」というのはあくまでも「実物」を概念に置き換えた作業であります。

例えば「ストーブ」という「言葉」は我々がストーブという「実物」を概念に置き換えた結果であります。

つまり「言葉にする」というのは「概念化」するということであるため、その行為を一旦手放しなさい。ということなんですね。

「言葉」を使うのをやめる、「概念化する作業」をやめる。

話はそこからだということですね。

どういうことでしょうか?

続きをみて参りましょう。

須らく囘光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。

という部分。

今述べてきたように、「真実」などの言葉や概念など、外に追い求めるようなことをするのではなく、「囘光返照の退歩、つまり「本来の自己をしっかりと学して、学んでいきなさい」となります。

我々人間は、「俺、私」というものを中心にして物事を判断しています。

それでは「俺、私」というこの「自我」というのはどうして生まれてきたのでしょうか。

「真実」うんぬんの前にそこを踏まえる事が先決ですね。

そもそも、この「自我」というものは生まれついた時に始めからあるものではありません。

生まれたての赤ん坊の時にはこの「自我」というものはありませんからね。

赤ん坊は自分の事を「赤ん坊」とは思っていません。

同様に子供も「俺が、私が」という発想すらできない。

ですから自分のことを「さっちゃんはね、てっちゃんはね」と自分のことを「ちゃん」付けしたり「君」付けしたりして傍観者として見ることができるのです。

しかしそれが大人になるにつれ、いつの間にか「俺」がという意識が強固になっていきます。

それでも「俺が、私が」という「自我意識」は実在するものではないんですね。

存在しないのです。

何故なら「俺が」寝ている間にも食べたものがきちんと消化されているからです。

これがもし「俺が」という自我意識の上で成り立っているのならば、とてもそんなことはできないはずです。

なので「自我意識」は単なる「概念」だということに気付くんですね。

それなのに我々の頭の中に徐々にそれが構築されていき、強固なものになっていく。

その「自我意識」がすべてかのように認識しはじめる。

言葉や概念を使って「真実」うんぬんを改めて求めるようなことをしなくても、きちんと今生きている世界、今呼吸をしている自分が「真実」そのものなんですね。

答えはちゃんと明確にされているんです。

人間は言葉によって認識をしている

「あの映画を私がみる」、或いは「あの音楽を俺が聞いた」と我々人間は言います。

「私は聞いているんだ」、「俺が見たんだ」と。

例えば我々は「あの映画を私がみる」と認識しようとする時には必ず「私」という物と、見られる対象の「映画」を二つに分けて、認識しようとします。

逆に言えば人間が何かを認識するには、この方法しかありません。

「私」が、「映画」を、「みる」或いは「私」が、「音楽」を、「聞く」。

このように必ず「主体」と「客体」という風に、物事を分けて認識をするわけです。

我々の「外」にあるものを「客体」と言います。

例えば「私」という「主」があって、私の外にある他人を「客」と言うのはそういう理由からです。

またその「客体」一つ一つに名前を付けて認識をしています。

例えばスイッチをいれると温かくなる「ストーブ」。

非常に便利な物ですよね。

我々はその便利なものを認識するために「ストーブ」という名前を付けます。

そもそも「認識」するというのは人々と「共通」した意識を持つこと、つまり「コミュニケーション」を取るためです。

なので「ストーブを付けてください」と言うと、大概の者は理解できます。

つまり「言葉」というのは他人と「コミュニケーション」をはかるうえでの「手段」でしかないんですね。

そしていろいろなものに名前をつけて、物事をどんどん認識するようになりました。

「鈴木さん」、「畳」、「ガラス」、「椅子」、「庭の桜」、そういう風に名前を付けては認識をする。

しかし、言葉や名前というのは我々が認識する為の道具立てでしかありません。

「言葉」や「名前」そのものは、「実物」ではないのです。

タバコを吸う時、「火」と言えば「ライター」をさす

人は「タバコ」を吸う時、「悪いが煙草を吸うので火を貸してくれ。」と言います。

これが仮に「火」と言った途端に口からボワっと火が出れば「実物」でありましょうが、この場合「火」は言葉でありますから、「火」を貸してくれと言えば相手は「ライターが欲しいんだな」という風に理解をしてライターをさし出します。

もし言葉が概念ではなく実物だとしたら「火」と言ったら、口からボワっと「火」がでなければなりません。

それが実物であるからです。

我々が認識で理解している「世界」というのは実物の世界ではありません。

所詮は頭の中で描き出した世界でしかないですね。

「ストーブ」と言った途端にそこに温かいものが出てこなければ「実物」でもなんでもないんですね。

片言の日本語しか分からない欧米人が近くにやってきて、「バカヤロー」と言ったら相手は「コンニチハ」と返すかもしれない。

それは「日本人」という特定の人達にしか通じない言語であるからで、その言葉を理解していない人達には分からない「概念の世界」、つまり存在しない世界なのです。

言葉の認識というのは所詮そのようなものであり、実存ではないのです。

言葉や概念を否定してはいない

ただ勿論この「言葉」や「概念」というものを否定している訳ではありません。

この「言葉」というのは人間だけが手に入れることのできた「技術」であり、今日の様な「文明社会」を迎える事が出来たのもこの「言葉の力」のおかげであります。

しかし現代の「文明社会」において、この「言葉」という「概念」が一人歩きし我々が「実物」、「真実」を忘れてしまっているのも事実です。

そしてそのせいで我々人間が苦しんでいるのも事実なのです。

なので道元禅師は、

所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。須らく囘光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。

つまり、「言葉を尋ね回って理解しようとするのはやめなさい」とおっしゃっているわけです。

我々がいくら「言葉」をもって「真実」を求めたとしても、真実にたどり着けるはずがないからです。

それは単なる「概念巡り」であり、「言葉巡り」、「言葉遊び」をしているに過ぎないからです。

真実とは関係ないんですね。

この言葉や概念というのは。

だから「言葉を追い回したとしてもそこから真実を見出すことはできません」、「真実にたどり着けるはずがありません」とおっしゃるわけです。

それはつまり、我々が真の「安心」を求めるのならば「言葉」を使って詮索して「真実」にたどり着こうという作業は一切やめてしまいなさいということです。

先ほども言いましたが、真の安心を得るためには、「外」に求めるのではなく、「内」にある本来の自己を学び、自己に親しみなさいという事ですね。

それが須らく囘光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。ということです。

「放向」というのは「光」が外を照らす事を言います。

逆に「返照」というのは「自分自身」を照らす事を「返照」と言うのですね。

「放向」と「返照」。

ここで道元禅師がおっしゃっているのは「返照」であります。

「光」を外側に照らすのではなく、くるっと回してですね内側に照らす。自分を照らす。自分の本来の姿を照らしていく。

そして「退歩を学すべし。」ですが、「人間」の姿というものには本来「進歩」はありません。

はるか昔から同じ「命」を生きています。

人間の本来の姿はお釈迦様の時代から一つも変わらないし、一つも進歩していません。

全く同じ姿の人間であります。

なのでこの「退歩を学すべし。」というのは、

その今も昔も全く同じ「本来の姿」を学びなさい

という意味です。

つまり、我々が真の「安心」を求めるのならば「言葉」を使って詮索して「真実」にたどり着こうという作業は一切やめて今の「命」に学びなさいということなんですね。

わたくしが今ここに生きている「実物」に立ち帰る。

このことが大切であると道元禅師が我々にお伝えになる訳であります。

言葉のメカニズムについて-まとめ-

今回は、道元禅師がしるした『普勧坐禅儀』の

所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。須らく囘光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。

という部分を解説してきました。

最後に本記事のポイントをおさらいしておきましょう!

本記事のポイント
  • 「言葉」や「概念」は人間だけのコミュニケーションツールであり、「実物」ではない。
  • 「言葉」や「概念」をもってして「真実」にはたどり着けない。
  • 真の「安心」を得るためには光を「外側」ではなく、「内側」に向ける。
  • 「内側」とはつまり「自己」を指す
  • それが即ちわたくしが今ここに生きている「実物」に立ち帰るという事(坐禅)

以上、お読み頂きありがとうございました。

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