有名な世界宗教においては「万物」は絶対神によって創造され、その配下に我々人間やその生活、自然などの超常現象もあるとされております。そこではあらゆる地球環境というものが、その神の意思によって創造されるもので、また左右されるもので、時にそうした采配が、実際の災害や戦争にもなり、我々の前に現れるのだと言います。
またそこでは地球には「期限」があり、いずれそう遠くないうちにこの地球は無くなってしまうという風にも考えられております。
実際にこうしたことを信じる人がいて、むしろそれが大多数にも及んでいるのが現状です。仏教は全体の7〜8%程度でしかなく、彼らからすれば我々仏教徒の方が「異端」であるわけです。
残念ながら「事実」こそ全てです。事実こそが全てを物語ります。古い歴史を見ても仏教はやはりそうしたものなのです。仏教というのはどんなに時間をかけても、世界には受け入れられないのです。神こそが正義で、西欧や、神格主義こそが正義なのです。
だけれども、そうしたことというのは単なる人間の概念事です。そこでは何があっても、風で木々は揺らぎ、川はせせらぎ、猫は闊歩し、土にはミミズが活発に活動しております。寝ている間にも呼吸をし、食べたものを消化します。春夏秋冬もきちんと毎年やってくるし、今はこの日本の秋ということで、筍や、栗、旬の果物が大変美味しくなっています。それを美味しいと感じられる我々もいます。
そうしたことは起こりなのです。事実なのです。何か大きな存在に与えられるものではなく、作られたものではなく、それとしての「それ」であり、起こるということなのです。防げないということなのです。絶対ということなのです。真実ということなのです。まやかしではなく、創作物ではないということです。
そしてそれはお互いに必要なもの同士、重なり合うから生じるものであって、それがあるから生じるものなのです。全てが必要で、それらが重なりあえるから、そうしたどれもが間違いない尊さを所持しているから、生じるものなのです。どれもが、また誰もが、同じ性質を持っているのか、あるいはこの世の全てのものが必ず、何かにくっつく部分と、何かにくっつかれる部分があるということ。
いうならば全ては「同等/同一」なのです。こちら側しかありません。向こう側がありません。よって神はいません。いるとすれば全てが神であり、我々も神であり、犬のうんちも全てが神だということです。
あるいはこうしたことも概念ごとなのです。繰り返しになりますが、仮に人間同士が争ったとしても、疲れれば眠くなるし、その寝ている間にもこの体さまが呼吸をしてくれます。それに必要な酸素というのも大自然様のものです。我々というのは本来大自然として生きているのです。我々は大自然なのです。大自然と、また「全て」と同時なのです。
そしてその大自然というのは常に安泰なのです。毎年4月になれば春が来て、7月になれば夏が来ます。仮に地球が明日無くなってしまうとしても、確かにそれは危機的なことと感じられるでしょうが、そうなった後も「風」は起こります。そうなった後も「それ」はあります。あるいはその「終末」こそが大自然その人であり、我々なのです。猫や、ミミズたちはそんなことをお構いなく、ただその時もそこで生き続けることでしょう。
仏教は、見せかけのことではありません。実際のこと、中身のことです。いうならば、寝ている間にも呼吸ができること、春夏秋冬がこうして訪れること、美味しい季節の料理を食べて美味しいと感じることができること。時に何かを思ったり、感じたり、行動したり、争いを行ったりすること自体のこと、そうした教えのことです。
そのことに仮に気付けなくても、触れられなくても構いません。何があっても我々は常に仏教徒です。つまり仏教徒でない人間などこの世に一人もいないということです。
今、実際の仏教徒が全体の7〜8%程度しかいないことも、またインドですでに失われていることも、何か意味があるかもしれませんね。こうしたことを熱心に世界に訴えるためのものなのかもしれません。つまり常にこうしたことを我々が「戒める必要がある」ということなのかもしれません。


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