「公案現成」
今、目の前に広がる一切は「真実」を展開している。それぞれがどんな「今」を抱えているとしても、この「今」が全て。全てが一つとして溶け合った「仏の命」。
「廓然無聖」
「真実の生き方」を問おうとすると、「真実じゃない生き方」というものがあるように感じます。しかしそのようなものは本来なく、人間の頭の概念事にしか過ぎません。それでは何故、「達磨大師」は「般若多羅尊者」から引き継いだ「仏法」をインドから中国へ広めようとしたのでしょうか?
「仏向上事」
泳ぐ魚に決まった形がないように、これこそ「真実」、これこそ「仏」とつかめるようなものだったら、それは「鯰」のようにスルスルと逃げて行ってしまうでしょう。我々が「今」こうして生きている事実は果たして「概念」の話でしょうか

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3、「道元禅師の旅」テーマその①「今を生きぬく」

私の名は「harusuke」。

blog、「道元禅師の旅」の管理人です。

2012年に駒澤大学を卒業後、禅の修行道場で修行経験があります。

この度はお立ち寄り頂きありがとうございます。

私「harusuke」に関してのご挨拶は以下で詳しくさせて頂ければと思います。

心のよりどころはどこ?

さて、現代社会において私たちは何を「救い」に、或いは何を「心のよりどころ」にすればよいのでしょうか。

お金があればもう少し心の安寧に繋がるはずなのに収入はまったく増えない。

せめて健康面だけでも保障が欲しいと願っても災害や戦争、テロといった被害にいつどこで遭遇するかもわからない。

また昨今では未知のウィルスに脅かされ、いつどこで不治の病に臥してしまうのかもわからない。

まったく良くならない現状に不満を覚え、他人のことをねたんだり、憎んだり、羨ましがってばかりいる。

何をしていても不安にかられ、生きる気力が湧いてこない。

そんな中「心のよりどころ」となる場所が一つでもあればどんなに良いことでしょう。

何のために生きるの?何故生きなければいけないの?

また、このような時代にあって私という人間は何のために生まれ、何のために生きるのか?

このような疑問を抱えている方も多いはずです。

現に私もその内の一人です。

何故生きなければいけないのか?何故毎日歯を食いしばって通勤しなければいけないのか?何故上司に叱られることを我慢しなければならないのか?何故ご飯を食べなければいけないのか?

生きているとこのように「様々な疑問」を抱えるはずです。

そしてこの「私という人間は何のために生まれ、何のために生きるのか?」という問いに対し「正しい答え」があるとすれば我々はどんなに毎日が辛かろうと希望をもって日々を歩んでいけるはずです。

明日を生き抜く

しかしいま述べてきたような「心のよりどころ」や、「生きる答え」があるのかは残念ながら今の私にはわかりません。

現に私も「心の拠り所がほしい・・・」、「生きる意味が分からない・・・」。

このような不満や疑問と日々向き合うばかりの毎日なのですから。

それでも私たちは目の前で起こることを頼りに、

「明日も生きぬいていくしかありません。」

誰も「自分」というハンドルを握ってくれないんですね。

「自分」を引き受けるのは「自分」しかいないのです。

そう思うと辛い毎日でしょう。

誰も逃げられない。一瞬たりとも逃げられない。

このような状況に置かれているのですから。

この「自分」というものを引き受け、何とかして生きて行かなければならないのです。

真実の世界に生きている

それでもここにひとつだけ「確かなこと」があります。

それはあなたがいまどんな境遇におかれていようとも、あなたは「真実の世界」に身をおいているということです。

あなたはすべてが一つに繋がった「仏」の世界にいきているということです。

例えば「自分」が寝ている間、自分が意図しなくとも「何者かが」しっかりと食べたものを消化してくれております。

そして朝、目が覚めた時にはもうすでに食べ物は「腸」に運ばれている。

ここに例外はないはずです。

また自分が意図しなくとも、勝手にカラスの鳴き声が聞こえてきたり、子供の遊ぶ声が聞こえてきたりします。

それではなぜ自分が意図しなくともそのようなことが確実に行われるのでしょうか?

それはつまり「自分」というものがこの世界にはどこにもいないからなんです。

「他」こそが「自分」を作り出しているからなのです。

「宇宙」が自分で、自分が「宇宙」だからなのです。

壁を殴れば痛い。それは壁が自分だからなのです。

我々が生きている世界はこのような成り立ちなんですね。

それだけは「確かなこと」なのです。

そしてこのような世界を「仏の世界」といったり「真実の世界」といったりするのです。

さてここまで長々と述べて参りましたが、この「道元禅師の旅」ではそうした「気づき」を読者の方々に提供できればと思っております。

あなたが現在どんなに今苦しくても、逆にどんなにいい事があって幸せな気持ちになっていたとしても、少し立ち止まり

真実とは何か?

この問いに自問してみませんか?

そしてその問題にきちんと向き合えた時、「真実」に気付けたとき、

明日を生き抜く活力が生まれてくるはずです。

この瞬間を、この呼吸をありがたく頂戴できるはずです。

④道元禅師の旅テーマその②「諸法無我」

例えば、「魚」は水のあるところならどこまでも泳いで行けます。

「魚」においては、ここからここまでが「自分の水」という際限がないわけです。

つまり「魚」においてはここからここまでが「俺の命」という際限がないわけなんですね。

そしてそれは水槽の中にいるメダカもそうだし、大海にいるクジラもそうですね。

その場その場で際限のない、宇宙一杯の命を生きているわけです。

要するに彼らからすればその場その場が宇宙一杯なんですね。

常に宇宙一杯なんです。

そしてそれは我々人間も同じですね。

我々の命においても、ここからここまでが「俺の命」という際限が本来はありません。

常に宇宙一杯の命を常にいただいているわけです。

例えば、我々が生きていくために必要とする「酸素」は大自然が生成してくれるから、こうして呼吸ができる。

これが仮に「ここからここまでが俺の命」と決めてしまったなら、即座に窒息死してしまうでしょう。

なのでいま、ここにいる「自分」は「他」によって生かされていることに気付かなければなりませんね。

それまで「俺の命」だと思っていたものはただの「概念」で、そんなものはどこにもないということに気付かなければならないんです。

「他」によって我々は生きる事が出来るのですから。

ということは「他」が「自分」なんですね。

そして「他」が「自分」という事はどこにも「我」がないんです。

「俺」がないんです。

仏法は「無我にて候う」。

真実は「無我」なんですね。

⑤道元禅師に関して

ここでは禅とは何かを理解する上で、歴史上最も重要な人物である、禅僧「道元禅師」に関して知識を深める事ができます。

ただ、ひたすらに坐禅をする「只管打坐」を説かれ、世界的名著『正法眼蔵』をしるされた「道元禅師」とは一体どういった人物だったのでしょうか?

またそんな道元禅師がお開きになったのが「永平寺」です。

現在この「永平寺」は福井県にあり、禅の修行道場として世界にもその名を轟かせるほど有名な「叢林」として毎年多くの修行僧が訪れます。

以下のページではそんな「永平寺」の修行生活を知ることができます。

現代においても昔と変わらず厳しい修行生活を送っている永平寺の一日を分かりやすくお伝えしています。