今回は、少し人間の特性についてお話できればと思います。
その中の「概念」についてお話できればと思います。
我々人間は概念を保有する生き物です。しかしそれは果たしてどういったものなのか?本来の生き方として見たときにこの概念巡りをしている人間に対し、どういったことが言えるのか?ということをお伝えしていきます。
これまで考えもしなかったという方も中にはいるでしょう。
この記事はあなたの「今」にも密接に関係しているお話です。
是非読み進めて頂ければと思います。
概念化とは?
そもそも「概念」とは一体どういう意味なのでしょうか?
ここで一旦wikipediaを覗いてみたいと思います。
wikipediaで「概念」と調べると以下のような注釈が出て参ります。
ふむ。
分かるような、分からないような話ですね。
「概念」とはまず人の脳みそが作り出した実際には存在しないもののことです。
手に触れることができない。実際に差し出すことのできないものです。
これが概念であり、それは存在していないものと同じなのです。
また例えば目の前に「リンゴ」を置かれて、大半の人はそれを「リンゴ」と認識するでしょうが、一部の人は「赤い物」と答えたりします。
概念にはこのように一定の形がありません。人の捉え方によって正体を自由に変え、あたかも存在しているように人に思わせる。これが概念です。一定の形がない。人によって捉え方がバラバラ。
なぜバラバラなのか?それは存在していないからです。つかみどころがないからですね。
これが概念です。
また我々はこの概念を元にコミュニケーションをとります。言い方を変えればこの概念があるからこそ、コミュニケーションをとることができるようになったんですね。
従来我々人間は言葉を持っておりませんでした。そこを先祖であるホモサピエンスが外敵から身を守るために声を発した。そうして仲間に敵の位置や、餌のありかなどを共有することができるようになった。
これが言葉による「概念の興り」だと言われております。
そして今はこの概念のおかげで、こうした便利な社会を形成するまでにいたり、生物界で頂点に君臨するまでに至ったのです。
概念とは、それはつまり「言葉」ということですね。
例えば先ほどの話であれば「りんご」という言葉を覚えることによって、我々はそれをりんごだと認識できるわけです。
そうやって、お互いにその共通の言葉で、共通の認識を持ち、コミュニケーションを図ることができていく。
これが概念のプロセスですね。要するに言葉によって生まれる認識のやり取りなんです。
言葉がなければ我々はそれが何なのかわかりません。
例えば生まれたばかりの赤ん坊はそれをりんごだと認識できないといったことです。
そこを言葉を覚えて、ようやくりんごだと認識できるようになる。
そしてそのりんご取って!とか、そのりんご美味しそう!とか、こういったコミュニケーションを取れるわけですね。
言葉によって認識は生み出され、その言葉によってコミュニケーションがなされるわけです。
人間は頭が他の動物より良いですから、こうしたことができるようになったわけですね。
しかしここが肝心なのですが、そのりんごと名付けたものには本来、正体がありません。一定の形がないわけです。
りんごは1秒ごとに姿を変えているからです。
1秒前のりんごと、1秒後のりんごとでは確実に1秒後のりんごの方が何かしらの養分を失っているわけです。
それが正確な在り方であるわけです。
要するに言葉というのは正確ではないんです。概念というのは正確ではないんですね。
正確ではないというか、単なる人間が勝手につけた名前なのです。
実物とは一切関わりがない。これが言葉であり、概念であるわけです。
しかし我々はその言葉や、概念が全てだと思っている。
単なる人間上だけで生まれた本来存在しないコミュニケーションツールであるのにもかかわらず、それが本来の物事の正体だと思っている。
この概念は人同士におけるコミュニケーション手段として使われるものですが、そもそも「架空物」なので実に曖昧なものなんですね。
そして実に危ういものでもあるんです。なぜならそれは人によって捉え方が異なるからです。
ある人は良かれと思ったことでも、別のある人は悪く捉えたり。
そうやって双方に軋轢が生まれ、諍いが起こるわけです。
物事に対し、名前をつけたり、限定化していくこと。これが概念であり、言葉の便利な点です。それによって我々人間はこうして今も便利な生活をすることができるようになりました。
しかしそれは本来の実物とは直接的な関係はないということ、あたかも存在していると思わせますが、実際には存在していないものだということを抑えておかなければなりません。
諸法無我、この世界に俺なんてものはない。
先ほどのりんごの話がありましたが、我々人間は言葉による概念で、頭の中で線引きをし始める生き物です。
物事に名前をつけたり、あるいは本来できないにもかかわらず、物事に価値をつけ、そこの価値を比較したり、自分の「価値観」で物事の価値を決め、判断をする生き物です。
本来物事に線引きなどできないんですね。物事に価値をつけるなんてことはできないんです。
例えば我々はよく「俺の命」ということをしきりに言います。
しかし今俺を生かしている作業の1つに「呼吸」がありますが、その呼吸に関しては酸素がないとできないわけですね。
今こうやって無条件で行っているこの呼吸に関して、その元となる酸素は一体どこからきているものでしょうか?
もし本当に俺の命という限定があるのであれば、我々は即座に窒息死するはずです。
なぜならその酸素は市外から来ているかもしれないし、県外、はたまた国外から来ているかもしれないからです。
このように呼吸1つとっても、ここからここまでが俺の呼吸という限定ができないわけですね。
またいつでもどこにいてもカラスやサイレンの音が俺の耳を震わせます。それはカラスが鳴いたから、俺の耳が鳴ったということで、カラスによって俺の命が生じたということです。つまりカラスが俺の耳の鼓動であり、俺そのものだということです。
これは少し仏教学的な捉え方とはなるのですが、事実であるわけですね。
仏教はこの絶対的な事実を決して無視しません。
この世界に俺なんてものは存在しません。それは先ほどの概念によって架空に生み出された、単なる認識なのです。
本来は全てが1つに繋がっている俺なのです。この世界には俺しかいないわけですね。
逆に言えば俺なんてものはどこにもないのです。
諸法無我という言葉がありますが、仏教や禅ではこの事実を非常に重んじております。
しかし我々は頭が良いですから、スパッと「頭の中」で線引きをし、「私と他人」、あるいは「出家と在家」など、そういう線引きをしてしまう、できてしまう生き物なんですね。
実に器用です。
我々には生まれ持ったこの「脳みそ」という思考を司る媒体があります。
そして色々の事を常に考え、常に線引きをして分別をしております。

概念化とは?例①「五感全てを駆使して、鐘の音を聞いている」
ここで少し、私の生家であり、実家のお寺のお話をさせていただきます。
9月のお彼岸の頃というのは「金木犀の花」のかおりが漂う時期であります。
そのお彼岸中お寺では、「毎朝6時」から鐘を7つ撞きます。
私も何度か手伝いとしてその時期に鐘を撞くことがありました。
時間が経つと徐々に朝日がのぼってきて、「目」でみる視界も段々明るくなってきます。
そしていざ「鐘」を撞き始めるころ、「鼻」では「金木犀の花」のかおりを嗅いで、「耳」では鐘の音を聞いているというような状況になっています。
人間は「五感」を通してこのような状態を無意識に行じています。
この事を「人に説明する際」あなたならどのように説明しますか?
恐らく、
- 耳で鐘の音を聞き
- 鼻で木犀の香りを嗅いで
- 目で、段々白じんでくるこの世界を見ている
という風にその時の状況をセグメントして説明するはずです。
このように物事を一つ一つ脳の中で分けて、その事を「概念」として他人にイメージを持たせる事で初めて「説明」がつきます。
しかし実際は、「耳」で「鐘」の音を聞いている間に「鼻」や、「目」が休んでいるかというとそうではありません。
常に五感を巡らせて、五感の全ての力を発揮して「鐘の音を聞いている。」あるいは「金木犀の花」のかおりを嗅いでいる。
五感の全てを働かせて、皮膚感覚も全部をひっくるめて、夜明けのこの白じんでくる世界を経験している。
そう、つまりは「耳」でも「鐘」の音を聞いているのです。
実際の物事というのは2つに分けられないんですね。認識では捉えられないということなんです。

しかし「他人に説明したり」、「文章化したり」しようとすると、「目で白じんでくる世界を見て、耳で鐘音を聴き、鼻で金木犀の花のかおりを嗅いでいる」という以外表現の仕様がありません。物事を切り分けることしない限り説明ができないんですね。
要するに何が言いたいのかと言うと、
実際の世界と概念の世界は違う
という事です。
「実際の世界」というのは「全体」です。
全てが一つの「仏の命」として溶け合っている。
先ほどの呼吸の話もありましたが、例えば「壁」を殴れば自分の手が痛くなるのは壁によって自分の命が生じたということであり、壁が「自分」だということです。
あるいは人とぶかるとお互い痛い思いをする。それは他人によって自分の命が生まれた瞬間であり、他人よって自分は生かされているということです。
このように命に線引きはない。しようと思ってもできない。
線引きがあるのはこの「頭の中」だけです。
この世界では線引きができないということは評価もできないということですね。2つに分かれないのだから、こっちの方がいい、いやあっちの方がいい。そういった評価もつけられないのです。例えば東京暮らしの方が楽しい、いや地方暮らしの方が楽しいとか。
子供がいる生活の方がいい、いや独身の生活のほうがいいとかですね。
そういった評価はしようがないのです。すべては今ここと繋がっているからですね。
どこにいようとカラスの鳴き声が聞こえてくる、こうした紛れもない真実の命をいただいているからです。
少し話は脱線してしまいましたが要するに物事には定義がなく、「ここからここまでが俺の命」という線引きができないんですね。
それを言葉で持って捉えようとする。これが概念化とコミュニケーションの正体です。
あまりにも無謀だということですね。無謀というか、単なる人間が勝手につけた名前なので便利なだけという話なのです。
我々の命というのは「大自然」に生かされ、一つとして溶け合っている。たった1つの「俺という世界」なのです。あるいは仏のみの世界と言ったり、達磨様はこのことを先ほどの「諸法無我」と言われました。

「概念」では線引きができますが、実際は線引きなどはできない。
その他にも日常生活で言えば、
- 全ての感覚を駆使し「朝ご飯」を食べている。
- 全生命を駆使し、「お手洗い」をしている。
- 宇宙全体を巻き込んで「スマートフォン」をいじっている。
とかでもいいですね。
「坐禅」もそうです。この体、全ての命を通して「坐禅」をしているんですね。
しかし他人とコミュニケーションをとったり、文章化する際にはこのように「概念化」し、本来一つの命を細分化して分けることで他人とコミュニケーションが取れたり、説明が付けられるわけです。
このように「概念化」し物事を分けて考えるというのは、人間が「コミュニケーション」をはかる上ではとても大切な事ですね。
また人間だけが可能な「行い」であり、今日の文明の発展にこの「概念化」というのは大きな利益をもたらしました。
しかし、繰り返しになりますが、実際の「命」の現場はそうではありません。
先ほども述べましたが、森林が発する「酸素」を吸って生きていられるように、実際の「命」というのは概念で線引きすることなどできない訳です。
つまり、
「概念」とは「概念」であり、「実物」ではない。
また、
頭で理解したことは単に頭で理解しただけ
とも言えますね。
「概念」というものには実体がありません。
掴むことができない。存在していない。
しかし現代の我々はこの「概念化」による支配が全てです。
概念化とは?例②「良寛禅師」のエピソード
江戸時代に活躍した、越後(現在の新潟県)出身の「良寛さん(1758-1831」というお坊さんがいました。
この方も非常に有名な僧侶で、現代の仏教界に絶大な影響を与えた人物です。
ここでは詳しくは解説しませんが、少しここでその「良寛」さんにまつわるエピソードをご紹介したいと思います。
この良寛さんは、人から本を借りたら全て「俺のもの」と書いてしまうんですね。
最低ですよね。(笑)
今だったら、器物損壊容疑で即逮捕です。
良寛さんにせっかくの思いで貸した本人は「良寛さん!なんで俺のものって書いてしまったのだ!」と思う訳ですね。
しかし良寛さんはその借りた「本」だけでなく、道端の木々、岩、全てのものに「俺の物、俺の物。」と書いてしまうんです。
つまり、良寛さんには「俺のもの」と「他人のもの。」という風に物事に境界線がない人だったんです。
決してこの良寛さんは、その人の物を盗もうと思ったわけじゃありません。
この世界に「境界線」は無い
真実の世界を体現されていたのです。ある意味正しい行いだったのです。
概念というのは「架空物」だということをその身をもって理解されていたのですね。
我々はややもすると、頭でしっかり線引きをし、「自分のもの」と「他人のもの」という風に物事を分けます。
これはコミュニケーションや約束こと、法律を守る上では欠かせない事であり、現代社会はそれで成り立っていると言われればその通りです。
しかし、実際の「物」だったり、「命」というものには「俺のもの」、「他人のもの」という様な明確な基準はありません。
現在、過度な「線引き」によって始終して、苦しんでいるのが我々の「日常生活」であります。
「頭」で考えて、「線引き」をして、「分別」をして、「物を分けて」、これは「あなたのもの、これは私のもの」ということで今の世の中は成り立っている訳ですが、この線引きというのは頭の中の話でしかなく、「実際の命」においては線引きはできないわけですね。
概念化とは「大自然の行為」を「人間の行為」に変えてしまう事
一方で人が「思う」というのは、これは「自分」がやっているわけではありません。
つまり「思う」という行為はやめようと思ってもやめられない、
「生命活動」であり、「生命の実物」
です。
先ほどは「概念」というのは人間にしかできない「実体のない行為」で、「大自然の行い」ではないと説明しました。
どういう事かきちんと説明します。
つまり「概念化」と「思う」ということは似ているようで180度全く違うものです。
例えばあなたが今、この説明を受けて「なんだよ、どういうことだよ?」と思ったとします。
その「思い」はあなたが果たして行った事でしょうか?
恐らく私のこの文章を読んで無意識のうちに浮かんできた「思い」だったはずです。
つまりあなたが「思いたくて思った」訳ではなく、それはどこからか突然やってきた「大自然の行い」であったのです。
「思う」という行為は仕方のないこと。生命の実物です。仏の行いです。
「どのように思う事」も、「何を思う事」も、これは自分がやっている事では無く、「大自然の方」から突然、縦横無尽にやってくるものです。
こればかりはどうするこもできない。
「坐禅中」であっても、破廉恥な事を思ったり、卑猥なことを思うようにこればかりは「自分」がやっているものではない為どうしようもありません。
何故なら、
「私がやっていること」ではなく「大自然の方から行われているから」です。
ゴリラやチンパンジーは我々と同じく知能レベルが高いと言われております。
彼らと我々との違いは何か?
それは言葉です。
我々は言葉を持つことができるから、それに名前をつけて、それがりんごだと認識できます。
またそこからさらにコミュニケーションをとり始めてしまう。
しかしそれは本来の実物とは関係のないことでしたよね。言葉や概念というのは本来の実物とは関係がないのです。
これが人間活動です。
ゴリラやチンパンジーもそれが「食べ物」であるくらいには認識ができるでしょう。しかし言葉を持たない彼らはそれを限定化することがありません。
本来のそれを本来のあり方としてだけに捉えておくことができますし、そこからコミュニケーションなんてものも取ろうとしません。
この「思い」を本来の生命の実物のみにとどめておくことができるわけですね。
しかしながら、このどうしようもない「大自然の行い」に手をつけていく、思いを好きなように構築していってしまうと、それは本来のあり方からそれていってしまうわけです。
それをやっているのが我々人間です。
つまり概念や言葉とは、
「大自然の行い」を「大自然の行い」ではなくしてしまう。
この点をきちんと踏まえなければなりません。
我々の日常生活においてはこの「概念化」が全てです。
つまり「大自然の行い」を「人間の行い」に変えてしまう行為。
「かっこよくなりたいな」と思って、「服を購入したり」すること。
「お金持ちになりたいな」と思って、「パチンコに行く事。」
時にはその思いが誰かを傷つけてしまったりもする。
概念に引き摺り回される。それでは本末転倒なのです。
我々の命は一つとして繋がっている「仏の命」です。
実際は決して二つと分かれない命を生きており、そのような仏の世界に身をおいて生きております。
物事を限定化したり、評価したり、区別したりすることはできないんですね。
「坐禅」は「仏行」とも言われますが、仏の世界を行じるから「仏行」、本来の世界を行じるから「仏行」であるわけです。
しかしその坐禅をしている間でにも様々な思いが起こります。
もう手のつけようがないくらいに起こります。
しかしそれは仕方のない事ですね。それは生命の実物だからです。自分がやっていることではないからです。
この「坐禅」においてはその無限に起こる「概念」を形成化できません。
「大自然の行い」を「大自然の行い」のままにとどめておく事ができます。
思いが浮かんで来ても「浮かんできっぱなし」にする。
そして気が付けばその思いは「スーッ」とどこかへ消えてしまう。
これが今の我々に求められる「概念」との向き合い方なのです。
「概念化」はあくまでもコミュニケーションのツールでしかない
我々人間にとって、脳によるこの「概念化」というのは現代社会において非常に大切な事です。
これが今は「全て」と言ってもいい。
しかし、「概念」というものには実体がありません。実際に手に取ることができない訳です。
人と人がうまく人間関係を築くうえで重要な事ですが、それはあくまでもツールでしかなく、我々の実際の「命」とは、全てが1つに繋がったこの真実の世界とは無関係な話となります。
そこを踏まえることが出来れば、我々人間はもう少し安心して生きていく事が出来るのではないでしょうか。
以上お読みいただきありがとうございました。

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