「仏向上事」
泳ぐ魚に決まった形がないように、これこそ「真実」、これこそ「仏」とつかめるようなものだったら、それは「鯰」のようにスルスルと逃げて行ってしまうでしょう。我々が「今」こうして生きている事実は果たして「概念」の話でしょうか
「公案現成」
今、目の前に広がる一切は「真実」を展開している。そしてそれはたった一つの「仏の命」。
「諸法無我」
「真実の生き方」というと、「真実じゃない生き方」というものがあるように感じます。しかしそれは単なる比較で、そのような比較は人間の頭の概念事にしか過ぎません。世界には何一つ線引きはなく、物事は決して2つに分かれない。線引きなどしたくともできないのです。それは「真実」でも「偽物」でもない。線引きなどできないたった1つ。達磨さまはそのことを「諸法無我」と言われました。我々は常に全てと繋がっているのです。我々は全てなのです。
「只管打坐」
しかしそのことを単なる認識に留めてはいけません。
なぜなら認識は概念であって、概念は存在しないからです。概念ではなく「実物」。この世界には実物だけが存在しております。
世界には線引きがなく、たった1つの命ということも、真実を証明しているのは実物だけなのです。
達磨大師はだから坐禅をした。足を組めば痛くなる。この「生命の実物」こそ全ての答えだったからです。「只管打坐」。これがたった1つの真実だったからです。
「仏向上事」
泳ぐ魚に決まった形がないように、これこそ「真実」、これこそ「仏」とつかめるようなものだったら、それは「鯰」のようにスルスルと逃げて行ってしまうでしょう。我々が「今」こうして生きている事実は果たして「概念」の話でしょうか
「公案現成」
今、目の前に広がる一切は「真実」を展開している。そしてそれはたった一つの「仏の命」。

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3.harusukeについて

私の名は「harusuke」。「道元禅師の旅」の管理人です。2012年に駒澤大学を卒業後、禅の修行道場で修行経験があります。この度はお立ち寄り頂きありがとうございます。

私「harusuke」に関してのご挨拶は以下で詳しくさせて頂ければと思います。

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4.「道元禅師の旅」テーマ①「今を生きぬく」

心のよりどころはどこ?

現代社会において私たちは何を「救い」に、或いは何を「心のよりどころ」にすればよいのでしょうか。

お金があればもう少し心の安寧に繋がるはずなのに収入はまったく増えない。せめて健康面だけでも保障が欲しいと願っても未知のウィルスに脅かされ、そこでいつ大きな病気になるかも知れず、また災害や戦争、テロといった被害にいつどこで遭遇するかもわからない。

まったく良くならない現状に不満を覚え、他人のことをねたんだり、憎んだり、羨ましがってばかりいる。何をしていても不安にかられ、生きる気力が湧いてこない。

そんな中にあって我々一人一人に「心のよりどころ」となる場所が一つでもあればどんなに良いことか、そんな風に考えたりします。

何のために生きるの?何故生きなければいけないの?

また、そのような時代にあって私という人間は何のために生まれ、何のために生きるのか?このような疑問を抱えている方も多いはずです。現に私もその内の一人です。

何故生きなければいけないのか?何故毎日歯を食いしばって通勤しなければいけないのか?何故上司に叱られることを我慢しなければならないのか?

生きているとこのように「様々な疑問」を抱えるはずです。

そこで、もしこの「私という人間は何のために生まれ、何のために生きるのか?」という問いに対し「正しい答え」があるとすれば我々はどんなに毎日が辛かろうと希望をもって日々を歩んでいけるはずです。

明日を生き抜く

しかしいま述べてきたような「心のよりどころ」や、我々が生きていく上で「正しい答え」があるのかは、残念ながら今の私にはわかりません。

現に私も「心の拠り所がほしい・・・」、「生きる意味が分からない・・・」。このような不満や疑問と日々向き合うばかりの毎日なのですから。

それでも私たちは今、目の前で起こることを頼りに明日も生きぬいていくしかありません。

誰も「自分」というハンドルを握ってくれないんですね。「自分」を引き受けるのは「自分」しかいないのです。誰も自分からは逃げられない。一瞬たりとも逃げられない。このような状況に置かれているわけです。

この「自分」というものを引き受け、何とかして生きて行かなければならないのです。そう思うとまた辛いですね。

真実の世界に生きている

それでもひとつだけ「確かなこと」があります。

それはあなたがいまどんな境遇におかれていようとも、あなたは「真実の世界」に身をおいているということです。あなたはすべてが一つに繋がった大安心の「仏」の世界にいきているということです。

例えば「自分」が寝ている間、自分が意図しなくとも「何者かが」しっかりと食べたものを消化してくれております。そして朝、目が覚めた時にはもうすでに昨日食べ物は「腸」に運ばれている。ありがたい限りですよね。そうやって我々はいつも生きることができる。

また同じく生理現象の観点で言えば、自分が意図しなくとも、勝手にカラスの鳴き声が聞こえてきたり、子供の遊ぶ声が聞こえてきたりします。

自分が意識する前にはもう子供達の声が私の耳を震わせ、命を起こしているんです。

そこでいうと、子供達の声が、私の命なんです。子供達が「私そのもの」なんですね。

この世界というのは全てそのように出来ているんです。

それはつまり「自分」というものがこの世界にはどこにもないということなんです。

「他」によって私の命が起こる。それは他によって私は生かされており、「他」こそが「自分」ということなんですね。「宇宙」が自分で、自分が「宇宙」なのです。

壁を殴れば痛いのも、それは壁が自分だからなのです。

我々が生きている世界は全てこのような成り立ちなんですね。

従ってこの世界で展開している全ての命に境界線などなく、無論「私」という存在もどこにもありません。この世界においてここからここまでが私の命という線引きができないのです。私だと定義づけるものがないんですね。

私という存在は他によって起こされており、他が私そのものだからです。

全てが1つにつながっている世界がこの世界なのです。言い方を変えれば全てが自分という世界なのです。

かの良寛禅師は人から借りたものでも、道端に転がる石ころでもなんでも全て「俺のもの」と書いてしまったそうです。

しかしそれは何も間違っていないんです。

世界に線引きがないから私がない。逆に言えば全てが私という世界。

またこの世界にある全ての命には線引きがないから、世界が生きている以上、私はずっと生き続けるんです。一方で世界が死ねば私も死ぬんです。私が死ねば世界も死ぬんです。

我々は1つなんですね。世界と私とは同じ存在で、救われている。同時成道なのです。

この世界には生も死もなく、これまでずっと1つとしてあり続けてきて、これからもその1つとしてあり続けます。

何があろうと生かされている、何があろうと生きることができる。そして死ぬときは全てが終わる。そういった正真正銘の安心の世界なのです。

それだけは「確かなこと」なのです。

事実、寝ている間でも無意識に呼吸ができておりますが、その肝心の呼吸も、どこからやってきたかもわからない酸素があるから行えるんです。

そうやって私は常に他に救われているんですね。他によって常に生かされており、これからも生き続けられるわけです。他が私の命そのものなのです。

今言ってきたような世界を「仏の世界」といったり「真実の世界」といったりします。

この1つに繋がった世界のことをですね。

先ほどの話にもどると、我々はそんな真実の世界に常に身を置いているわけですね。そんな世界と共に常に救われている。同時成道なのです。

ここまで長々と述べて参りましたが、この「道元禅師の旅」ではそうした「生きる気づき」を読者の方々に提供できればと思っております。あなたが現在どんなに今苦しくても、逆にどんなにいい事があって幸せな気持ちになっていたとしても、少し立ち止まり、

真実とは何か?

この問いについて考えてみませんか?

そしてその問題にきちんと向き合えた時、この世界の「真実」に気付けたとき、明日を生き抜く活力が生まれてくるはずです。この瞬間を、この呼吸をありがたく頂戴できるはずです。

5.道元禅師の旅テーマ②「諸法無我」

例えば、「魚」は水のあるところならどこまでも泳いで行けます。

「魚」においては、ここからここまでが「自分の水」という際限がないわけです。

つまり「魚」においてはここからここまでが「俺の命」という際限がないわけなんですね。そしてそれは水槽の中にいるメダカもそうだし、大海にいるクジラもそうですね。

その場その場で際限のない、常に宇宙一杯の命を生きているわけです。

要するに彼らからすればその場その場が宇宙一杯なんですね。

常に宇宙一杯なんです。

そしてそれは我々人間も同じですね。

我々の命においても、ここからここまでが「俺の命」という際限が本来はありません。常に宇宙いっぱいの世界と同時であり、そこで常に宇宙一杯の命をいただいているからです。

例えば、先ほどの話にもあったように、我々が生きていくために必要となる「酸素」は大自然が生成してくれるから、こうして呼吸ができる。そして宇宙いっぱいに生きることができる。これが仮に「ここからここまでが俺の命」と決めてしまえるのなら、即座に窒息死してしまうことでしょう。

しかしそうはならない。我々の命は他にあって、その他によって生かされているからです。俺という命は全て他で形成されているんですね。他が私の命だからです。

なのでいま、ここにいる「自分」は「他」によって生かされていることに気付かなければなりません。それまで「俺の命」だと思っていたものはただの「概念」で、そんなものはどこにもないということに気付かなければならないんです。

「他」によって我々は生きる事が出来るわけで、「他」が「自分」なんですね。そして「他」が「自分」という事はどこにも「我」がないんです。「俺」がないんです。

仏法は「無我にて候(そうろ)う」。

この世界に「自分」はありません。「自我」もどこにもありません。

そしてその世界はどこを切り取っても真実だということです。なぜならどこにいようと壁を殴れば痛くなり、足を組めば痛くなるからです。そしてその痛みは紛れもないからです。紛れもなく痛いからです。それは確かなことだからです。確かなことであればそれは真実だからです。

いつどこで足を組んでも痛くなるのと同じように、どこにいようとカラスの鳴き声が耳を実際に震わせる、ストーブの音が実際に耳を震わせる。誰であろうと、どこであろうと。

この世界はこのようにどこを切り取っても真実そのものなんですね。

そんな世界が常に目の前に展開している。どこにいようとあなたのいるその場所が真実そのものです。どこを切り取っても真実のみの世界なのです。

だから今、ここ。ここにこそ、「真実」があるわけです。

その宇宙の真実を切り取ったもの、それが「今、ここ、この坐禅」なんですね。だから「我(自我)を放ち忘れて、ただ坐る」のです。

なぜなら足を組むことで痛くなる坐禅は、生命の実物であり、真実そのものだから。この世界における唯一の確かなことだからです。

それを行うことで確かに命が震えております。足を組む、痛い。これは生命の実物だからです。

そして命を起こし、自分を起こす。それで自分と同時である世界を震動させ、呼吸をさせる。それは世界を生かすことにつながります。またその世界と繋がった自分を生かすことにも繋がります。

自分を救い、世界を救う。自分を生かし、世界を生かすというわけです。この坐禅が。

我々が人間として生まれてきた意味はこの坐禅にあります。

いつの間にか、一人ひとりにこびりついてしまった概念。この概念を捨てきれない我々にとって「その我(自我)を放ち忘れて、ただ坐る」こと、それができれば本来の目的も果たされるわけです。

なので辛くても坐禅をするために生きましょう。坐禅をするためにお金を稼ぎましょう。坐禅をするために明日も生きるのです。

そう、我々は生きるために、坐禅をするのです。

6.道元禅師に関して

そんな尊い「坐禅」を信じ、その「坐禅」を生涯貫いた人物。それが「道元禅師」です。

道元禅師はその「坐禅」の意義を知っていたから、在家、出家の者関わらず、多くの人にこの「坐禅」の重要性を説かれました。

道元禅師が守り貫いた「坐禅」。その坐禅は今も我々に生きる希望を与えてくれます。

ただひたすらに坐禅をする「只管打坐」の重要性を説かれ、世界的名著『正法眼蔵』をしるされた「道元禅師」とは一体どういった人物だったのでしょうか?