「また大きく出たな」と、そんな批判の声が聞こえてきそうですが、今回もお付き合いください。
いつの時代でも、そこにある「悩み」。生きていく以上、我々に悩みは尽きません。
しかし、もし「正しい生き方」というものが分かれば、それも軽減できるはずです。
実際に私も悩み多き人間でしたが、道元禅師の教えを学んでいく中で、あるいは坐禅を組み、仏法を学んでいくことで、その正しい生き方なるものを見出し、悩む時間が少なくなりました。
人生は一度きりです。悩んでいる時間はできるなら少ないほうがいい。でもどうしても悩んでしまうのが我々ですので、その悩みすらも楽しめるようになりたいものです。
人生もっと楽しまなければ。もっとこの美しい自然を愛でなければ。そう思いませんか?
人の正しい生き方とは
人の生き方とは何か?何が正しい生き方なのか?
先人たちもこのことに対し本当に頭を捻ったことだと思います。そしてその参究に多くの時間を費やしたことだと思います。
いつの世もそうなのでしょう。
そして結局はその解を見出せず、その人なりの解を掲げ生きていくのが現状です。ただそれもそれでいいのだと思います。
この世界は無仏法の世界(仏のみの世界)、常に水の中のわけですから。悩みも迷いも、それは大自然の如くです。我々は生きているのではなく、生かされているわけです。
しかし私でしたら、そこに明確な答えが欲しいと思います。なんというか常に横に携えておく教科書なるものが欲しいのです。あるいは全てが真実の道だとしても、そこには目印なるものが欲しいのです。
それが自分なりの教科書になってしまっていいのか?自分なりの目印でいいのか?またそのような選択をした時、最後の最後にこれでよかったのか?と思ってしまうのではないか。
そういう心配があります。
私はこのようにも思うんです。その明快な解を出し、その道を歩まないことには、人はいつまで立ってもゲームをクリアできないのだと。いつまでも彷徨い続けてしまうものだと。その人の人生に意味を持たせられないのだと。生まれきた意味がないのだと。
だから何としてでも導き出したいのです。
とはいえ、この問いは非常にセンシティブです。難解です。それこそそれを見つけるための人生なのかもしれませんし、簡単に見出すべきものではないのかもしれない。
そのように思う自分もおります。
この問いに対し、明確な答えを出せた人はそう多くいないのだと思います。先ほどのような状況でほとんどの人がこの解を導き出すのを諦めてしまう。あるいはそんなものはないと高を括ってしまう。
また人間にはさまざま事情があります。A国からすればA国のために生きること。B国からすればB国のために生きることが正解です。
このような人間的絶対的な事情も絡んできます。
正しく生きるとは非常に難しいことなのです。それぞれ考えの違う人間を同じように導くというのは非常に難しいことなのです。
そして誰もが仕方がないから事情に生きる。あるいは疑問すら抱かず、事情に終止する。個人の事情が全てだと思っている。事情に生きていいと思っている。
我々はいつもこのような有様です。そして結局は悩み、争い、果てには死んでしまう。
しかしそこには明確な答えはないと、なぜ言い切れるのでしょうか?
もしこれがわかればそんなことにはなりません。人がいがみ合う。怒りだらけの人生。そんなことにはなりません。
そして我々はもっと他の人と仲良くしながら生きていくこともできるはずです。
あるんですよ。実際に。「正しい生き方」なるものが。我々が生まれてきたからには行わなければいけないこと。夢中になるべき夢が。
私は道元禅師の教えを学んでいく上で、それがわかりました。
それを今回教示したいのです。
なぜ我々は「仏」なのか?
そこではまず「そもそも我々は仏である」という考え方が前提として必要です。
実際に我々は仏です。一般的には「人」という風な呼ばれ方をしておりますが、それは単なる人間だけの共通概念です。そもそもこの本来の世界にはそのような共通認識はなく、それは真実ではありません。それは単なる効能書きなのです。
ここでは花は枯れ、我々は年をとります。足も痛くなるし、腹が空きます。もう絶対にです。どこにいても、誰であっても、花であっても、亀であっても、鳥であってもそうです。
いつだってこの「絶対」に囲まれています。絶対の中に共に生きています。これを仏の世界と言います。この絶対を「仏」と言います。
なぜならこの世界が仏だからです。鳥の鳴き声が自身の耳を震わせますが、ここでは全てが1つにつながっており、仮にどこか遠くにいる仏ともつながっているからです。
ここで存在するもの、あるいはこの世界の事実というのは全て「仏」なのです。
そして「絶対」というのは揺るがないということです。腹が減る。この絶対的な事象。それは科学では解明されるものではありません。理屈なく生じる。駆け引きなく生じる。また夜寝ている間にも呼吸をし、消化をする。そして朝起きるとまた腹が減っている。
生きている以上、この仏から漏れることはないわけです。常に仏と接している。よって私も「仏」なのです。
肌をつねれば痛い。足を組めば痛い。私はこの仏の世界に生きている。この仏と共にある。私は「仏」なのです。
何をしたって、どうしたって、科学が進歩したって、腹が減ります。花は枯れます。肌は日に日に衰えていきます。それは止めることができません。どうすることもできないんです。我々はどこに行ったって「この事実」と常に共にありますが、その事実こそが仏なのです。私は常に仏なのです。
あるいは、このどうすることもできないこと、どうすることもできない働き。「絶対」。この世界のルール。これを仏と言うわけです。犬にも猫にも花にも蝶にも通用する話です。
この世の全てに共通した「仕組み」それが「仏」です。
我々は常にこの「絶対」に囲まれています。仏に囲まれています。死んだとしてもその骨は「絶対」に風化されます。生きても仏、死んでも仏なのです。
どうしたって仏様の手のひらの中なんです。常にこの仏様の手のひらの中で我々は生きているのです。常に仏様の言う通りなんです。我々は仏様の言う通りにするしかないんです。仏様の言う通りに生きていくしかないんです。
花は枯れていく、肌は衰えていく。これはもう絶対にです。しかしだからこそ「救い」なんです。
事実、その絶対の中で我々は今日も生きることができているんです。絶対に死ぬから生きていける。絶対に腹が減るから生きていける。絶対に自分で屁をこかなければいけないから生きていける。絶対に足を組み痛くなるから生きていけるんです。
絶対に死ねる。絶対に生きていける。絶対に足が痛くなる。だから救いなんです。だから仏なんです。ここは仏のみの世界なんです。
我々はこの「絶対」のなかだから生きていけるんです。仏様の手のひらの中だから生きられているんです。
何があっても絶対です。何があっても救われるんです。
なので全て仏様の言うとおりにしておけばいいのです。放っておけばいいのです。すでに起きたこと、これから起きること、中には嫌なこともあるでしょう。不安に思うこともあるでしょう。しかしそれでいいんです。
それでも仏様の手のひらの中です。
常に今、ここ、あるいはどこにいてもその仏様と共にあるわけです。
だから、そんな仏に従って生きていく、どうしても大自然に支配されるのだから、その大自然に支配されながら、仏に支配される。
仏に支配されるのだから、仏に仕えながら生きていく。大自然に生きていく。仏道に生きていくんです。それが我々の自然な生き方なんです。仏道こそが我々の歩む道なんです。
そしてこれが今回のテーマにおける「解」です。
もとよりこの世界は仏の世界で、ここでは全てが繋がっております。
例えば寝ている間でも呼吸をし、食べたものを消化している。その呼吸というのもどこからともなくやってきた酸素があるからできるわけだし、自分の意思とは関係なく、呼吸器官が活動しているからできるわけです。
他が自分なんです。
あるいは鳥の声が耳を震わせる。我々の命は鳥によって起こされ、生かされているわけです。
この世界では全てが繋がっており、全てが1つとして同時に存在している、同時に移動しているわけです。たった1つの命のわけです。
全てが繋がっているというのはそういうことです。我々は鳥であって、鳥であるのと同時にライオンであって、カバであって、木々であって、壁であるわけです。
全てが仏。その仏は繋がっている。私も仏であるというのはこのことです。
そんな仏のみの世界で、仏の一員である私がこの世界において行うことは、仏の行いです。仏の行いが必要であるということです。
そしてその行いでもって、我々は最終的に成仏を目指すわけです。なぜなら我々は仏であって、仏ということは成仏すること自体が目的だからです。成仏するために生きているからです。生まれてきたからです。
決して事情に生きていいわけではない。好きに生きていいわけではない。自国のために生きていいわけではない。
仏のために生きるのです。
我々は仏。仏の目的は成仏
具体的に仏である我々は何をすればいいか?
それが道元禅師がおすすめになる「坐禅」です。

足を組むと痛くなる。そこは紛れもない仏の世界です。事実の世界です。仏という事実の世界です。花は枯れ、腹が減るという世界です。そこで生きること。生き続けること。それが我々本来の生き方です。
繰り返しになりますが、我々には使命があります。それが成仏です。また行くべき道があります。それが仏道です。
これが今回最も言いたかった「我々の生き方」のことです。正しい生き方のことです。
仏道を歩むこと。成仏すること。
また「成仏」とは「仏が成る」と書きます。仏が仏をすること。仏が仏になること。仏の道を歩むこと、仏の世界に住むこと。これが行えれば「成仏」です。
つまり坐禅をすれば「成仏」なのです。そこで一瞬でも坐れば、その期間は「成仏」なのです。
「坐禅」。これが我々の正しい生き方なんです。正しい呼吸で、全てなんです。
いつの時代もそれは変わらなかったんです。これからも変わりません。これが我々人間(仏)の正しい生き方だったのです。
このことに気づけた時、悩みはなくなります。
本当にやるべきことがわかるからです。そして余命いくばくかでも、この坐禅を少しでも行うこと、仏道を歩むことで我々の本当の命が動き出します。そして成仏です。
一寸坐れば一寸の仏です。その瞬間、私と繋がった世界も成仏します。救われます。
しかしそのことに気づけない人がほとんどです。気づかずに死んでいく。それはゲームをクリアできていないのと同じです。
このことに気づかずに生きていくのは、生きていないのと一緒なのです。仏道を歩まずに生きていくことは人生が始まってもいないのです。
仏道に出会ってからが人生の始まりです。我々の本当の人生の始まりです。

しかし悩みをもつのが人間。読者の皆様にあってもきっとそうでしょう。その悩みこそが「仏」なのです。
そこに気づいた上で、今回の話にある通り、正しく生きていくのです。正しく生きていけるのです。
我々には生まれてきた明確な理由があります。生きていく目的があります。
花には花の。猫には猫の。そして我々仏には仏の使命があるのです。やらなければいけないことがあるのです。
いつの時代もこの目標だけに生きるべきだったのです。争いや騙し討ちなんてしている場合じゃなかったのです。
使命を持って生まれてきた以上、その使命を果たさなければいけません。
我々は仏の一員として、仏に仕えて生きていくのです。成仏しなければならないのです。
こうした目的をもって生きていくべきで、のほほんと生きていていいわけではありません。
またそのことに気づくために「悩み」が必要だったのです。
悩まない人間はいません。悩むから気づけるんです。そして坐ることができるんです。
そこで坐れたら、成仏です。そして成仏できたのなら、それは全てなんです。
そう思うと、ここでは悩みも必要なんです。悩みも仏だったのです。
このように思えることができれば我々はもっと毎日を楽しく、健やかに、大切に生きていけるはずです。




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