仏法に気づいてからが本当の人生の始まり。成仏すること。蕾は咲かさなければならない。

「眼横鼻直」。

これは道元禅師のお言葉です。目が横に鼻が縦に付いている。という我々の体にあっては、「当たり前」のことを述べられているわけですが、これが「全て」だったというんですね。

中国へ渡りそこで5年もの期間修行をされ、日本に帰国した道元禅師が残された言葉が「これ」です。

さらには仏法などどこにもなかったと。求めてもどこにもなかったと述べられております。

ではどこに仏法があるか?そもそもどこかにあるものなのか?

例えば「ある」ということは片方の「なし」というものも存在してしまうが、果たして仏法とはそういう「あるなし」の問題なのか?

そしてそういうことではなかったと。

今ここが全て真実。真実であり、仏法だったと。眼が横についていて、鼻もちゃんと真っ直ぐになっている。この事実が紛れもないその仏法だったと。

すると世界は全てが仏法だったと。「あるなし」の問題ではなかったと。世界は仏のみだったと。その仏の「事実」のみだったと。世界のどこにいてもその仏から漏れることがなかったと。そういうことに気づかれたわけです。

なので自分もその仏法であったと。「眼横鼻直」。これだけで良いのだと。

自分だけでなく、周りの草花、都会の喧騒、今この事実。全てが仏法であったと。

仏がこの仏のみの世界で移動している。仏している。

この世界とはただそれだけだったと。

あるいはお釈迦さまも苦行の果てに菩提樹の下で坐禅を組まれ、そこで「我と大地と同時成道」という言葉を残されております。

意味は先ほどと同様で、すべては真実むき出し、それ以上も以下もない。

自分も他も全てがこの瞬間悟っていると。

仏法とは求めるべきものではない。常に今ここにあると。となると本来何も求める必要はなく。我々は安心して生きていけばいいと。

それをお釈迦さまは我々にお伝えになろうとしているのです。

そこでこの世界の真実をいただけばいいと。この世界の事実をいただけばいいと。だから坐禅を組むのだと。坐禅を組めば救われるのだと。この世界の全てをいただけるのだと。

しかしそのことに気づけない人がほとんど。また仮に気づくことができたとしてもそのことに気づくまでに時間がかかる。

初めからこのことに気づける人はいません。道元禅師もお釈迦さまもそうであったように。お釈迦さまも道元禅師も長い間修行をされました。

我々も修行をしなければなりません。足を組まなければなりません。仏の勉強もしなければなりません。そこでは修行が必要なんです。

しかしそのことに気づけたならこんなにも素晴らしいことはありません。人生が輝いてみえる。全てが悟っている。全てが笑っている。そんなものに常に囲まれている。生きているだけで素晴らしいと思える。生きているだけでいい。生まれてこれてほんとに良かったと思える。

これがいかに人間にとって不可欠な気づきであるかは言うまでもないことです。

もとより我々は「仏」です。成仏するのが役目です。その成仏がこの気づきであり、そのための修行のわけです。我々の人生の目的は「修行」のわけです。坐禅修行のわけです。

人間はいつの時代も悩む生き物です。特に迷いや怒り、不安、悩みが多い現代においては仏法が必要です。生きる指針が必要です。

いつの時代においても必要なものはこの世界の全てなんです。この世界の事実なんです。それが仏法なんです。なのでいつの時代においても必要なものは仏法だけなんです。修行だけなんです。

何より我々は仏であり、本来生きる場所は仏の場所です。仏の呼吸をし、仏の生活をする。仏道です。

魚が水の中でしか生きられないように、我々が生きる場所は仏の世界です。坐禅の世界なのです。

苦しいのは本来の世界で生きていないからです。本来の呼吸ができていないからです。

我々はこの仏法に出会うまでは「蕾」のままです。蕾は咲かさなければなりません。

そのことに気づけたとき初めて本当の人生が始まります。人生はこの仏法に出会えてからが始まりなのです。

生まれながらに水の中にいる魚はそこが水の中であるという自覚がない。ここに一匹の考えることを知った魚がいたとして、もっと自由にスイスイ泳げるところはないだろうか。この喉の渇きを潤してくれるもっと美味しい水はないだろうかと考える。その魚は理想のすみかを探して泳ぎ回った。挙句の果てに陸の上にまで這い上がる。あっちを這いずり回り、こっちを這いずり回り。そのうちにお日様に照らされた鱗は乾き、喉はひいひい。もはや日干し魚になる寸前である。たまたま水の流れるせせらぎの音を聞いた。やっとの思いでそこに辿り着く。よく見れば、そこは自分が泳いでいた元の川であった。(中略)水の中にいる魚が、そこが水であったと知るのは思い込みでも不十分であるし、これが水であったと気づくのは一つの大きな転機が必要である。そこは理屈で説明のつく領域ではない。これがお釈迦さまの一見明星の大悟であり、道元禅師の身心脱落の大悟である。もともと水の中であったと本当に信じ切れた時である。それでこそ「一毫も仏法なし」と叫べる。世の中のこと目にうつり、耳に触れるものすべてが真実そのものであることに気がつき、仏法などと真実らしいものを求めて苦労していた愚かさに気づくことである。水の中にいる魚は迷っていても水の中である。やっとの思いで見つけた水も、もとの水であった。私たちもいかに迷ってみたところで自分の顔には、目が横に鼻が縦に付いている。さんざん苦労して悟ってみても、やはり前と同じように、目は横に鼻は縦に付いている。迷いは迷いながらに、そのままが真相である。自分の頭の中で完全とか、不完全とか、勝手に区別しているに過ぎない。迷っても、悟っても、天地宇宙には、いささかの変化もないし、増減もない。迷いながらの坐禅であっても、それは自分勝手に迷っているような気がしているに過ぎない。雑念妄想ながらの坐禅であっても、それを雑念妄想だと、自分で邪魔しているだけである。天地宇宙の真相から見れば、それはそれなりにみな真相である。迷える坐禅も、悟った坐禅も、すべて身心脱落している坐禅である。引用:良寛さんと道元禅師より

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