ある人が言われた言葉に「自分というハンドルは自分でしか握れない。」というものがあります。
また道元禅師も「眼横鼻直」という言葉を残されております。
これこそが真実だった。仏法の全てだったということですね。
今回は今述べたこの「2つのこと」について、それが一体どういうことなのかについて考えてみたいと思います。
仏法とは
「自分というハンドルは自分でしか握れない。」というのは「自分の屁は自分でこくしかない」ということだったり、「自分の排泄は自分でするしかない」といった風にも捉えられるかと思います。
つまり「かえがきかない」ということです。もう少し強い言い方をすればフィクションではない、紛れもないもの、「絶対」という風にも受け取れると思います。
絶対についても考えてみたいと思います。この「絶対」について調べてみると、
他のものと比較したり、制約を受けたりしないこと。
とあります。
「自分というハンドルは自分でしか握れない。」というのは、比較したり、制約を受けずに発生している事象。いついかなる時も条件に左右されない。条件がなくとも発生する確かなものということです。また発生しているということは確かにあるということです。
これがどういうことなのか。それは「真実の存在」だということです。紛れもないものということです。比較されて生じるものではない。条件付きで発生しているものではない。「必ず約束されている存在」だということです。
本来、確かなものというのは、このように人間の比較や概念は介入していないんです。人間の思惑がどうだろうが、それでも確かに存在している。本来の存在とはそういうものなんです。非常に頼れるものなんです。どうしても存在してしまう。本当の存在とはこれです。人間の価値観に関係なく存在してしまう。絶対に存在してしまう。だから頼れるんです。
そして今この瞬間、この事実はそのような頼れる存在ばかりであるということをこれから述べていきます。
「自分の屁は自分でこくしかない」。これがどれだけありがたいことなのかということを。

この世界の成り立ち、この世界の話
フィクションはいけません。それはフィクションだからです。そもそも存在していないことだからです。しかし我々の今の生活というのはほぼこのフィクションによって支配されています。
今の我々は他のものと比較したり、制約を受けてばかりいる。フィクションの世界の住人です。
そこで苦しんでいる。これが今の人間です。いや、今だけではなく、いつの時代においてもそうなのでしょう。
それではなぜ苦しむか?そこには支えがないからです。存在しないフィクションに身を委ねているからです。
またそこに安心を求めているからです。お金をたくさん稼いだ。それで安心したと思っている。こうした概念の産物によって安心していると思い込んでいる。
しかしそれは本来存在しておりません。そこに身を委ねようとしている。
そんな中にあっては常に不安になります。苦しいに決まっています。
その点「絶対」は確かです。フィクションではなく、リアルなんです。確かに存在しているんです。
自分で屁をこくこと、食べ物を消化すること、足を組めば痛いこと。こうした確かな存在。確かなこと。
これが冒頭の「ハンドルは自分でしか握れない」ということです。
存在こそが全てです。そもそもこの世界の要素は「存在」だけだからです。存在の話をしなければいけません。我々がここまでやってきたのも、これからやっていくのもその「存在」があるからです。この世界には「存在」しかないからです。存在だけが尊く、その存在の中で我々は夢を見たり、幸福を感じたりできるからです。
自分に触れるもの。触れて痛いもの。感じるもの。手に取ることができるもの。
この世界にはこれしかないのです。それ以外のものは存在しておりません。
我々はこうした本来あるものに対してこそ人生をかけるべきです。しかしどうしても人間はフィクションに人生をかけてしまう。
そんな世界では不祥事だらけです。不具合だらけです。
一方で「自分というハンドルは自分でしか握れない。」だったり、「自分の屁は自分でこくしかない」だったり、「自分の排泄は自分でするしかない」ということ。
こうしたことは絶対です。これだけは確かに存在していることなんです。そしてそれはこんなにも身近な我々の命の事象でもあったわけです。
つまり誰もが自分という存在こそが支えだたっということですね。そこでの足の痛み、屁をこくこと。それは概念に関わるものではありません。紛れもなく必ず存在してしまうものです。つまり絶対的なものです。
誰しもにこの絶対的なものがあって、それを支えにできたということなんです。
足を組めば痛くなること。世界はこれだけで、これこそが全てだった、そこには安心や夢も全てもあったというわけです。
それは確かに痛くなります。確かに痛くなるということは真実です。必ずそれは起こります。フィクションではなく、リアルです。
支えにできます。
この坐禅が基盤です。確かな命。そこから全てが始まるのです。この世界にはこの「坐禅」しかないのです。
そしてこの「確かな存在」を「仏法」と言います。
世界は仏法のみ
あえて言うまでもないですが、世界はその要素、この仕組みだけだったのです。
リアルだけ、確かな存在だけだったということです。先ほども述べた通り、世界には存在しかありません。存在によってできている。
それらは全て紛れもないものです。つまり真実です。
真実だけによってできているのです。
例えば今こうしている間に鳥の声が聞こえる。あるいは腹が減る。
これら実際に起こる事象、そのどれもが絶対的なことです。絶対に聞こえるし、絶対に腹が減ります。
我々の生活というのは常にこうした絶対に囲まれているのです。真実のみに囲まれているのです。
そしてそういった事実のみが展開しているのです。
ということは「今、ここ、この事実」どれをとっても絶対であり、それは絶対的に紛れもない真実が展開しているということなんです。
「事実」というのは、どれもが全て絶対なのです。どれもが「真実」のみだったのです。そこには必ず仏様の息がかかっていたのです。
どれもが全て仏法だったんです。事実こそが「真実」、あるいは「大自然」だったのです。
今、ここ、この瞬間、そこは事実のみです。すなわち全て仏のみだったのです。それはとてもありがたいことだったのです。
我々は常にその「事実」に囲まれています。何があってもそこには「事実」がある。事実が何よりも尊いんです。
今、ここ、この瞬間が何よりも尊いものだったんです。
雲門禅師のお言葉に「鉢裏の飯、桶裏の水(お鉢の中にご飯があるよ、桶の中に水があるよ。)」というものがあります。
今の事実を表している言葉なのでしょう。そして「仏法」の全てが言い表されている言葉だったのです。
こんなにもありがたい言葉はないんですね。救いを現した言葉だったんです。
血縁関係にこだわる必要もなければ、在家出家にこだわる必要もない。職業もなんだっていい。こだわる意味は何もありません。苦しむ必要もどこにもない。事実が全て仏法だからです。
とある人は「あなたの考えは混ぜ込みご飯のようなものだ」と批判を受けたと言います。その対象が「概念」だということはさておき、しかしその混ぜ込みご飯が何よりも尊い。比較できないほど尊い。それは100%だからです。混ぜ込みご飯という「事実」だからです。
この世界はそんな事実のみです。この世の全てが仏法だったんです。
形になること。形になったということはそれは本当です。真実です。この世界の正体です。この世界の全てなんです。この世界が仏の世界だろうが、そうじゃなかろうが、その事実だけ、本当のことだけがこの世界の「本当」です。その「本当」の中に夢も、目的も、なんでも全て含まれるわけです。
存在が尊いんです。事実が尊いんです。
この世界にある「確かなこと」。話はそれだけなんです。それが全てなんです。確かなことだけがこの世界の住人なんです。
それは絶対にこの世界の正体なんです。この世界の心臓で、尊いことなんです。それを仏と呼びます。呼び方はなんでもいいんですね。例え混ぜ込みご飯であっても、なんでも尊いんですね。
私が今、ここで坐禅だけすればいいんですね。そこで「この世界の事実」を頂けばいいんです。足を組むと痛いです。これは紛れもないことです。それは本当のことです。つまりこの世界の正体です。この世界のすべては坐禅なんです。全てが仏だったんです。坐禅をすること、それはこの世界のすべてをいただくということです。仏をいただくということです。全てが果たせられるということです。すべてをいただくのが坐禅です。

事実は全て「宝」。
確かなこと、確かな痛み、それはこの世界の宝です。仏という世界の宝です。事実は全て宝です。仏の宝です。
冒頭の「ハンドルは自分で握るしかない」。それはややもすると面倒なものとして捉えられがちですが、しかしそれは紛れもない事実であり、我々の宝だとうことです。
誰しもにそのハンドルが必ずついているということです。それを握る。足を組む。それがこの世界の宝なんです。この世界の全てなんです。この世界の事実なんです。
そこには全てが含まれます。仏と一体の自分も、成仏も、救いも。
普段人に怒られる、注意される。それでもいいと思えるはずです。そこには事実があります。そこには仏の宝が展開しています。全てが展開されます。
あるいは「おい!」と呼ばれ「はい!」と言える。咄嗟に、即座に反応してしまったこの「事実」。その「事実」が何よりも尊いということです。それが仏の命そのものだからです。
「眼横鼻直」
この世界には事実しかありません。あらゆるものが事実です。あらゆるものが仏です。つまり仏しかないのです。
この事実の正体に気づけた時、どんな境遇でも全てが理屈なく親しめるはずです。そこでは事実が、仏が待ち構えてくれているから。360度。あるいは国外、田舎町どこに行っても仏のみだからです。
全てをありがたく受け止められる。全てが愛せる。そのように生きられるはずです。
そういう境地にいけたらどんなに幸せか。
仏道に出会うことで全てが輝き始めます。
仏道に出会ってからが本当の人生の始まりなんです。この境地に至ってからが人生の始まりなんです。

そのためには問答無用で修行が必要です。私もまだまだ修行しなければなりません。
良寛さんが子供たちに呼ばれて「はーい」と返事をする。それは良寛さんがそういう境地だったからですね。全てと親しんでいたからです。事実のみのこの世界を、仏のみのこの世界に生き、その事実と遊んでいたからです。仏と遊んでいたからです。
人間という垣根が取れて、仏として生きられて、仏のみの世界で生き、全てと親しんだ人になれたからです。
今、ここ、この事実を抱きしめ、何よりも楽しんでいたからです。
良寛さんはそのような境地に至るまで大変な修行をされました。並大抵の努力では務まらないほどの修行でした。
「災難にあう時節には、災難にてあうがよく候。死ぬる時節には、死ぬがよく候」
できれば全員の人がこのような境地を目指したいところです。そのために仏法はあるものだと思っています。
何があっても、事実のみ、これからも、今までもです。
生きても、死んでも、そこでは常に事実のみです。それはすなわち「仏」のみなんです。全てがそこに含まれる。全てがその事実に含まれる。そこには仏が含まれている。死んでも全てが仏として生きているということです。そこに我々も含まれます。これがすなわち、全てが仏の命として繋がっているということです。事実のみというのが仏と一体ということなのです。
しかるに、どんなことも全てありがたいことなんです。
貧乏で毎日パン一切れの生活が続いても。あるいは子供に恵まれなくても、その時々がその時々で全てが素晴らしいんです。なぜならそこには必ず事実があるからです。すなわち必ず仏のみだからです。
今ここは事実のみです。仏のみです。
今のこの事実(仏)にどれだけ親しめるか。それが我々仏の役目です。本来仏である我々の役目です。生涯この事実とともに生きていけるか。事実を味方にできるか。
それが仏とともに生きていくということです。足を組むということです。仏道を生きるということです。
人々を救うというのは、世界を救うというのはこの事実ともに生きていくということです。
そこでは必ず世界すべてが皆共に笑っている世界を実現することができるからです。仏道とはこのことです。
本来全てが事実を展開、つまり真実、仏を展開しています。
今この瞬間の全てがです。
それは全てが本来笑っているということです。
生きていると常に事実のみです。それは常に皆が笑っているということです。
生のみ、死のみ。どちらであってもそれは常に仏のみといことです。
常に楽しい、常に救われているということです。
腹が減る、足を組めば痛い。しょんべんを毎日しなければならない、ハンドルは自分でしか握れない、これに着目して生きていく、大切にして生きていくこと、これが仏道です。
この世界のどこを見回しても迷っているものはどこにもありません。
毎日つまらない。会社に出勤して、同じものを食べる。当たり前の生活。
しかし当たり前でいいわけです。当たり前がいいわけです。その事実が仏法のわけです。
当たり前はこの上ない仏法のわけです。
この事実には概念が本来介入できません。優劣を下せないのです。
事実というのは確かな存在だということ。その事実が仏法です。そしてこの世界にはその事実しかありません。事実は紛れもないものです。だから事実は尊いのです。
いまこうしている間にも事実のみです。
この世界は事実のみです。紛れもないもののみです。真実のみです。
貧乏には貧乏の、金持ちには金持ちの境遇がある。しかし形は違くてもそれは紛れもない事実。すなわち真実なんです。どんな人生でも素晴らしいんです。
生きている事実、死んでいる事実。この世界は仏のみです。
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