「仏法とは道理の教えである。」
これはかつて永平寺で修行され、その後總持寺でもご活躍された佐藤俊明老師著の「修証義に学ぶ」という書籍に記されていた言葉です。
まさにその通りだなと共感したので、今回その思いについて述べてみたいと思います。
仏法とは道理の教え
「仏法とは道理の教え」とはどういうことか。
それは例えば足を組めば痛いということ。肌をつねれば痛いということ。その通りの教えだということです。
足を組むと痛くなる。肌をつねれば痛くなる。そこには行きつまりがありません。邪魔もない。そうならないことがない。つまり約束通り。ただまっすぐな道の如く、理にかなっている状態。まさに道理です。
また物事というのは全てこの道理に従っているんですね。大地震がいきなり起こるのもそう、雨が降るのもそう。何かしらの音が聞こえるのもそう。起きるから起きる。
この世界の法則。それを道理と呼びます。この世界の正体ですね。それが道理です。
それでは次に「仏法」が、あるいは「仏」がこの道理だというのはなぜか。
そもそも仏とはなんなのかということですが、一つ確実に言えるのはそれは「この世界」のことだということです。なぜなら我々にとってはこの世界しかないからです。それは「今、ここ、この自分」が証明しております。
なので例えば「真実」もこの世界のことですし、仏もこの世界のことです。そしてこの世界においては全てが1つにつながっている。鳥が自分の耳を振るわせる。ブルドーザーの排気ガスが自分の鼻に入る。におう。全てが自分で、自分が全てです。ここでは全てが同時で、全てが仏なのです。
そして冒頭のように、この世界には道理しかないからです。この世界の真実がこの道理だけだからです。だから仏とは道理のことだというわけですね。
あるいは全ては全てと同時であるわけだから、他でもないこの「自己」が仏教だったり、仏であるというわけです。この世の全ては要するに、この「自己」が展開しているに過ぎないのです。
そう、仏教とは「自己」のことなのです。
足を組めば痛い。痛いから痛い。腹が減るから腹が減る。聞こえるから聞こえる。世界は全てこれです。これだけです。これしかありません。
なぜ痛くなるのかと我々はこの頭で探りたくなるわけですが、痛くなるから痛くなるわけです。
そこにそれ以外の答えはありません。あらゆる物事の仕組みは「痛くなるから痛くなる」という道理だけ。それだけなんです。この世の正体は「痛くなるから痛くなる」というだけなんです。それがこの世界の約束事なのです。
世界にはこれしかない。世界は道理のみなのです。この道理が仏そのものなのです。
真実はこの足を組めば痛いということ、腹がへるということなのです。この道理のみなのです。仏教とは、あるいは真実とはこのことなのです。この教えなのです。
足を組めば痛い。痛いから痛い。腹が減るから腹が減る。聞こえるから聞こえる。これは人間からすればある意味、納得のいかない説明だとも言えるかもしれません。
しかしどんなに頭で追及しても、結局は何もわからないのです。どんなに頭が良くなっても腹は減るのです。その腹を理屈で満たすことなどできないのです。
自分が寝ている間も休まずにこの体は呼吸をし続けています。理屈なしです。自分が食べたものも欠かさずに消化してくれます。大好きなお肉は消化するけどピーマンは消化しないなんてことはありません。
我々の命はこうした理屈なしの命です。人間の理屈ではなく、大自然の道理、正真正銘の道理によって生かされているのです。
痛いのはなぜか?腹が減るのはなぜか?そんなこと頭で考えても原因なんてわからない。仕組みなんてわからないわけです。
それにそんなことわからなくていいんですね。分かろうがわからまいが、痛いものは痛いのです。腹が減るものは減るのです。頭がどんなに良かろうが、どの国籍、どの生まれ、貧乏であろうが、なんだろうが、そのようにしかならないわけですね。確実に道理通りになっているわけです。
誰もがこの世界の当事者。頭が良かろうが、悪かろうが、誰もがこの世界の恩恵を100頂けるのです。頂いてしまうのです。
それはある意味、お救いなのです。誰にとっても道理通り。誰がやっても足を組めば痛い。
このようなことが仏教の真髄です。仏教はお救いなのです。
道理とは救いで、道理とは仏なのです。これが仏教なのです。
またそこでいうと「仏道者」というのはその道理に生きる人のことです。真の仏法者とは、その道理に従う者のことです。道理に生きる者。道理を行う者のことです。そしてそれは足を組めば痛いという道理に生きる、坐禅を組む人のことだということがわかる訳です。
あるいは今回の道理のことを事実と呼んでもいいと思います。いまここにある事実は全て道理に叶っているということです。事実が仏の教えということです。事実が仏法だということです。
我々はその事実において生きている。全て道理通りに生きている。道理の内で生きている。常に事実が、道理が目の前に展開しています。我々は常に事実と、道理とともにあるということです。
仏と共にあるということです。常に仏教と共にあるということです。
私自身がその道理だということです。肌をつねれば痛い。痛いから痛い。腹が減るから腹が減る。こうした道理通りの仕組みをしております。道理通りの命を生きております。
私が仏であるということです。私が道理だということです。
生きているということも、死ぬということも全て道理の内です。生きるから生きる。死ぬから死ぬ。事実の内です。ということは生きているものすべてが仏です。死んでいるもの全てが仏だということです。死しても尚、仏だということです。
しかし人はこの道理を蔑ろにしてしまう。事実を軽んじてしまう。そのような道理や事実は人間生活に邪魔されてしまう。
この道理や事実を無視して仏は見えてきません。頭の、概念めぐりの世界ではなく、この実物、事実にしか仏はいないのです。
繰り返しになりますが足を組めば痛い。痛いから痛い。腹が減るから腹が減る。聞こえるから聞こえる。世界は全てこれです。これだけです。
そしてこの道理、あるいは事実こそ、最も尊いもので、仏の教えです。世界に存在しているのはこれだけだからです。
それでも我々はなぜ腹が減るのか?なぜ痛いのか?なぜ聞こえるのか?ということだけに注目してしまいます。そこだけを追求してしまいます。それが大切なことだと、それが本当の道理だと思っているわけです。
それは概念のせいですが、そのせいで道理の外を見てしまう。道理の外を生きてしまう。これが人間です。仏の外を生きてしまう。
確かに無理もありません。我々は常に頭が先行してしまう。人間では道理を生きられないのです。真実を生きられないのです。人間生活ではやはり道理はないがしろにされてしまう。最も大切な、この世は仏だけだというのに、この道理にその仏が詰まっているというのに、それが見えてこない。仏が見えてこない。仏と出会えない。
そして一生が終わってしまう。それが人間です。
そこをなんとか頑張って、足を組みましょうと道元禅師は言われる訳ですね。
あるいはそうなるための修行であり、人生なのです。修行が人生なのです。修行が我々人間にとって生きるということなのです。
なんとかこの道理に気づいて欲しいというわけです。この世界で最も大切な道理、仏教に気づいて欲しいというわけです。その道理に生きて欲しいわけです。
あるいは「平常心是道」。瑩山禅師も、日常や事実の尊さをお伝えになる訳です。
人の世界では道理を歩みたくても歩めない。仏の世界にしか道理はありません。この道理を生きるのが我々の本当の道です。道理を歩むこと、足を組むこと。仏道を歩むことが「仏」である我々の本当の生き方です。
道理を重んじるこの仏教を信じられない、蔑ろにする。あるいは見ようともしない。仏教国と呼ばれる日本ですらそのような人間が多いわけですが、そのような人間は盲目で、わからずやだということですね。この世界で最も大切な道理を大切にできない大馬鹿者だということです。
仏教を信じられない、仏教を蔑ろにする。それは道理がわからない、物事の命がわからないとあって、とても悲しいことなのです。
最後は乱暴な物言いになってしまったことをお許しください。
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