道元禅師は「本来我々は皆仏であるというのに、なぜその上で修行をする必要があるのか?」という疑問を胸に中国へと渡りました。
そしてその中国で如浄禅師と出会い、その解を見出します。かの「身心脱落」です。
今回はその「解」に関する話です。
我々は確かに「仏」です。
鳥の声が私の耳を震わせ、どこからやってきたかもわからない酸素によってこうした私は生きながらえることができます。
この世界では全てが1つにつながっており、仮に「仏」が目に見えないどこか遠くにあるものだとしても、それとも確実につながっているからです。ここでは全てが1つにつながっている。仏と私は同一なのです。
お釈迦さまも「我と有情と同時成道」という有名なお言葉を残されております。この世の全てが真実むき出しだと。
我々は「仏」であり、「真実」であると。
なのになぜ修行が必要なのでしょうか?
仏を捨てることが正しく生きるということ
「大通智勝仏」という有名な公案があります。
興陽山の清譲和尚に、ある僧が質問しました。
「かの大通智勝仏は十劫もの長きにわたり悟りの場にて坐禅をしておられたが、仏法は現れず仏道も成就しなかった。なぜでしょうか」と。
「大通智勝仏」とは、全てに通ずるあらゆることに秀でた仏さまのことを言います。
冒頭の話とこれは似ており、「なぜ皆仏であるのに、ましてや大通智勝仏ほどの方が熱心に坐禅をしておられるというのに、仏になることができなかったのか?」というわけです。
つまり「なぜ我々はみな仏なのに修行が必要なのか」と。「なぜ皆仏なのに仏になれないのか」と。それはつまり仏として生きるということはどういうことなのか?我々にとって正しい生き方はなんなのか?ということを聞いているということです。
坐禅はまず「仏行」です。坐禅こそが「仏」そのものであり、坐禅をすればたちまちに「仏」になるというのは絶対的な事実です。
この世界は仏のみの世界で、仏である私がそこで坐る(仏をする)こと、その時点で仏であり、完成であり、我々はあとはその世界にいるだけでいいと。その努力をするだけでいいと。それが坐禅だと。こういう絶対的な事実があるわけです。
にもかかわらず、仏になれないというのはどういうことか?というのが、この僧の疑問だったわけです。
それはそれは、とても重い悩みだったことでしょう。かならずや解決しなければならない問題。そのように感じていたはずです。
この公案の結びとして、興陽和尚は、「死んでいないからだ(仏にならないからだ)」という風にお答えになっています。
繰り返しになりますが、本当にこの世界は仏のみです。仏以上も以下もない世界。これは先にも述べたように決まっていることなのです。これは確かに揺るぎのない事実なのです。
しかしそうなると、この世界で、仏になること、仏とは何かを掴もうとすること自体がいかに的外れのことかがわかるわけです。
それはまるで自分の目で、自分の目を見るようなものだということです。水の中にいるのに、水を探し彷徨っているのと同じことです。どんなに頑張ってもできないということなのです。
全てが仏としての存在で、真実の存在なのだから、水の中にいる魚のように、本来我々もこの世界において、生きて死ぬ。それだけでいいわけなんですね。またどんなに頑張ってみても、言ってしまえばそれだけを行っているわけです。それだけしか行えないわけです。
そしてそこで死ぬことをした時、初めてこの仏のみの世界から離れ、魚が水から離れるように、その仏を見ることができる。手中に収めることができる。
なので興陽和尚も「死んでいないからだ(仏にならないからだ)」という風にお答えになったのだと思います。死ぬことで初めて仏になれるのだと。
ただ今回の公案において言っていることは、そのような表面的な部分ではないわけですね。
つまりそこでは「どう生きるか?」ということ。「なぜ我々は仏であるのに修行が必要なのか?」という、我々にとっての本当の生き方とは何か?という生命の本質とも言えるべき中身の部分が問われているのです。
この時の僧もそこをきちんと解明したいと思っていたはずです。
我々にとっての本当の生き方とは何か?
まず我々は本来皆仏です。それは確かに決まっていることです。従ってこの世界では仏として生きていくことをしなければならず、それが我々にとって本当に生きるということなのです。それが道理です。仏として生きるということが我々にとって本当に生きるということなんです。
魚は魚だから魚なんです。我々も人以前の、本来仏だということで、ここでは本来仏として生きていかなければならないわけですね。
そしてそれができたとき初めて、我々はこの世界で呼吸ができるようになるのです。正しい呼吸が、仏の呼吸ができ、生きられるようになるのです。
しかし今の我々はどうでしょうか?人として生きてしまっているわけです。それは魚がただ水の中を泳いでるのと同じではないということなのです。
頭を鍛え、さまざまなことを考え、さまざまなことをやってしまう。物事を相対化して、本来2つとして分かれないこの世界を2つに分けてしまう。仏の世界から離れてしまっている。人として生きている。人という世界で生きている。人という別の世界からこの仏のみの世界を眺めている。
魚は生まれながらにして魚であり続けることができます。魚は魚以外になれないからです。そこでは仏であり続けることができますが、頭を使う我々は残念ながらそうではないということですね。
普段我々は、普通に生きて死んでいけばいいと思っています。それが幸せだと。それが当然のことなのだと。しかし普通に生きているだけでは、それは実は生きていないのです。人として生きている間は「生きていない」ということです。人として会社に通い、文明を築く、そのような生き方をしていてはそれは一生できないということです。それでは一生生きることも死ぬこともできないということです。
その理由をこれから語っていくわけですが、残念ながら今の人間のほとんどがそのような生き方をしているのが現状です。
そこを修正する。本来の方向に転換する。そして仏として生きていく。
それが「修行」です。
つまり仏として生きていくためには修行が必要なんです。我々が正しく生きるためには修行が必要なんです。そして正しく生きていないうちは生きていないということであるならば、それを常にし続ける必要があります。常に正しく修正しておく必要があるわけです。
つまり「修行」そのものが生きるということなんです。修行し続けなければ生きられないのです。
冒頭でも述べたようにこの世界は仏のみです。その仏のみの世界で、仏が仏の上で仏になろうとしたり、仏とは何かを掴もうとしたり、探ろうとすること、これは全く不要なことなんですね。それは水の中にいて水をつかむような事で、そもそも不可能なことなのです。
これまで語ってきたような、仏として生きる必要など本来必要ないわけです。正しく生きる必要などどこにもないわけです。どんなに頑張っても「仏」はもう「仏」にはなりようがない。それが道理なのですから。
しかしややもすると我々は今みたいに仏になりたがる。仏を他に求めてしまう。悟りを開こうとしてしまう。正しい生き方とは何かを探ろうとしてしまう。
さらにそんなことにすら挑戦もせず、気づきすらもせず、ただ人として普通に生きている。人間としての生き方をしている。
これが我々の「誤り」なのです。
これは仏を別に作り出してしまうことになるんですね。つまりこの仏のみの世界を2つに分けてしまうことで、やってはいけないことなのです。
今回の公案における修行僧も要するに、このような捉え方をしていたというわけです。
それは仏の生き方に反するのです。それは正しい生き方ではないのです。正しい生き方をしなければいけないわけですが、仏や正しい生き方を探し求めている。あるいはそれを掴もうとしている間は生きていないということなんです。それはまだまだ迷いの中にいる人間や、一般の社会で生きている人間と同じだということです。
我々は仏でもあり、また人でもあります。そこでは人として生きていくのが当たり前です。常に「人としての活動」が付きまとうはずです。疑問すら湧かない。しかしこれがある以上誤りだということです。つまり我々にとって生きるといういことは常にそこの修正なんです。我々が生きるということは常に修行し続けるということなんです。
繰り返しになりますが、仏である我々は仏として生きること。それが正しく生きるということです。これが我々にとって本当に生きるということです。それが重要なのです。それだけにならないとダメなわけです。
そこでは別に仏を作り出してはいけないのです。この世界は仏のみなのですから、それを眺めたり、捉えようとしたりしてはいけないのです。しようと思ってもできないのです。
我々人間が普段やっているのは全て「一人相撲」だということです。
そこを気をつけてくださいよと。くれぐれも概念には気をつけてくださいよと。でないとそれは本来の命を殺すことになるから。仏を殺すことになるから。非常に重い罪になるからということです。正しい生き方とは何か?仏とは何か?そういうことを求めないでくださいよ、というわけです。
頭で理解しようとすることは、本来の命を捨ててしまうということです。
頭の理解というのは、要するに物事を相対的に眺めた上でできることだからです。物事を2つに分けた上でできることだからです。要するに本来2つとして分かれない物事を2つに分けてしまう、本来の命を殺す誤った行為だということだからです。
それでは、我々一人ひとりが正しい生き方を求めずに正しく生きていく。あるいは仏を求めずに仏になるためにはどうすればいいか。本来の世界を2つと分けずに、1つとして生きていくためにはどうすればいいか。正真正銘、本来の命を生きるためにはどうすればいいのか。
そこで「坐禅」なのです。「坐禅修行」なのです。
なぜなら坐禅はこの世界そのものだからです。足を組めば痛い。坐禅はこの世界の正体そのものだからです。そこで足を組んだ時点でこの世界と同時になるからです。
この世界と同一であるということで、物事が2つに分かれる以前の出来事だからです。これまで述べてきた本来のあり方だからです。またそれは本来仏のみという世界そのものだからです。
ただただ、この世界と同時であるため、正真正銘の「仏のみ」だということなのです。また頭でどんなことを考えていたって関係ありません。坐禅中は人間活動は何もできないからです。それは何もなかったかのように消えていくはずです。
なぜ坐禅を組むのか?なぜ大通智勝仏は坐禅をひたすら組んでいたのか?あるいはなぜ修行が必要なのか?人の本当の生き方とは何か?
それは悟るためではないですね。仏になるためでもないわけです。
坐禅をしている、坐禅修行をしている、それはそこで「(正しく)生きている」ということ。あるいはそこで「(正しく)生きていた」ということなんです。
正しく生きることで我々は生きることができます。その我々が正しく生きるために行っていることです。そして明日も明後日も生き抜くために行っていることです。この世界で呼吸をし、成仏するために行っていることです。
坐禅が「生きるそのもの」なのです。
これが先ほど同じく生きるために修行が必要な理由です。我々が生きていくということ、それ自体が修行だということの意味です。
大通智勝仏はだから坐禅をされるわけです。道元禅師もだから只管打坐をおすすめになるわけです。坐禅こそが、我々の生きるそのものだからです。生きる目的そのものだからです。
坐禅こそ、修行こそが我々の呼吸だからです。生きる手段そのものだからですね。魚が今日を生き抜き、明日も生き抜くための方法だからです。
我々もただ、ただ正しく生きていかなければならない。仏として生きていかなければ生きていけない。それをするために坐るのです。生きていくために坐るのです。
我々人間はややもすると悟りや仏になろうと手を伸ばしてしまいます。仏を別に捉え、世界を2つに分けてしまうのが人間です。この仏のみの世界で、仏になること、あるいは仏を別に作り出すことはできません。不可能です。しかし放っておくと、そういうことをしてしまうのが人間です。気づけば仏を捨てて、殺してしまうのが人間です。人間活動に終始してしまう。
そうなった瞬間、我々は正しい命を生きていないんです。そしてそれはそもそも生きていないということなのです。
生きるためには常に正しく生きられるようにする。そうならなければならないわけです。頭の中にある仏を捨てて、何も持ち出さずに「一」と同一になる。仏そのものになる。それが坐禅であり、修行なのです。
生きるために修行するんです。生きることが修行するということなんです。
道元禅師の『正法眼蔵』生死の巻に、
ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる。
という一文があります。
これはただ自分の身体も心も、すべてを投げ出して、仏の教えに身を任せ、仏の導きに従って生きる時、力も入れず、心も費やすことなく、生死を離れて仏となることができるという意味です。
身も心も、あるいは全てを捨て、世界と一体になることが我々にとって、本来の生きていくということです。「身心脱落」です。道元禅師もこのことを中国で悟られたのでしょう。
それはある意味「仏を捨てる」という事です。「仏を持ち出さない」ということです。常に呼吸をし続けるために。1つとしてありつづけるために。仏と共にあることを目指すこと。それが我々の正しい生き方、生きるべき道です。
常にそうなれるようにしなければならない。
我々はただ生きているだけでは「生きて」はおりません。真実に生きてこそ初めて生きているということなのです。しかし人としての生き方が優先される今日、我々はどうしてもそれができません。それを修正するのです。明日も明後日も常に修正するのです。
生きている間、常に修正し続けるのです。でないと、生きられないのです。魚として、仏として生きられないのです。一生坐禅をし続けることが、我々が生きるということなのです。生きるためには坐禅が、修行が必要なのです。
我々が生きること、それは坐禅をし続けるということです。修行し続けるということです。
魚は水の中を泳ぐだけでいいわけですから、人間とは不便な生き物ですね。
我々は一人ひとりが仏であると、頭で理解して終わりじゃないんですね。そこからが始まりなんです。
そこから生きていくんです。そこから生きていかなければいけないのです。
今回のことに気づけなければ我々は生きていけないんですね。一生生きていけないのです。一生成仏ができないわけです。一生役目を終えられず六道輪廻を巡ってしまうわけです。
仏教の、あるいは道元禅師の教えの重大さは計り知れません。
再三の繰り返しになりますが、生きるために修行をし続ける。坐禅をし続けるのです。我々が生きていくこと。それ自体が坐禅であり、修行です。
仏を捨て生きること、この世界から仏を捨て去ることが、真に仏になるということなのです。仏を捨てることが正しく我々仏が生きるということなのです。
今回は非常に歯切れが悪い内容になってしまったと自負しております。言いたかったことが伝わっているか不安です。私にとって非常に重要な部分だっただけに心配です。なんとか伝われば幸いです。
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