我々は仏です。人間ではありません。
今回は生物学的な話かな?哲学的な話かな?この人大丈夫かな?
いつも心配をかけ、本当に懲りないやつで、すみません。笑
そこでいうと私自身、今回の話がどういったジャンルに該当するのかわかりません。
いつも意味不明な記事ばかり書いてしまい、読者の方にはご迷惑をおかけしすみません。
これは真理の話というか、真実の話というか、いわゆる「仏道」の話ですね。これは仏道の話です。
強いてそこにジャンルを設けるのであれば「生物学」の話になるのではないかと個人的には思います。
我々は形式上、生物学的には「人間」というのは間違いないのだけれども、それは本質ではありません。本当のことではありません。
我々は人間ではなく、「仏」なのです。
それではなぜ人間ではなく、仏なのか?またそこにこだわる理由は何なのか?
そう言ったことを今回はお伝えします。
また仏である我々は事情に生きてはいけない。人情に生きてはいけないのです。
仏である我々は仏道を歩む。仏として生きることです。
それが我々の正しい生き方です。またそれを後世に伝えることも重要な使命です。仏道に生き、それを後世に語り継いでいく。これが我々の本当の生き方です。

そうすることで我々は成仏できるからです。本来の役目を全うできるからです。
さらに仏道に生きることが我々の幸せだからです。
本記事はそのような話にもつながっていきます。
また皆さんのためだけでなく、自戒の意味も込めて本記事は書かせていただきました。
納得ではない命、人間ではない命
それでは早速ですが、なぜ我々は「仏」なのかということです。
これを一言で表すのはとても厳しい問題なので、いくつか順を追って説明します。
まず「説明できないから仏」である。というような捉え方を私はしています。
我々は何一つ納得できない命を生きて、また同時に何一つ納得できない世界に生きております。
例えば、腹が減るのも、排泄するのも、納得なしに起こります。
仮に「お腹が空くのはエネルギーが消費されるから。生きていくにはエネルギーが必要でさまざまな栄養素を摂る必要がある。それを体が無意識に求めているから。」このような説明がつけられたとしても、その作動は止まりません。止めることができません。それは納得しようがしまいが起こるものです。
納得はこの本質とは関係がないのです。
また我々が身を置いている世界もそうです。いきなり大地震が発生します。雨が降って。朝が来て、夜が来ます。
花も枯れるが、しかしまた一年後に顔を出します。
「大気中の水蒸気が上空で冷やされて雲に変わり、そのせいで雨が降る。」頭の良い人間はここまで解明できるようになりました。しかしそれもまた同様に本質ではない。それは単なる説明なんです。
事象の説明なんです。命の説明なんです。
納得や説明というのは本質ではないんです。同じベクトルに立ってはいないんですね。
命だけがこの世界にはあるのです。実物や事象だけがこの世界の登場人物なのです。
「人間」というカテゴリもまさにそうです。我々は猿人類で、祖先をホモサピエンスという。しかしこれらも全て説明です。「人間」というのは単なる説明であり、納得なんです。
例えば我々の生命活動やこの世界の自然活動を「ゲーム本体」だとして、納得や説明というのは単なるその「説明書」でしかないのです。
つまり納得というのは所詮は「生きていない」のです。存在していないのです。
今こうしてPCをタイピングしている私。それは人間であるのは間違いありません。しかしそれは単なる何かに対しての説明だということです。このタイピングしているのは誰なのか?何なのか?ということです。
この本質は何か?
絶対とは救いのこと
しかしそれだけで我々が仏である証拠にはなりません。
少し視点を変えます。
我々は仏というと何をイメージするかというと、「救い」です。
そして救いとは何か?というと、「絶対的なもの」だということです。
絶対は裏切りません。そこに安心を覚えるし、何よりも絶対ということで、それは救い以外の何者でもないわけです。
仏とは救い。救いとは必ずそうしてくれるというものです。つまり絶対ということです。絶対が救いなのです。絶対が仏なのです。
実はこの世界は絶対だけなんですね。先ほどの腹が減る話がありましたが、絶対に腹が減るのです。絶対に肌をつねれば痛いのです。
また全ての事象はすでに起きたことか、これから起きることです。
前者であれば絶対おきたこと。後者であればこれから絶対そうなること。
このように世界の全ての要素が絶対なんです。絶対に囲まれているんです。
今目の周りに目向けると色々な音が聞こえる。絶対聞こえます。今こうしている間にも確実にお腹が減って、さっき食べ物たものを消化しています。
絶対にです。
事実がすべて絶対なんです。この世界はその事実のみなんです。必ずそうなるんです。決して裏切らないんです。
裏切らないから救いなんです。それが世界です。すなわち救いのみなんです。ということは仏のみなんです。その世界の住人であるからこそ我々も仏なんです。
実際にこの体は絶対腹がへっています。絶対足がいたくなります。この体も絶対のみなんです。だから我々は仏なんです。
仏はこの世界にあるもの
ここまでの説明で私は我々の存在は「仏である」と納得することができました。
しかしここではもう少し踏み込んでみましょう。
今肌をつねれば痛いはずです。足を組めば痛いはずです。我々は確かにこの世界生きているということはこれでわかります。


紛れもなくこの世界の住人だということですね。紛れもなくこの世界に生きているということです。これは確かなことです。
例えば仏というと、どこか空想じみたものを想像してしまいます。怪獣や妖怪なんかと同じものなのではないか、そのように思われてきます。
しかし仮に仏がその空想だとして、全てはこの世界の話なんです。空想も現実も全てこの世界の話なんです。
この世界の私が空想している。しかしそれはこの世界の話だということです。この世界が全てだということです。この世界に全てがあるということです。
そしてそんな世界に確実に我々は生きているわけです。
ということは、仮に仏というものがあったとして、その仏というのもこの世界の話だということです。仏もこの世界に含まれているということです。
全てがこの世界に含まれているということです。全ては全てということです。
今想像できないことも、一生想像できないことも。今つかめないことも、一生つかめないことも、全てこの世界にあるというわけなんです。
そんな世界とあなたは1つなんです。仏だけでなく、全てとあなたは一つなんです。
あなたは「全て」だということです。
ここでは鳥が自分の耳を震わせます。壁が自分を痛くします。鳥が自分で、壁が自分だということです。
このようにすべてが自分だということです。自分とは全てだということです。すべてが1つだということです。
仏も自分。妖怪も自分です。
またそこでは全てが生まれていなければ、死んでもいない。
人間を超越しているのです。「人間」という枠組みの一箇所にとどまることは決してないのです。
全てが一(鳥)で、一(鳥)が全てなんです。
このような全てを超越したように見えて、それでもたった1つのこと。
私はそのような膨大なことをとても言い当てることができません。誰も言い当てることができません。なのでそんなことを我々は「仏」と呼んでいいのだと思います。
また仏というものがあったとして、それは確実にこの世界のことです。そしてその世界にあなたは確実に生きています。肌をつねってみてください。
そこではたった1つの命なんです。仏としてあなたは生きているし、妖怪として生きている。要するに我々は全てなんです。仏なんです。
最後の部分はかなり飛躍的な話になりました。やはり仏であるということを根拠立てて説明するのは難しいです。そもそもこの世界は説明や納得ではないからです。この問題もおそらくそうでしょう。
言ってしまえば納得ではないこと、それが仏なんです。
結局はこれが仏だとか、人間だとか、そんなことがわかっても、それも冒頭にもあったように説明にしかなり得ません。それは存在していないのです。そんな参究には意味がないのです。そんなのはどうでもいいことなんです。
我々にはこの事実があって、その事実には全てが含まれるということ。一方でこの事実しかないということ。なのでその事実に生きるしかないのです、事実に従うしかないのです。
しかしその事実だけが全てであるということは、その事実はきっと仏以上に尊いものです。
なので私は足を組みます。それが全てだからです。
私は坐禅を信じています。そして我々が仏であるということを確信しています。
その確信が私に道を照らしてくれるからです。ひいては世界中の人々を救ってくれるからです。
今一度仏教のあり方を坐禅についてを世界中で考え直したいところですね。
ここは事実のみです。その事実に従うしかありません。しかし私から言わせればそれはとてもありがたいこと、仏の言うとおりだということです。
ここは絶対に囲まれた世界、絶対だけの世界。
私はそこをプラスにとらえ、身を委ね、安心したいと思います。この教えが確実に世界を照らしてくれるはずです。
誰もが仏の言いなりに、仏につかえて、仏道を信じていきていってほしいと思います。
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