迷いや不安は尽きない。いつも悩んでばかりいる。これが人間です。
まず、世界と私とは1つです。2つとしてこの世界が分裂することはない。鳥の声が聞こえ、自分の耳を震わせるのは鳥が自分だからです。鳥によって自分という命が起こされているからです。
そもそもそれは「自分が聞こう」と思う前に聞こえていたわけです。また「俺がみた!」と人間は言いますが、それは自分が見ようとする前にすでに「見えていたもの」なんですね。常に聞かされている。見させられている。我々は大自然に生かされているのです。
大自然には「自分」というものがありません。
あるいは冬の寒い朝、冷たい水の中に手を突っ込み、手が痛くなるのは、冬と私とが1つに繋がっているからです。大自然の気候と直に繋がっているわけですね。
また大自然と私とは1つに溶け合っているから、こうして1秒ごとに老化していくわけです。
世界と私とは1つなんです。この世界では全てが1つなんです。
道元禅師は若かりしころ、はるばる中国へと渡り、一切の疑問を解消し、そして晴々とした気持ちで日本へ帰ってこられました。
そこで「自分の顔に目が横に鼻は縦についているではないか(眼横鼻直)」と申されております。この天地宇宙の間で、迷っているものはいない。全ての物事が真実を展開しているということにお気づきになったのです。
この私自身もがです。私も真実そのものだと。そしてその私というものはなく、私は鳥であり、冬であり、天地そのものだと。私とは天地の所有なのだと。
冒頭でも述べたように、なぜ生きることはこんなにも苦しいのか?我々はこんなことばかり考えております。
またなぜいつも迷いや不安が尽きないのか。なぜいつもこんなに悩んでばかりいてしまうのか。こんなことばかり考えております。
しかしそんな悩みも全て大自然の所有なんですね。自分が行っていることではないのです。そもそもこの世界に自分というものはなく、「自分が思う」という行為が成り立ちません。ありえません。
それは「大自然によってそう思わされている」わけです。その悩みや不安すら大自然のお姿なのです。
目が横に鼻は縦についていること。そこでもなぜ目が横に鼻は縦についているのか?そのように考えてしまう我々人間ですが、それは大自然においてそういう決まりだからですね。
自分の体も思量も呼吸も全て大自然の所有、大自然の摂理なのです。
足を組むと痛くなるのは、それは大自然の摂理だからです。本来のあり方のわけです。
だから大自然そのものである我々は、無駄なことを考えず、人間生活を中止して、ただ足を組むべきなんですね。坐禅が我々の本来生きる場所、本来いるべき場所、本来のお姿だからです。大自然の一部である「我々」の本当の家だからです。
それは風鈴がいずれの方向の風も問わず反応しているような様子のことです。
がむしゃらになって生きるのも良いでしょう。しかし私などありません。迷いなどありません。眼横鼻直、その悩みや不安は大自然のお姿なのです。時には力を抜いて、風に身を任せてみてはいかがでしょうか。
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