ここでは花が枯れ、腹が減る。私は仏。

ここでは花は枯れ、腹が減ります。それは絶対です。それは大自然の働きです。大自然は絶対です。

花だけでなく私の体もそうです。

それはどうすることもできません。しかし絶対ということは、それはある意味お救いです。

お救いとは「絶対に〜してくれる。」「絶対に〜を叶えてくれる」。このように捉えられがちですが、確かにこの「絶対」以上の救いはこの世界に存在しません。絶対的なものはどうあっても「救い」なのです。

あるいはこの絶対を「嘘偽りがない」や「安心」という言葉にも言い直すことができると思います。

自分の体も含め、世の中の全ては絶対です。絶対に腹が減る。絶対に足が痛くなる。絶対に花が枯れる。

しかしこれはお救いなんです。全てはお救いだったんです。

お救いとは仏様のことですから全ては仏様だということですね。ここは仏様のみの世界だということです。無論私も「仏様」だということです。

花は枯れると目の前からなくなります。腹が減ると死んでしまいます。足を組むと痛いです。

とても悲しいことかもしれない。花が枯れるのは悲しいことです。

しかしそれは仏様の息がかかっているということです。仏として生きているということです。紛れもなく救われているということです。

全てがそうです。

ここでは花が枯れ、腹が減ります。それが事実として常に共にあります。事実は全て仏なんです。事実は全て救いなんです。

どんな事情があるにせよ、その事実が常に共にあるんですね。どんな事情があるにせよ、そこでは花は枯れて、腹が減っているはずです。

そしてこの世界にあるのは事実だけです。

会社が倒産した。貧乏暮らし。大病をした。事情はさまざまでも必ずそこには「事実」があります。その事実においては仏のみなのです。救いのみなのです。

繰り返しになりますが、そこでは腹が減り。鳥の声が聞こえる。老化する。花が枯れる。消化しているからです。

この世界は事実のみです。つまり全ては仏のみの世界です。死してもなお、地球が滅亡したとしても事実がそこにはあります。仏がそこでは展開しているのです。

この世界は事実のみです。つまり全ては仏のみの世界です。

そんな世界で生きること、それだけでもう仏の活動です。

生きて死んでいくだけで成仏です。

あなたの命は仏の命です。あなたの行動は仏行です。この世界も仏のみの世界です。そんな世界に我々はこうして生きている。もしかしたら我々はこの世界に生きているだけでいいのかもしれませんね。

どんな行動も真実の活動、どんな世界も真実の世界。

そう思うとどんな「今」も受け止めることができると思いませんか?

どんな「今」でも、その「今」が全てなのだと信じることができる。その「今」に死に切ることができる。

みんなが安心して生きていくことができる。

みんながこれに気付けばいいと思います。そうさせる可能性のある仏教は本当に偉大です。

またそれだけでなく、この世界に仕えてほしいと思います。この世界に向き合ってほしいと思います。

もっとこの世界に感謝をしたり、もっとこの仏の世界を謳歌してもらいたい。

それが仏である我々の本来の役目、あるいは人生の楽しみ方ではないでしょうか。

その仏に仕えるとは、この世界に仕えるということです。真実に仕えるということです。事実に仕えるということです。それは坐禅をするということです。

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