我々の住まう地球。その地球が今危機に瀕していると言います。
そこで人間はこれまでの過ちを悔やみつつ、今後の地球のためにサステナブル活動を積極的に行ってますね。
私自身もずっとこの美しい地球が続いていけばいいと思いますが、この地球の今後については知る由がないのは言うまでもありません。
もう35歳になります。46億年の歴史を誇るこの地球の進退が残りの数十年で明らかになるとは思えません。
地球は大切にしたいですね。
さて、そんな中年の私がいつもやっていることといえば仏教の学びです。私は仏教が大好きです。その中で特に学びを深めているのが道元禅師の教えと、それにまつわる仏教の根幹教義についてです。

以前こちらの記事でもお伝えしましたが、(非常に長文です)
・足を組めば痛くなる、痛いから痛い。痛いものは痛い。
・昨日食べてもまた今日お腹が空いてしまう。腹が減るから腹が減る。
・とある映画をみた。なぜかわからないが感動して涙を流す。
これは誰においても絶対的な約束事です。つまり事実です。
この命の実物。今この瞬間自分の手をつねると、現に痛さを感じるという事実。
理屈なしに、人間の思惑とは関係なくに、今この瞬間にも蠢き続けているこの真実。
これを私は「仏」だと思っています。仏法だと思っています。なぜなら紛れもなく痛いというのは事実であり、それはこの世界の正体だからです。その事実しか世界にはないからです。仏しかこの世界にはなく、それを伝えるのが仏法だからです。
理屈なしに痛い。理屈なしに腹が減る。理屈なしに感動する。そのようなものによって我々は成り立っている。理屈なしに成り立っている。理屈が通用しないというのは我々人間からすると悲しいことなのかもしれない。しかし事実我々は生きている。生かされている。これが解明されてしまうということは、あるいは意図的にその生命のメカニズムを止められてしまうということです。寝ている間にも行われる呼吸を止めてしまえるということです。だからわからなくていい。わからないから生きていける。わからないから救いなのです。わからないからこそ我々は生きていける。
事実、そのような命を我々は例外なくいただいているわけです。
なのでこうした事実は本当に大切なものだと思っています。
そして私はこれこそ人の救いだと思っています。
つまり坐禅(足を組めば痛い。理屈なく痛い。この世界の真実、すなわち仏)です。
道元禅師はその坐禅の重要性を説かれました。只管打坐をお伝えになりました。
そんな大切なことを私はもっと学びたい、仏教をもっと学びたいと思っています。そしてこの道元禅師をはじめ、過去にいらっしゃった祖師方から学ばせてもらっています。
冒頭の話に少し戻すとして、仮に地球が滅亡するとして、それは果たして憂うべきことなのかということです。
「結果」の尊さについて
私のような分際が余計なお世話だと思われるかもしれませんが、この地球の未来のことを少し考えてみると、私は仮に地球が滅亡したとしても、それは仏のお誘いだと思ってます。だから何も問題ないと思っています。
まず「滅亡」。これがもう仏だということです。
先ほどの話にもありましたが、腹が減る。屁がでるといったこと。こういったことが生きていると生じます。わけもわからず生じます。それは紛れもなく生じます。絶対に生じるということです。
この絶対が尊いんですね。だってそれは絶対なのですから、存在しており、存在しているということは、信頼できるんです。寄りかかれるんです。人の安心になるんです。支えになるんです。
これが仏教なんです。「絶対」。
社会を生きていると、そこでは人と比較してばかりです。概念巡りばかりです。しかしその概念は掴むことができません。存在していないからです。また人によって形を変えます。本当に厄介なやつです。
そんな概念にまみれている。そしてそこに安心を委ねようとしている、これが今の人間です。
どんなに安心が恋しいか。読者の皆様も心当たりの一つや二つはあることでしょう。
そんな時自分に目を向けると、あるじゃありませんか。その絶対が。こんなにも身近に。
腹が減るということです。屁が出るということです。足を組めば痛いということです。絶対に。

どんなに今後天才が現れようとこの「絶対」を止めることができない。これだけは止められないんです。つまり解明できないんです。解明できないのに絶対なんです。むしろ解明できないから絶対なんですね。
もし誰かが解明してしまったら、それはもう絶対ではありません。しかしそんなことはない。安心していい。我々は必ず腹が減り続けます。
こうした絶対的な事を仏法だということです。事実であり、事実ということは「真実」だということです。
そこでいうと、そうなった結果。それはもうどんなものでも仏法だということです。この世界に生じているもの、結果。それらは全て仏だということです。真実だということです。
概念の垣根をこえ、この世界に本当に生じたのなら、実際に今起きていることです。それは仏だということです。
なのでもし滅亡を迎えようと、その滅亡は仏だということです。救いだということです。憂うべきことではないんですね。むしろありがたいことなんです。それは真実であり尊いことだからです。仏だからです。
地球の滅亡は洗ってあるか洗っていないかわからない衣類と同じ
例えば洗ってあるのか洗っていないのかわからない衣類がここにあります。洗っていないと我々は嫌ですよね。嫌悪感を覚えます。洗ってあるものはいい匂いがします。菌も繁殖していないかもしれない、いわゆる綺麗な状態です。一方で、洗っていないものには泥がついているかもしれない。おしっこがついているかもしれない。そして菌まみれかもしれない。我々は汚いと思うはずです。

しかしその両者において、「結果」という点において差はないんです。どちらもそこではただ真実を現成しているわけです。この真実が「仏」なのです。結果が仏のわけです。
今回の地球の滅亡も、要するにこの洗ってあるか、洗っていないかわからない衣類と同じことだということですね。
結果を表しているということは尊い仏のありようなのです。
結果とは「真実」であり、それは「仏」なんです。どんなものでも。だからどんな結果であろうといいんです。それは仏に向かったということです。仏の世界にいるということです。
今この瞬間がどれだけ尊いか。「今、ここ」というのは常に「結果」だからです。そして我々においては常に「今、ここ」しかないわけです。だからこの世の全ては仏なのです。
「結果」。そこでは全てが呼吸しています。生きているんです。仏の呼吸をしているんです。
そう、
「滅亡」とは生きているということなんです。
今目の前に見えるもの、聞こえてくるもの、それは全て仏です。どんなものでも尊いんです。
だから何も案じなくていいんです。心配しなくていいんです。
生きている間というのはいろいろな心配があって、今回の地球滅亡の話もよく話題に上がる心配事です。
しかし何も心配いらないんですね。この世界は全て仏なんです。これからも仏のみなんです。
地球が滅亡した。何もなくなった。しかしそれが仏だということです。仏の世界ということです。真実の世界ということです。
この世界は仏のみ
それにもはや常套句になりつつありますが、さらに考察を深めるためこの世界のあり方を別の視点で再度認識しておきましょう。

以下は上記の記事の引用となります。
例えばカラスの鳴き声が生きているとよく聞こえてきますね。夕暮れ時や朝の出勤時。あの鳴き声が認識よりも早く自分の耳を震わせて、それから自分はカラスの鳴き声だと認識できるわけです。つまりカラスが泣いたことによって自分の耳が鳴った。それはカラスによって自分の命が生じたということでもあるわけですね。
また壁を殴ると痛いです。当然そこに壁があり、私がそれを叩かなければそうはならないわけですが、それはそれとして、壁によって自分に痛みが生じた。自分の命が起こった。あるいはスクランブル交差点で、予期せず人とぶつかったとします。お互いが痛い思いをしますね。経緯はどうあれその他人によって、自分に痛みが生じた。つまりその他人によって自分の命が発生したということです。また我々は呼吸をします。その呼吸にはもちろん酸素が必要です。その酸素というのはどこからともなく発生し、こうして自分の元へやってくるわけですね。それで呼吸ができている。その発生源は市外かもしれない、県外かもしれない、あるいは別の国からやってきたものかもしれない。
しかしそんなどこからかやってきたかもわからない酸素によって我々は今呼吸ができている。生きることができている。どこかわからないけれども、それら植物や大自然によって自分の呼吸ができている。自分の命が起こっている。もし仮に、それら命に線引きができたとしましょう。俺は俺、お前はお前。カラスはカラス、壁は壁。あるいはここからここまでは俺の命、ここからここまでがお前の命、といった風に命の線引きができたとしましょう。
もしそれが本当にできたとしたら、あるいはもしそのような線引きが本当にあったとしたら、我々はカラスの鳴き声は聞こえないはずだし、壁を殴っても痛くならないはずだし、即座に呼吸もできなくなるはずだと思いませんか?だって俺は俺、お前はお前という風に命のあり方に際限を設けるということはそれぞれの生命活動が独立するわけで、決して他の存在によって、自分の命に対して影響が生まれないからです。そこでは決してカラスの鳴き声が自分の耳を震わせるはずもないし、壁を殴っても手が痛くなるはずがないんです。しかしそうではない。カラスの鳴き声は自分がどのような状況や心境に置かれていてもきちんと自分の耳を震わせ、こうして聞こえてきます。いつでもどこでも、誰であっても壁を殴ると痛いです。またいつでも、どこでも、自分が寝ている間でも呼吸をこうして平気にすることができます。
要するに命には際限がないということなんです。命には境界線はないということなんです。つまり全てがこうして重なり合っている命なんですね。1つに繋がっている命なんです。だからこうしてカラスの鳴き声やストーブの音が自分の耳に聞こえてくる。実際に自分の耳を震わせてくる。それは命には際限がないからなんです。俺とお前、壁は壁、カラスはカラス。そのように物事は分けることができないということなんですね。命に線引きなどできないということなんです。全ては「1つ」として生きているということなんです。この世の全てはそのように成り立っているんですよね。
以上でも述べている通り、この世界はもともと1つなんです。仏のみの世界なんです。
だから「滅亡」がそもそもないんですね。ここは仏っぱなしの世界だからです。そこでいうと誰も何も生まれてもいないのです。死ぬ時は全てが同時に死ぬ時です。生まれるときは全てが同時に生まれる時です。
常に生きているか、死んでいるかのどちらかなのです。
これは事実です。このような事実があるわけです。
もし全てがなくなるとして、その時は全てが一緒になくなります。そこではようやく死ねると思えるはずです。
今回の地球の滅亡に限らず心配事が多い我々ですが、心を楽に、そして今日も明日も生きていきましょう。
話が毎度飛躍してしまい、すみません。
仏教の勉強をしていると、ややもするとこのように大それた話をしてみたくなってしまうのです。
いつもお付き合いいただきありがとうございます。
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