公案現成(全ては仏さまの言う通り)

いきなりですが私には同居している人間がいます。

我々の部屋には室内用の物干し竿があって、そこになぜか謎のタオルを毎回その同居人がかけるんですね。

当初の二人の取り決めにおいては、室内の物干し竿には洗濯したばかりのものしかほしていけないというものがあったんです。

同居人がそこになぜか謎のタオルを干すんです。笑

私はそのせいで毎回混乱してしまうんですね。それが果たして使ったタオルなのか、使っていないタオルなのか。

しかも以前にもそういったことがあって、その時は実は使ったタオルを干していたことがあったんです。

そのようなこともあって、やめてくれよと思うわけなんですね。

毎回イラッとするんです。どっちなの?そのタオル!と。

せっかく二人で取り決めたのに、なぜそのルールを破るのかと。

もし使っているものだとしたら、他のものと一緒に洗濯する必要がありますし、使っていないものだとしたら他の洗濯を干すスペースがなくなるため、できるだけ早く畳んでしまいたいのです。

そんな迷いの時間すらも無駄になります。初めから取り決めたルールにしたがっていればいいのに!

そんなイライラする思いの中、例の如く一人で洗濯をしていたところ今回の話が思い浮かびました。

いつもこんな感じで記事を書いてます。笑

目次

公案現成

「公案現成」という言葉があります。

それは端的に申すと今、目の前に広がる一切は「真実」を展開している。という意味になります。

今回私はそのタオルが果たして洗濯済みのものなのか、まだされていないものなのか、ここが問題で、そのせいでイライラしてしまった。取り決めたはずなのに、なぜそのルールを破ったのかと。

もちろん場合によってはそれは重大な問題になるのかもしれない。

しかしそれが果たして洗濯済みのものなのか、まだされていないものなのか、そこにこだわっているのは我々人間だけなんですね。こだわるというか、執着しているのは人間だけなんです。

そこにはきちんと「それ」が全てを従えて展開しているわけです。我々がいうところの「タオル」がということですね。

というのも、我々人間からすれば「洗濯済みのタオル」か「未洗濯のタオル」そのどちらかでしかない「それ」ですが、本来はもっとさまざまな要素を含んでいるわけです。

  • 微生物が1億匹ついている綿だったり
  • 東京のデパートで買った、当時可愛い女の子が働いていたお店で買った商品だったり

本来はそうしたさまざまな要素がそのタオルにはあるわけです。また見方によっては、例えば貧困のアフリカの子供からすればそれは貴重なタオルになるかもしれないし、寒さに喘ぐ人を救う救命器具になるかもしれないのです。

物事には「正体」がありません。タオルと思っている「それ」も、本来はこうした多くの用途や捉え方があるわけです。100人がいれば100通りの見方となる。捉え方となる。

要するにそのタオルは「全て」のわけですね。そのタオルに対して全く同じ見方のできる人はいないからです。それを見た人の分だけ、そのタオルの正体がある。その時の境遇によって、みる立ち位置によって、それはタオルにもなるし、何にでもなる。決して1つにとどまる所を知らない。そのタオルはタオルではなく全てなのです。

しかしそれすらも人間の単なる概念でしかなく、単なる概念遊びです。もっと尊いことがそこでは行われているんです。

「それ」はただそこにある。物干し竿にぶら下がっている。我々が見ると、何でもない日常の風景です。

また人間の思惑や物差し、価値観とは関係なく、ただそこにある。垂れ下がっている。

仮に洗濯をしておらず臭いを発している状況であっても、何も隠そうとせずちゃんとありのままの姿を示している。

嘘偽りのない真実の姿を常にちゃんと示してくれている。どんな状況に置かれていようと「必ず全て(100%)むき出しの偽りのない姿」を示してくれる。

物事には正体がない一方、真実は常にむき出しの状態なんです。真実むき出し、真実100%、これを「仏」と言います。この「仏」がむしろ「その」正体なんですね。

だからどんなものも放っておけばいいのです。そこで仏様の言うとおりにさせていればいいのです。くるりの楽曲の「石、転がっといたらええやん」です。全ては仏様の掌から決してはみ出さないわけです。全て仏様のいう通りで、仏様のありのままの姿がそこで現成しているわけです。

誰かに無視されてもいい。電気がつけっぱなしで光熱費が上がってもいい。

なにがあっても大丈夫なんです。絶対安心の世界なんです。あなたはいつでも安心して生きればいい。そこにいればいいんです。どこにもいかなくていいんです。どこかに行こうとしなくていいんです。

人間がどんなに馬鹿を働こうと、何があっても真実が展開している。どんな状況でもいいんです。どんな状況であれ、そこに優劣は決して生まれません。

ですから、こっちの家よりこっちの家の方がいいとか、こっちの食事よりこっちの食事の方がいいとか、こっちの街よりこっちの街の方がいいとかそういう比較って本当に無駄なんですよね。この世の一切は真実のみで比較なんてできないんですから。

今回のタオルだってそうです。すべてが偽りなくあって、そしてそこから真実が続いていく。ずっと真実のみなんです。誰であっても、どこにいても安心してそこで生き、安心して死にきれるということ。

あらゆる物事がこのように常に仏の姿を示してくれている。それが実に尊いということなんです。

真実は常にむき出しの状態なのに、こっちがいい、あっちがいいと右往左往して、またその正体を何とかして捉えようとしたり、もっといい形容があるはずだと思ったり、それを勝手に自分概念に当てはめて、くさそうだ、ああだ、こうだと言っているのが我々人間なんです。

それが人間の面白さ、あるいは人間に生まれてこれた醍醐味としても捉えられるのでしょうが、それはそれでお門違いだろうということなんです。

洗濯しておらず実際に臭かろうが、洗濯していい匂いがしていようが、どちらも仏の、真実のみの姿であるのだということです。

仮に明日、目が見えなくなっても、あるいは足が不自由になっても、いきなり余命宣言を受けても、どんなに人生が辛くてもそこでは100の命。常に真実のみ、真実丸出しです。

どんなに狭い水槽でも魚はその中で自由に際限なく泳ぎ、命を果てるように、我々の命の展開も、そしてその命を捧げるこの世のあり用、姿形、箱というのも全てそういうふうにできてる。

どんなに狭い社会に置かれようと、そしてその中でどんなに窮屈な思いを強いられようと、仏様の手のひらから一才漏れることがない。

我々も魚もタオルもこの世のありとあらゆるものはいつもそうやって生かされている。

もうすべて放っておいたらいいんです。仏様の言うとおりです。人間は余計な事をしなくていい。全てに身を委ね、楽に生きたらいいんです。

私たち一人一人の命もそうです。

私たちは例外なく誰もが、いまここにおいて、この瞬間において誰とも比較できない生命、何とも比較できない状況を生きているんですね。

誰かを羨ましがる必要もなければ、自分を蔑む必要もないわけです。

とどのつまり、我々人間はここに気づけるかどうかです。

そのように目の前の一才はこのような形で常にあり続けている。そしてその100%の真実の状態のまま、ずーっとあり続けます。

「公案現成」。

全ての物事は嘘偽りなく、このように真実を提示しています。これからもその姿を展開し続けてくれます。人間が死滅しようと、宇宙がなくなろうと。そもそも人間や死滅や宇宙、何もないというのも人間の概念です。

物事には正体がなく、「仏」1つのみなので、線引きができない。

そしていかなる場合でも必ず「それ」を示しています。仏はあり続けます。それらは全て「仏」で、「仏」以上も以下もない。いや実に尊い。

壁を師匠に。謎の洗濯物を師匠にしましょう。さらにいえば「それ」を師匠に。「何もない」を師匠に。

それらは真実むき出しです。仏そのものです。

だからいいんです、それが本当に洗われていようがいまいが、そんなものはどっちであっても。

そのように生きられたら、我々はきっともっと人生を楽しめるし、どんな物事も尊く思えて、プラスに捉えられるはず。そして人生に余裕を持てるはず。

雨の日ずぶ濡れになるのもいい。それも真実。サイレンがうるさい街に住んでもいい。それが真実。排ガスの多い街に住んでも隣人がうるさい部屋に住んでもいい。それが真実。犬のうんちを踏んでも、あるいは通勤途中でカラスに糞を落とされても、どんな状況であっても我々は楽しめるはず。真実の世界の中にいる。仏の救いの中にいる。

我々にわかるのは「この世界は真実のみの世界だ」ということだけです。物事の正体などわかるわけがないというか、そもそもそんなものはありません。仏こそが物事の正体なのです。これ以上も以下もない。

だから執着しなくていいのです。難しいことを考えなくていいのです。儲かる仕組みをつくろうだとか、業績をさらに上げてやろうとか、とんでもない発明をしてやろうだとか、そんなことは考えなくていいのです。

考えたって、その先には何もありません。「仏」以上も「仏」以下もないのです。

だからその事実があるということを我々は理解して、安心して比較したり、そこで苦しんだり、楽しんだりすればいいんです。

もっと自由に、いただいた命をもっと謳歌できるように。わかっているのは全ては「仏」だということだけなのですから。

しかしそうした本来の世界から遠ざけてしまう、それが「自我」です。素晴らしいものを素晴らしくなくさせている、それが「自我」なんです。

「自我」は人を殺します。真実を見えなくし、仏を殺すんです。

確かにこんなこと言ってますけど、実際にはとてもそんなふうに思えないですよ。犬のうんちが素晴らしいものだなんて。我々にはどうすることもできない直感や概念があるから。

なので別にそれを無理して捉えなくてもいい。しかし事実、そうであるんですね。

「真実」がちゃんと目の前にある。そして私自身の命も、隣にいる人の命もそれに該当するのだと。そのように思えたらそれでいい。

それだけで人生はもう御の字です。

その事実に気づけた時、全てを自分の一部としてみることができる気がするというか、安心して生きられるようになるはずです。

事実全ては自分です。この世の全ては2つと分かれない、仏の命なのですから。

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