いつも100の仏をいただいている。いつも救われている。

人の世界には貧富の差があります。あるいは性格の差、あらゆる境遇の差、容姿の差、能力の差、頭脳の差。

こうした様々な差があります。

さらにそのような「人としての差」以外にも、今置かれている実状況においても差が生まれたりします。

例えば毎日の通勤電車。都内はいつもとても満員です。そこではぎゅうぎゅう詰めにされますから、立っている人は大変な思いをします。一方でその電車には座っている人もいます。立っている人と比べて楽です。自分のテリトリーがある。痛い思いもしない。痴漢を疑われるリスクもない。

立っている人からすれば羨ましい限りです。自分も座りたい。楽をしたい。早く降りてほしい。その席を譲ってほしい。

だんだんとイライラしてくる。なぜ自分は座れないのか。こいつはなんなんだ。いつ降りるんだ。

初めて会った人だというのにその人に殺意すら覚えたりする。

人の世界にはこのように様々な差があります。差別があります。皆が同じなんてことは決してありません。

また今自分に置かれた状況が悪いと感じれば、他人を羨ましがってしまう。これが人間です。

しかし果たして本当にそこに「差別」はあるのでしょうか?

人の世界であれば確かに貧富の差があります。あるいは性格の差、あらゆる境遇の差、容姿の差、能力の差、頭脳の差があります。

しかしここは人の世界ではないということ。仏の世界だということです。

どういうことかというと、そこでは常に仏が100展開しているということです。

例えば電車内で座っている人。確かに立っている人からすれば楽かもしれない。リスクも少ないかもしれない。しかし実はその人も長い間座り続けて腰が痛くなっているかもしれません。立ちたいと思っていて、その人からすれば立っている人の方が羨ましいと思っているかもしれません。

また仮に楽だとして、その楽をしているせいで人の痛みがわからない人間になってしまうかもしれません。それはそれで損益です。

そこには必ず「存在」があるということ。「結果」があるということです。その「存在、結果」が仏なんです。

確かに人間からすればそこには差があると感じてしまうかもしれない。

しかしそんな差などお構いなしに結果は展開してくる。事実は展開してくる。そのおかげか、事実として我々は生きることができている。時にはその境遇を良い方向に取ることもできる。

立っている人にとっても、座っている人にとっても必ずそこには結果があります。肌をつねれば痛いという、決して足し引きできない絶対的な結果があるわけです。

その結果が仏なんです。

どんな境遇においても、いずれにおいてもそこには必ず展開している事実、結果があります。しかもそれは仏の100の結果です。

そこでは必ず肌をつねれば痛いのです。確実に痛い。確実だということは、この世界の真実をいただいているのです。

そこでは仏法の恩恵には大差ないのです。この世界の恩恵に大差はないのです。

無論その痛みに比較はありません。痛いものは痛い。100の痛み。100の作用。100の嘘偽りのないこの仏の世界の生命が展開している。

100の仏、この世界の全てをあなたはいついかなる時も常にいただいているのです。

いつでも宇宙いっぱいの痛みが展開している。いつでも宇宙いっぱいの命をいただいている。足し引きできない。全ての人に平等に。

肌をつねれば痛いという、誰とも比較できない命をいただいている。

いつでも100の仏に必ず手を繋がれている。100の仏の結果を得られているのです。

何かを目指す必要もなく、どこかに行こうとしなくてもいい。悟りもいらないんです。

なぜなら誰にとっても常に100だからです。それは常に誰にとっても共にあるからです。

なかなか人間はこのありがたさに気づけません。

この世界は仏のみの世界で、常に救われていることに気づくことができません。

生きていようが死んでいようが、そこには必ず事実が共にあります。結果が必ずあります。

つまり仏が共にあるのです。

それに気づくことができればどんなに良いでしょう。

平気で生きることができ、平気で怒ることができ、平気で死ぬことができます。

ですが、こんなことに気づかなくても結局は我々は100の仏をいただいているのです。

もがき苦しもうと、贅沢三昧な生活をしようと。生きようと、死のうと。

それでもできればこのことに気付けた方がいい。仏法に出会えれば人生は確実にハッピーです。そこからが本当の人生の始まりと言ってもいいでしょう。

そこで仏に仕える。仏の声を聞く。仏に親しむ。この世界の事実に親しむ。この世界の生命の実物に親しむ。坐禅に親しむ。仏道をいく。これが人の本当の幸せです。

何より、自分が坐れば自分が救われる。成仏できます。なぜなら我々は仏で、坐禅が仏行だからです。またそれによってその自分と「同時」の世界も救われるからです。我々の使命は坐禅をすることです。そしてその坐禅を伝えていくことです。

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