「仏作仏行」。人間の夢、日常に溢れる夢。また真の「仏道者」とは?

以前以下3つの記事でも言いましたが、

世界とは「仏のみ」です。私もその「仏」です。

それを思うと普段の生活の場の「見え方」が変わってきます。

ぜひその「見え方」で人生を歩んでほしいのです。

ここは真実いっぱいの、仏いっぱいの世界であり、それ以上も以下もない価値が今ここ、この瞬間に「全て」詰まっております。

普段の生活においても常に仏が、真実が展開しています。

単にお茶を出すのにも、上司からお願いされてコピーをするのにも、しぶしぶ庭はきをするのにも、実は尊い種がたくさんあるということですね。そこは常に100点満点の世界だということです。

そこで起きていることはもちろん、自分がそこで行うことも「仏作」だということです。この世界で自分が為すこと、起こすこと、それは全て仏作だということです。

「だったら楽しめばいいじゃないか」と、「それを大切にすればいいじゃないか」と、「もっと大切にしなければいけないな」と、最近はそう思うわけですね。

どんなに今がつまらない日常でも、それが明日も明後日も10年後も繰り返す日常でも、それが全てです。そこにはこれ以上も以下もない価値が常に展開しています。仏の命が詰まっているわけです。

些細なことも親しみを持って行うこと、それを楽しむこと、工夫すること、丁寧に扱うこと。

こうすることが我々にとって、最もこの世界を食い尽くしている瞬間です。

またそもそも仏である我々が本来の命を生きようとしている瞬間です。それは「仏」が「仏」とともに生きること。あるいは「仏」が「仏」をすることだからです。すなわち仏である我々の目指すべき生き方なのではないでしょうか。

「普段の日常を大切に、楽しむ。」

このようなことをいう人は多いです。普段の日常こそが尊いのだと。

しかしそのようなことを聞いても、どこか真剣になれない思いがしていたものです。

そもそもなぜ日常が尊いのか?こんなつまらない日常などよりも、遊んでいたり、お酒を飲んでいたり、外国へ行ったり、テーマパークに行ったりしていたほうがよっぽどいいに決まっている。

しかし今回のことを踏まえると、その考えが変わりそうです。普段の日常の尊さに気づき、普段の日常を楽しめそうです。やり込めそうです。

疑いなく、誰もが今置かれた状況で満足できそうです。

普段の日常にこの世界の真実、全てが詰まっています。目の前に展開している物はことごとく全て1秒ごとに風化していき、そこで何かが聞こえてくる状況はあなたと大自然が1つである証です。全てが常にこの世界の真実を表しているのです。全てが常にこの世界の真実と共にあるわけです。

私もその真実と共にある、真実の命を生きているからこうして1秒ごとに風化していき、腹が減っていくわけです。

全てのものが真実で、同時に全ての時間が真実。全てのものが尊く、全ての時間が尊いということです。

普段の日常を丁寧に行うことは仏を大切にしているということ、仏を大切にできているということです。人生を大切にしている、自分を大切にしているということです。本当の命を生きているということです。本当の役割を果たしているということです。

あるいはそれがこの世界を最も楽しんでいる姿です。

またそんな風に生きていれば、いずれは禅の指導者から「仏ランクが高い人」や「人生の達人」というお墨付きももらうことができるはずです。

この仏のみの世界で正しい生き方をしている人物、正しい道を歩んでいるものが「真の仏道者」です。誰もが憧れる存在、崇高な存在、それが「真の仏道者」です。

私はこの日常を大切にしている人物こそが「真の仏道者」なのではないかと思ったりもします。

普段の生活というのは仏のみが展開していて、日常を大切にできているということは「仏」を大切にできているということだからです。

我々は仏ですから、そのような生き方をするということが本来の生き方だと思うわけです。正しい生き方だと思うわけです。

この世界というのは仏のみで、日常にその仏が全て展開しているわけですから、この「普段の生活における人物」がそうであるということがわかるわけです。

そして物を大切にする。背筋を伸ばす。正しく食事をいただく。正しく眠る。正しく歩くということ、その日常の所作を丁寧に、大切に扱っている人物がそうだということです。

それは真実に生きているということ。正しく生きているということ。仏が仏と戯れる。仏が仏のみの世界で楽しむ。真剣に生きる。大切に生きているということ。真に役割を果たしているということ。

普段の生活を大切にするということは実はこのようなあり方だというわけです。

道元禅師は「洗面の仕方」から「トイレの仕方」まで細かくこの生活態度のあり方について言及されております。

どんな些細な行動、日常であっても、我々は大切にすべきだったのです。その姿勢を本来常に持つべきでした。我々は仏です。日常こそが我々の全てだったのです。

これでつまらない日常を無限に楽しむことができます。人生がもっと楽しくなります。夢ができます。役割ができます。

上司からお願いされたコピー、車の運転、デスク仕事、食事、洗濯。あらゆるコンテンツが我々の日常には溢れております。丁寧に扱うべきことだらけです。そこには工夫できる点がたくさんあります。

手の舞、足の踏むところ、手の届くところ、ことごとくが「仏作仏行」です。

普段の生活こそを大切に、丁寧に行うことが重要だったわけです。常に姿勢を伸ばして生きること、あるいは姿勢を伸ばし食事をすることが大切だったわけです。

あるいは「こだわり」を持って何かを行うことも、生きることも、とても重要だったということです。

物事をこだわりを持って行うこと。場合によっては悪に捉えられたりしますが、本来はとても良いことだということですね。それは仏にこだわっているということだからです。(そのことに本人は気づいてはいないかもしれませんが・・・。)

また、このようなことは誰であっても、どこにいてもできるということです。貧乏だろうが、高齢だろうが、誰であろうが関係ありません。誰もができるのです。このことに気づけば誰もが100いっぱい、人生を謳歌できるのです。

その人なりに物事を大切にするのです。その人なりの物事の大切の仕方でいいのです。皆さんは仏で、この世の全ては仏だからです。とにかく丁寧に行うことです。これが本当の人生の楽しみ方なのです。生き方なのです。それは仏様を扱っているのです。

今置かれた状況、それは全て仏様です。自転車に乗って背筋を伸ばすこともそれは立派な仏様なのです。仏作なのです。

小さくても所作を丁寧に行うことができる。どんな所作でも丁寧に行うことができる人は素晴らしい人です。それは仏を大切にできているということです。人生を大切にしている、自分を大切にしているということです。

あるいはそれはこの世界に仏を作り出すこと、仏を生み出せるということです。この荒んだ(?実際にはそんなものない)世界に仏を作る事、仏で満たすということです。世界中にたくさんの仏を目に見える形で存在させるということです。それが「仏作仏行」の目的で、それを日々できるだけ行うことが我々仏道者の務めです。功徳が沢山詰まった仏行で世界中を満たす事が我々仏道者の務めです。功徳がたくさん詰まった仏行で世界中が満たされれば世界はもっときっと良くなるはずです。

またそれは仏を作る、仏を丁寧に扱う、仏を大切にするということで、あるいはその仏と1つに繋がった自分を大切にしているということでもあるわけです。

禅宗にはお食事をいただく際に、「生飯(サバ)」と呼ばれ、親指と人指し指で器の中から七粒の飯粒を摘んで取り出し「鉢刷(ハッセツ)」の縁の上に置いて供養する作法があります。

この世界では全てが1つにつながっておりまして、これは自分だけがこの食事を頂くのではなく、山野海のあらゆる生き物達ととも頂戴するという思いで行われていることです。

あるいはそのような思いで、日々の食事、日々の生活に臨んでみても良いかもしれません。

少し話はそれましたが、これらのことは人生において、我々が生きるにおいて、何か大きなことを成し遂げたり、幅広く行うことができるということ以上に重要なことなのです。

繰り返しになりますが我々は仏です。この世界では全てが仏の命として1つに交わっております。

仏として生きる。仏と共にいきる。あるいは仏を大切にする。仏の命を大切にするのが本来の務めです。

それが日常を大切に生きるということです。日常の物事を大切に扱うということです。それが仏道なのです。

我々にとっては普段の日常かもしれません。日々忙殺し、週末だけを楽しみしている人も多いはずです。

しかしどんなつまらない日常も、それは仏のみの世界です。日常こそが尊い、日常こそが全てなのです。

今当たり前だと思っていることも尊いのです。それはもっと大切にするべきことなのです。大切に扱うべきことなのです。当たり前などと思ってはいけません。それは単なる概念で、盲信なのです。当たり前のことなどこの世界に1つもありません。

今回のことを思うと、些細なことも仏の行為だとして、大切にする。おろそかにしない。できるはずがない。

姿勢を正すだけでもいいんです。手を丁寧に洗う。顔を丁寧に洗うだけでもいいんです。

少しずつ「仏として生きる」ということをやってみるのです。本当の「命の使い方」をしてみるのです。物事や自分自身の姿勢、所作を丁寧に扱うことをやってみるのです。もっと日常を大切にするのです。

今回のようなことを踏まえると、我々は無限に、生きている限り退屈しないことがありません。普段の生活に最高に楽しめる点や、工夫すべき点、あるべき姿があるのです。

繰り返しになりますが、我々は仏です。またこの世界は仏のみの世界です。まずは自分たちが仏であることを自覚し、その中で正しく生きるとはどういうことなのかを考えてみる。そして正しく生きようとしてみる。それはつまり今回述べたように「日常」を大切に、所作を丁寧にしながら生きるということです。

普段の生活を大切にする。顔を丁寧に洗う、姿勢を伸ばす、これが正しく生きるということで、我々「仏」が仏として生きるということです。「仏作仏行」。

あるいはそれは「修行」という言葉にも言い換えられるでしょう。我々が正しく生きること。真実に生きること、仏として生きること。本来の役割を果たすこと。これを修行というのです。生きていることが修行となり、真に生きていることが修行となり、本来の役割を果たすことが修行となるのです。つまり修行が全てとなるのです。修行が悟りとなるのです。その修行は日常と共にあるのです。日常でしかできないことなのです。

普段の日常を生きる事、大切に生きる事、ただしく送ること、それが我々の人生であり、修行なのです。

中には「私の日常には何もないから、今回のことは当てはまりそうもない」という人がいるかもしれませんが、決してそんなことありません。だって我々にはいついかなる時も、こんなにも立派な足がついているではありませんか!笑

そう、「坐禅」です。足を組む。

この坐禅には細い作法があります。そこで作法にのっとってすわること。姿勢を正すということ。あるいは決められた時間坐るといったことも必要です。

こんなにも常に「仏作仏行」の要素があります。常に楽しめる要素があります。こんなにも本来の生き方を実行できる機会を与えられているのです。人生は誰にとっても参究のしがいがありそうです。またこれらは身一つでできることです。

「坐禅」が「仏作仏行」です。「坐禅」が修行です。「坐禅」が我々にとっての正しい生き方なのです。我々にとっての夢です。

自戒の意味を込めて、もっと日常を規則正しく、そしてもっと坐禅を積極的にして、生きてみたいと思うこの頃です。

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