「普段の生活の尊さ」、仏教は生活教。我々の「生きる目的」は普段の生活にあった!?真実とか悟りとか、そのような詮索はどうでもいい?

仙台の冬は寒い。薄暗い早朝より、凍りつくぞうきんで板の廊下をふいているときであった。何ともいえぬ感激が込み上げてきて、思わず涙が溢れた。理屈なしにありがたかった。我が家にいる頃はまだふとんの中で惰眠をむさぼっている時間に、このようにすかすがしい気分にひたれる。自分の生きる道はこれ以外はいと思うようになった。 板橋興宗、心豊かに生きる知恵よりP130

板橋禅師の書籍を拝読しておりました。

この一文でハッとしたんですね。

仏法とは何か、あるいは我々の目指すべき生き方とは何か、そんなことばかり考えていた私ですが、この一文と出会って、少し落ち着いて考えることができるようになったのです。

目次

普段の生活こそが尊い

要するに「普段の生活こそが尊い」ということですね。

寒い冬に雑巾をしぼる。冷たい。足も耳も痛い。とにかく寒い。

しかしそれは体で直にこの宇宙を感じている。宇宙いっぱいの真実をいただいているわけです。その雑巾がけにこの世界の真実すべてが詰まっていたわけです。

雑巾掛けに限らず普段の生活においてもこれが常に展開しているわけです。そこにこの世界の正体、恩恵、仏が全て包括されているわけです。

この世の真実、それは常に、今、ここ。この自分においても、身の回りのことにおいても展開しているわけです。

普段の生活こそがこの世界の正体なのだということですね。その生活一つひとつに全てが詰まっているからです。

この宇宙において、真実のあり方がこの普段の生活だということです。

従って、規則正しくその普段の生活を生きる。あるいは普段の生活に親しむこと。これがようするに我々の目指すべきあり方だということですね。

それはその仏を、宇宙の真実を取り入れているということで、我々が本当に「息をしている」ということだからです。

禅の僧堂で、履き物を揃えたり、その他衣食住の伴う場面で、この生活を厳しく行うのにはそういう背景があるからではないかと。

坐禅を仕切りに行うのも、その足の痛みに「全て」が詰まっているからです。

坐禅の意義とは何か、なぜ坐禅をするのか、あるいは仏とは何か?悟りとは何か?そのような詮索。

こんなことばかりをしてしまいますが、残念ながらわかりませんよね、そんなことは。

でもこの痛みだけは確かなことです。それはこの世界の「確かなこと」ということです。つまりそこにはこの世界の正体が詰まっている。これだけはわかっていることなんですね。

仏教は生活教?

話が脱線しそうになったので、また戻します。

生活こそが宇宙の全て、生活こそが尊い。禅はもとより、「仏教」というのはそういうことを言わんとする教えなのかもしれませんね。

我々はこの世界の住人です。そしてこの世界とは仏の世界です。

お金稼ぎをするとか、有名になるとか、そういうことを目指すのではなく、本来の命を生きること、本来の役目を全うすること。それがこの世界に生きる我々の行うべきことで、またそれは仏として生きるということで、つまりそれが普段の生活に親しむ、大切にするということです。

普段の生活を尊く生きること。これが我々の本当にあるべき姿です。

普段の生活に「仏」や「この世界の全て」が詰まっているからですね。

この「生活」を大切にできないこと。それでは仮に僧侶だとしてもいけません。一方でこの生活を尊ぶことができる人。それは僧侶でなくても真の仏道者と言えるわけです。

今はそのお金稼ぎのせいで、普段の生活が疎かになっています。仕事場では背を曲げてPCをカタカタ叩く。帰ってからも寝ながらご飯を食べたり、テレビをつけて寝てしまったり、夜遅くまで同じように仕事をしたりして、生活の尊さが見えていない。生活を邪険にしている。生活を疎かにしている。

どんなにその人が有能な人でもそれは非常にダラしない姿です。

それは仏を疎かにしているわけです。仏を捨てているのです。呼吸をしていないのです。本来やるべきことを果たしていないのです。

優先すべきは普段の生活なのです。生活の仕方、生活態度を律することなのです。それが仏として生き、本当の息をするということに繋がっているわけですね。

この普段の生活の正体、尊さがわかると毎日が楽しくなります。死ぬまで楽しくなるはずです。普段の何気ないどんな些細な出来事も親しもうとする。楽しもうとするようになるわけです。

今置かれた場所でいいんだ、そしてそこで普段の生活を大切に、親しむだけでいいんだと、そういうことがわかるようになるわけです。

仏教とは「生活教」とも言えるかもしれませんね。

真実がどうとか、仏がどうとか、世界は2つに分かれないとか、そういう詮索も本来いらないんですね。

それがなんであろうと、いま、ここに、詰まっているからです。この世のすべてが少しも隠れることなく展開しているからです。この自分の足の痛みや雑巾掛けとともにあるからです。

我々は姿勢を正し、足を組むことをするだけでいいわけですね。

あるいは普段の生活だけ大切にしてればいいわけです。普段の生活だけ信じていればいいわけです。足の痛みだけ信じていればいいわけです。その生活に親しみ、規則正しくすることだけしていればいいわけです。

細かな作法にこだわれること。それは生活に親しんでいること。生活を大切にしていること。仏に十分に親しんでいるということです。仏を大切にしているということです。

我々は常に、今、ここでこの世界の100の恩恵をいただいている。

普段の生活こそが至極で、そこに全てが詰まっている。なのでそこに親しむこと。いかにそこに親しめるか。

こういったことに気づかせてくれた、今回の読書でした。

我々一人ひとりが行うことというのは、仮に山の中であれば、毎朝早く起き、木でできた家を雑巾で磨く、山の水で顔を洗い、そこから豆腐を作ったり、野菜を作ったりする。

都会であれば、毎日生活習慣を整える、挨拶をして、姿勢を正し歩く。堂々と歩けばいいんです。コンテンツや障害の多い都会だからこそ、より今回のことが自分の今後の人生の旗印となるはずです。

普段の生活に親しみましょう。普段の生活を規則正しくいきましょう。足を組みましょう。

我々の今、ここ、この瞬間にはこの世界の全てが展開しています。この世界の真実が展開しています。普段の生活こそが尊いのです。それがお悟りなのです。

それがわかればどんな些細なことも疎かにしてはいけない。疎かにできるものではないということもわかり、普段の仕事も大切にできる。どんな日常も大切にできる。つまらない日常も大切にできるようになるし、そもそもの人生をもっと大切にできるようになるはずです。

普段の生活を律して生きていくことが最も尊いということがわかり、そこに夢中になれるはずです。誰もが夢を持てるようになるはずです。あなたの生活は1つしかなく、あなたという人間は一人しかないわけですから、それは一人一人にしかできないたった一つのオリジナルな夢だからです。

真実が全て詰まった生活に親しむこと、真実が全て詰まった生活を大切にしていくことが我々の「人生」です。我々の本来の生き方です。

世界のみんなが普段の生活を大切にし、それがなおかつ楽しいものになればこれほど最高なことはありません。それが仏教(生活教)の最も大切な教えなのかもしれません。仏道者の伝えるべきことなのかもしれません。

坐禅を強めるとともに、山での生活の仕方を学び、豆腐の作り方でも覚えようかなと思う次第でした。

またそこで、いきなりですが、「お経」も読むことに意味があるわけですね。お経の内容に意味があるのではなく。読むという行動そのものが尊いわけです。それはこの世界の真実だということです。お経を読むこと自体が大自然の恩恵だということです。仏行だということです。

坐ること「自体」に意味があるのです。お経を読むこと「自体」に意味があるのです。実物にこそ意味があるわけですね。そこにはこの世界の、この宇宙の恩恵が全て詰まっているのです。

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