仏道とは?

「仏道」とは仏の道と書きます。

そもそも「仏」とは何か?「仏」とは我々のことです。またそれは、

この世界の確かなことです。

例えば自分の屁は自分でこかなければいけない。肌をつねれば痛い。足を組めば痛い。こうした確実な要素が仏であり、それはこの世界の確かなことです。

自分のハンドルは自分でしか握れないということです。誰も自分の屁をこいてはくれない。誰も自分を生きてはくれない。確実なこと。絶対に避けられないこと。絶対に起こってしまうこと。

仏とはこの世界の真実のこと。この世界の絶対的なこと。それを仏と言います。

なので仏道とは自分のハンドルを握っていきるということです。この世界の確かな道をいく。この世界の確かなものを見つめる道をいく。自分を自分する。自分に仕える。この世界の確かなものに仕えて生きていく。これを仏道と言います。

簡単に言えばそれは坐禅をするということです。

足を組むと痛くなる。その痛みは確かに発生します。紛れもない痛みです。この世界の紛れもないものです。そこにはこの世界の全てが詰まっています。この世界の真実が全て詰まっています。まやかしではなく真実です。この世界の正体です。

足を組めば痛いこと。肌をつねれば痛いこと。これ以外ないんですね。そこにはこの世界の仕組み、尊さ、この世界の正体が全て詰まっているわけです。

この世界の紛れもない確かなもの、この世界の真実をしょって生きるということ。それに責任をもって生きること。それが仏道です。つまり「生きること」。足を組んで生きるということです。

肌をつねれば痛いこと、足をくめば痛いこと。こんな誰も見向きもしないようなことが、実は尊く、そこにはこの世界の全てが詰まっていたわけです。この世界の仕組み全てがあるわけです。そこに仏があったわけです。

さらにいつにおいてもその「事実」のみが展開している。どこにいっても事実が起こる。仏の事実が起こり続けている。

いつどこにいっても常に世界の正体が展開している。仏が展開している。常にそこにはこの世界の全てが詰まっている。

その世界を全うすること。この世界の正しい道を歩むこと。それはなるべく足を組むということです。只管打坐です。それが仏道です。

その仏道を歩むことがこの仏の世界に住まう我々の使命です。

それで成仏です。そんな生き方をして、仏道を歩んで初めて成仏できます。我々の目的は成仏すること。我々は「仏」のわけですから成仏するために生まれてきたました。ということは仏道を歩むために生まれてきたわけです。

仏である我々にとって正しい道。正しい生き方。それが「仏道」です。

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