「道は貧なり」。裕福が良いとは限らない。また貧乏だから良いという訳でもない。

道は貧なり

「学道の人は、先づすべからく貧なるべし。財多ければ必ずその志を失ふ。在家学道の者、なお財宝にまとはり、居所を貧り、眷属に交はれば、直饒その志ありと云へども、障道の縁多し。古来俗人の参ずる多けれども、その中によしと云へども、なほ僧には及ばず。僧は一衣一鉢の外は財宝を持たず、居所を思はず、衣食を貧らざる間、一向に学道す。是れは分々皆得益有るなり。その故は、貧なるが道に親しきなり」:正法眼蔵随聞記 巻四、第九節

これは道元禅師のお言葉です。

簡単にいうと「道を究めるためには貧しくてはならない」ということです。

またここでいう「道」とは仏道のことですね。つまりはそれは真実の道のことです。

このブログでも再三話題に上がる道元禅師ですが、道元禅師といえば曹洞宗の開祖として知られており、救道心が強く、仏道を究めようとされた方です。そして実際に究めたお方です。そんな道元禅師のお言葉となります。

真実の道、あるいは仏道というと、ある種特殊なこと、自分とは関係のないことと、普通であれば思われるかもしれませんが決してそんなことはありません。

なぜならそれは真実の道であり、真実であるならば、我々人間にとって、誰一人にとって無視できないものだからです。

言ってしまえばそれは全人類にとっての答えだからです。

おそらく誰もが生きていれば、一度くらいは「なぜ生きるのだろうか?」と疑問に思ったことがあるはずです。しかしその疑問に対して明確な答えを導き出すことはできなかったはずです。

誰もが自分なりの答えを導き出すに留まってしまう。自分なりの答えしか導き出せず、諦めてその自分なりの答えで人生を歩んでしまう。

例えば楽しく生きること。親孝行して生きること。夢を持って目標を持って生きること。誰かに親切に生きること。

世で言われる通り、人としてこういった生き方も立派です。しかしそれが答えだと言い切れる確証はどこにもないわけです。そしてそれが本当なのかということです。そのように生きてしまっていいのかということですね。

また価値観の違う人間ですから、人の生き方を個人に委ねると、必ず行きつまります。それは答えではなく、そう思いたい、そのように生きたいという単なる「個人の主観」なのです。

その個人の主観と、人の正しい生き方とは次元が異なるわけです。

道元禅師がお求めになった真実の道や仏道というのは、その疑問に対する明確な答えのことです。誰もに共通する明確な答えのことです。人の正しい「道」のことです。

我々は理屈なしで呼吸ができます。痛いから痛い。聞こえるから聞こえる。腹が減るから腹が減る。どんな天才が現れようと、その理屈を解明することはできません。そのような解析不明な起こりによってこうして生きていられるわけです。誰もが生きていけるわけです。そしてそれは絶対的な事実のわけです。こうした地盤があるわけですね。

その上で個人の生活をさせていただいている。自由に生きさせていただいているに過ぎません。

これは個人が費やしていい命ではないのです。個人めぐりで捉えていい命ではないのです。

元はそこなのです。元は仏なのです。

そこには我々が本来進まなければいけない道、生きなければいけない命。そういったものがあります。

これを「仏道」と言います。

道元禅師はそのような重大なものと向き合い、そしてそれに対する解を出されました。

それが「足を組む」ということです。この理屈なしのこの命。絶対的な事実。この世界の真実そのものが「坐禅」であり、足を組み、そこで生きること。そこに帰ること。本来の世界に帰り、本来の生き方をする。このように言われたわけです。

だから只管打坐をした。これが先の明確な答えだったわけですね。

道元禅師の提唱されたこと、また只管打坐の実践。これがいかに凄いことか。我々は生きているだけで救われている。我々は仏で、常に仏の世界に住まうもの。仏の手から漏れることがありません。おかげで救われないことがありません。

これが仏道です。そして我々にも関係のある真実の道です。生き方です。

それを見事に証明され、我々にわかるように親切にお説きになってくださったのが道元禅師です。

人は迷う生き物です。道元禅師が生きた当時の時代は、末法の世とも呼ばれ、世は乱れ、多くの人が嘆き悲しみながら生活していたといいます。

そこでは人々を救いに導く教えが必要とされていたんですね。そのような時代にあって道元禅師は仏道の必要性を強く感じていたのかもしれません。

目次

道は貧なり

そこで今回の話ですが、その道を歩むものは貧しくなければならないと。

貧しいの反対の言葉に「豊かさ」という言葉がありますが、なぜ道を究めるのに豊かではならないのか?なぜこのようなことを道元禅師はおっしゃるのか。

例えばピカソやルソーといった過去の画匠がおります。彼らの作品は時代を超えて今も多くの人を魅了して止みません。

そんな大作が作られたのは彼らが貧しい時代の時だったと言われております。そこでは必死さがあったのかもしれません。何としてもよい作品を生み出し、生きていく。そういった思いがあったのかもしれません。

貪欲さがあったわけです。その思いが結果的に良い作品を生み出したのかもしれないですよね。

実際にルソーに至っては非常に貧しい生活をしており、彼の作品が評価されるようになったのはお亡くなりになった後の最近のことです。

残念ながらこの「貪欲さ」は豊かなときだとなかなか得にくいものです。貧しさというのは決して悪いことではなく、むしろ場合によってその道を行こうとする者の助けとなることがあるわけです。

もちろん貧しい人間が必ずしも道を究めたり、良い作品を残せるとは限りません。しかし貧しい道も悪くはないぞと。

そのようなときでも道は究められるのだぞと励ましてくれているのです。この 「道は貧なり」 とはそのような意味なんです。

実際に道元禅師は私利私欲をなげうち、深山幽谷の地で弟子たちとただひたすらに坐禅に打ち込みました。

またそこでは食べるものが少なく、お米をおかゆにし、薄めながら食したこともあったといいます。

「道は貧なり」。豊かさが必ずしも人の幸せではないということです。

特に何かの道を究めようと、求道心の強い者にとっては。

なぜ豊かさが大切なのか?豊かさとはなんなのか?ほんとうの豊かさとは何なのか?そのようなことを考えさせられる大切な教えです。

道は貧なり

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