「死してもなお仏。」これは間違いのない事実ですが、やはり死ぬのは悲しいことです。
私たちはいつか死ぬのであります。
いずれ終わってしまうというのに、一体我々は何のために生きているのか、あるいは何のために生きていくのでしょうか。
このように普段から仏教の勉強をしたり、坐禅を組んだり、お経を聞いたりしていても、そのような功徳に出会えた試しはなく、苦労ばかりで、全く思うようにはいきません。
また足を組み続けること。それが本当の生き方であることがわかったとしても、やはり我々は日常に忙殺してしまいます。
そして気づけば年老いて、あっという間に人生の節目を迎えてしまうのです。私も結局そのようになってしまうのではないかと不安な思いでいます。
一体何のために我々は生きているのか。生きていかねばならないのか。あるいは誰かが何か目的を持って我々をこの世界に存在させ、そこで生かしているのか。
今の自分のままで本当に良いのか・・。
わからないことや、不安なことばかりですが、それでも我々は何とか今日を生き、明日も生き抜くより他がないのです。
しかし、そもそも私たちは「自力」で生きているわけではありません。
父母の存在があって、こうして生を受けることができたわけだし、常にこうして呼吸ができるのも、また寝ている間にも呼吸ができるのも、絶えず働いてくれるこの健康な身体と、酸素提供者がいてくれるからです。冬の寒い日にバケツの中に手を突っ込むと冷たさを通り越し痛さを感じる、あるいは雨に打たれ、ブルっと寒い思いをする。
いずれもこの世界の理の影響を受けてしまう。宇宙がそのまま自己に介入してくる、自分の命に直接関係している、私という命を握っている。
気づけば自分の髪は白くなり、そこから黒い髪に戻すことはできない。
一番何でも思うようにできると思っている自分の体でさえも、このように全く手に負えない状況のわけです。
我々は生まれた時から、他力の中で生かされております。今こうしている間でも自分ではどうすることもできない人生を歩み続けております。
今自身が聞いているもの、見えているもの、感じたこと、思ったこと、それら全ての行いも、他者によって行なわされたもので、他者がいるから行えるものです。
そもそもそれら行動は自分が「やった」と思う前に「やらされている」のです。
また突然の事故に遭ったり、病気を患ったり、戦争の犠牲になったり、犯罪の犠牲に遭ったりと、死ぬこともまた、他力に委ねられているわけです。
このように「生死」はいずれも全く自力の範囲ではないのです。
しかし自身が望んだわけではなく、事実、他力によって存在させられている私という命。誕生させられた私という命。他力っぱなしのこの自分の命。
そのような自分の手の届かない命において、生かされている役目を果たせば、この世の中にもう用はない。あとは死ぬだけです。またなすべき役目を果たせば、死んでいくだけのことです。
「ここで生かされること」だけが我々の全てであって、また我々の「使命」なのかも知れません。
それまではただ生きればいい。またその際はただ死ねばいい。
我々が生きているということは「生かされている」ということなのです。生きていくということは「生かされていく」ということなのです。
この私を生かしている「何か」がこの世には必ずあって、それを「仏」と言います。
そして生かされているうちに、それに値する役を果たせば(つまり生きて死ぬこと)、私を生かしていたもの、つまり仏がきっと温かく迎えてくれるはずです。
仏が我々を作り、今のこの世界、全てを管理しているものだからです。他でもない私をこの世界に送り出した張本人だからです。
私を含め、ここにある目に見えるもの、姿、形のあるものは、全て生かされ、作られたものですが、一方の生かしているもの、仏には、姿も形もない。道理がない。触れられない。説明がつかない。
しかし例えばうちわで仰げば風が吹く。火打石でカチッとやれば火がつく。春になれば桜が咲き、水は冷たく、花はかれます。このような今我々が当たり前に思ったり、普段触れているものが、実は「その者の正体」なのです。
仏は我々のいつもすぐ隣にいるのです。
「うちわで仰げば風が吹く。」我々の当たり前は、実は仏だったのであり、それはとても計り知れないほどの豊かさをはらんでいながら、解明できない。説明できない。
我々はまさに魔法とも言える世界にこうして生きているわけです。
そしてそのようなものがこの世界を作り、私を作り、生かしているのです。
この目には見えない世界があることに気づくことが、いわゆる「悟り」なのではないでしょうか。
誰かと手を握れば暖かくなること。おならをすること。握り拳を握ること。このような我々の日常の活動範囲の全てが、あるいは周辺情報の全てが、そうした生かしている側の「命」、「正体」とも言えるわけです。
しかし「生かし、生かされる。」人間の頭で考えれば確かにこうした線引きもできるかも知れませんが、実はこの私自身がその「生かし、生かされるもの」なのです。
なぜなら生かしている者と生かされている者、そこでは両者は必ず重なるからです。生かすということは生かされるものがあって初めて生まれるものだからです。逆もまた然り。
つまりここでは全てが一つ、我々もその仏なのです。
我々がいるから仏がいるんです。仏がいるから我々がいるんです。私がいるから、そこでは手を握れば暖かくなるんです。
生きるも死ぬも他力の手の内。自分も自分以外も全て仏の手の内です。
我々はどんなに今日や明日が辛くとも、この仏に万事を任せ切って生きれば良いのです。
「死してもなお仏。」我々が骨になっても、仏は私を守ってくれます。そしていつか自然に返し、また新しいスタートを切らせてくれます。
この仏と一体となって共に生きる。これが悟りの生活です。我々「仏」の、本当の生き方なのです。
我々はここでは生きて死んでいくことだけをすればいいのです。ただただ生かされていけばいい。
それが生きている我々に与えられた本当の「役目」です。その時が来るまで生かされ続けていく。どんなに明日が辛かろうが歯を食いしばって生きるのみ。
必ず最後に仏様がお迎えに来てくれます。
我々が生きるということは仏に生かされるということです。我々が死ぬということも仏に生かされるということです。
そしてそれが今ここで「坐禅をする」ということなのです。足を組めば痛いということなのです。確かに私はこの仏の世界で生きているということなんです。確かに私は仏であるということなんです。誰もこの自分という命を変わってくれないということなんです。全てはこの自己の展開だということなんです。
お前は何者だ、お前の役割はなんだ、生きる意味とは、なぜ生きていかなければならないのか。
この他力の世界で、他力によって作られた我々には、その問いには残念ながら答えることはできません。
自力の限界を知って、他力に生きる。仏に生きる。
繰り返しになりますが、この仏と一体となって共に生きる。仏に任せ切って生きる。これが悟りの生活です。我々「仏」の、本当の生き方です。
何のために生きるか、なぜ生きるか、そのような探り合いはここでは不要なのかもしれません。
日によっては、朝起きることが辛く感じられる時もあると思います。今日はどうしても憂鬱だと思う時があると思います。
しかしそれも仏様に「思わされている」ということです。またそのように思わせた境遇も仏様が我々を生かすために準備してくれたものです。それは今私が仏として生きている証拠として受け止めればいいのではないでしょうか。


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