「生きること」が本当の救い。ここで生きること。この水の中の世界を生きるということ。

どのような「心構え」で生きるのが正しいか。果たしてこの世界の「真実」とは何か。

しかし、このような考えに縛られることほど、馬鹿らしいものはありません。

なぜならそんなことを気にしなくても、あるいは明らかにしなくても、事実、生きていける。ただただ生かされてしまうからです。

そのようなことは、人間的な考察であって、人間の単なる娯楽です。そのようなものは実際の世界とは一切関係がないと、そう言い切れるのです。

そのような思索は生きる上で全く不要なのです。非常にバカらしく、単なる時間の無駄です。

しかし、こと大自然に仕える仏道者においてはそこにこだわる必要があります。

そこを明らかにすることが仏教者のいわば「仕事」だからです。またそれが多くの人を安心させるための「道具」となるからです。

仮に無駄なことであっても、大切なことなのです。

その際私はこの世界は魔法の世界だったり、仏の世界だったり、水の中の世界、といった言い方をしています。

ここでは意図せずとも呼吸ができ、鳥の鳴き声が耳を震わせ、自動車の入る音が聞こえる。また真冬になればブルっと震えるように、私と世界は1つ。私とは常に「全て」。仏と共にある。常に救いなのだ、常に仏なのだ。

だから安心していいのだと。この世界にいるだけでいいのだと。生きているだけで救われているのだと。そのように思って欲しいからです。

もちろんこれは事実なのであって、あとはいかにこのことを伝えていけるか、あるいは素直に受け止めてもらえるかが肝心です。

このことを理解してもらうのに、実際に今水をためたバケツの中に手を突っ込んでみていただくのです。今であればひんやりと冷たく感じるはずです。真冬になると手が千切れると思うほど痛く感じるはずです。

先ほども述べたように、要するに我々と宇宙は一体なのです。両者に線引きはないわけですね。私がそのまま宇宙で、宇宙がそのまま私なのです。

今の実際の状況や心境に関わらず、そこ、それは「全て(救い)」なのです。

しかしこのように諭していくとしても、結局これは言葉です。そして言葉になってしまっている以上、それは人間の取り決めであるということなんです。

ここは仏の世界、救いの世界。

つまりこのようなことは単なる「概念」なのです。それだと本当の「仏のみ」にはならないということです。

概念というのは例えば、ここが仮に水の中だとしても、それを水の中だと「思う」ということです。あるいは仏とは〜だとか、私は〜だとか、全ては仏だとか、このように物事を「区切る」ということです。

しかしここは「水の中だ」と区別してしまったのなら、それは水の中ではないということです。「ここは水の中だ」と思うということは、水の中ではないということです。

なぜならここを離れていることになるからです。水の中を離れた時に、「ここが水の中だ」ということがわかったり、思えたりするからです。

「水の中だ」と言ってしまうと、そうではなくなる。そこでは矛盾が生じてしまうわけです。

概念によるそのような心境操作だとしても、それも立派な我々の「真実」です。またこの私と世界とは「1つ」のわけで、そこに誤りが生じます。

要するにそれは、水の中ではなくなってしまうということなのです。水を離れるということなんです。

言葉というのはその時点で「矛盾」なんです。本来1つの物事。「自身=宇宙」を、「自身/宇宙」にしてしまうからです。

仏を切り裂く、あるいはこの世界を切り裂く、「凶器」のようなもので、できることなら使わない方がいいです。どんなにそこで言い得たとしても、確実に誤っているということだからです。

概念や言葉。そのようなことはそもそも、真実に反しているというわけです。

ましてや概念の形は人それぞれであって、捉え方も人それぞれです。

しかし先ほども述べたようにこの概念というのも生命の実物、この世界の真実であり、それは他によって「思わされているもの」だということです。自分でやっていることではないものだということです。つまりこの概念も仏の所業だということです。仏の「呼吸」だということです。

一方、成り立ちはそうだとしても人間のこれまでの科学の発展や言語の発展によって、そこが着色されてしまったという事実もあります。

確かにこの「思量」というのは生命の実物ではあるものの、そこから形成された概念や言葉というのは不完全なのです。またそれはそもそも手に取ることはできない、実際の世界と縁切りしている、関わりを持つ事ができない、まさに無駄なものなのです。

この概念というのは非常に不思議なもので、ある意味では真実、ある意味では真実ではないという「二面性」があります。捉え方が非常に難しく、扱いは慎重にならなければいけません。何よりもそれは手に取ることができず、人によって肝心の捉え方も異なります。そこに正確さを見出すことはできません。それらの点も考慮し、やはり言葉でのアプローチというのは真に安心を求める仏教者の「仕事」ではないんですね。それでは多くの人を安心させることはできないのです。

仮に優れた思想や言葉で持って、人を安心させる事ができても、それは「真の安心」ではないのです。

それではどうすれば人に本当の安心を与えられるか。仏道者の仕事ぶりとは何か。ここが水の中なのだと本当の意味で伝えることができるか。あるいは自身が本当にこの水の中を実践できるか。

それはもうご自身の「体験」以外ないわけです。そしてその人自体を「安心そのもの」にしてしまうのです。仏そのものにしてしまうのです。そのための活動をするということです。

ただただ、この水の中を行じること。ここが水の中だろうと、仏の世界だろうと、絶対安心の世界だろうと、なんだろうと、我々にはこの世界しかないわけで、その世界と今こうしている間にも私は「同時」であるということ。そして何の議論においても「その世界のこと」を言っているのだから、疑いもなく我々はこの世界をただ生きていればいいわけです。

我々はただこの世界にいればいいわけです。ここで生きているだけでいいわけです。

救いだとか、なんだとか、そのようなことは持ち出さなくとも、ただ私はここにいて、ここで生きていくこと。

これだけがこの「世界の全て」のわけです。そしてそれが実際にも「全て」のわけです。今、ここで私が私をすること、私の動き、その中にこの「世界の全て」が含まれるわけです。

よってそれが本当の安心であり、救いのわけです。

この世界にあるのは私が今、ここに生きているということだけです。あるいは「自己が自己をするということだけ」なんですね。「自己の動き」だけ。

そこに生と死は集約されるのです。

ただ、これをやってもらう。それが本当の究極の救いであり、全てなのです。我々もそのための活動をしていけばいいのです。

ただただここで生きていること、この水の中の世界を生きること。これが本当の、究極の救いなのです。真の安心なのです。全てなのです。

この世界で生きること、自分が自分を自分すること、ただそれだけです。それがまさしく「全て」なのです。

なので道元禅師をはじめ、過去の祖師方は坐禅をおすすめになるんですね。

坐禅が先の「自分が自分を自分すること」だからです。坐禅だけがこの世界にあるものだからです。坐禅が宇宙の呼吸、私の命そのものだからです。私がここ(救いのみの水の中)で生きるということだからです。正真正銘の「生きる」ということだからです。

だから「只管打坐」なのです。

「只管打坐」こそ、究極なんです。

何が救いか?何が本当の安心か?冒頭に話を戻すと、結局はここで坐ること。あるいはいま握り拳をにぎること。何かを思い、何かを食べること、屁をこくこと、そこにこの世界の全てが含まれているということです。あるいは「救い」も「正しさ」も、「真実」も全てそこに含まれているということです。

単に生きている(く)ということだとしても、実はそれが全てだったのです。

生きていると色々な事があります。嫌なこと、辛いこと、悲しいこと、嬉しいこと。時に生きるのが辛くなるほど辛い時もありますが、そのような面持ちすらも仏の呼吸なのです。我々の仏性なのです。生きている間も、あるいは死んでからも常に仏と共にある我々です。

ここで生きていくことは、つまり「救い」なのです。

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