我々人間が生きるということは、つまり「何かを考え、行動する」ということです。
何かを考えること、そして行動すること。
簡単に言えばこれが我々の生活規則であって、生活態度であって、常にこのどちらか、あるいはそのどちらをも、そこで繰り広げているわけです。
その「何かを考えること、そして行動するということ。」これは一体どういうことなのでしょうか。
つまり我々が生きるということはどういうことなのでしょうか。
他によってやらされた、自分ではどうすることもできない
先日私は電車に乗ろうとしました。東京は、大森駅から新橋駅に向かうために「京浜東北線」に乗ろうと思ったんです。
しかし予定していた電車がどうやら前の駅で何某のハプニングにあったらしく、全く到着しません。駅のホームは気が付けば人でごった返してしまい、そこら中から「舌打ち」が聞こえてくるような始末です。
だんだんと私もイライラしてきて、なぜこのようなことになっているのか、原因はなんなのか、またこのままでは予定の時間に間に合わないのではないか。そのような焦りや、怒り、不安の思いが巡りました。
大体20分後くらいでしょうか、ようやく電車が到着しました。
さらにその際、我先にと思ったのが仇となり、つまずいてしまい、転倒してしまいました。
とても恥ずかしい思いをしました。同時に損した気分にもなりました。
そもそも電車が遅れなければそのような思いを抱くことも、転倒することもなかったわけです。
もちろん自分の短気で、せっかちな性格のせいだと言われればそれまでなのですが、しかしわたしにしてみれば、そうさせたのは紛れもなく電車の遅延です。またその原因です。
誰が犯人だ、なぜこうなった。
しばらくはそうした、他責の思いが巡りました。怒りに支配されました。
たった朝の数十分間の間にもかかわらず私は、非常に多くのことを思い、そして行動をしたわけです。
しかし今思うと、それはまるで自然災害のようなものだったのです。どうすることもできないことだったのです。
例えば私がその時間のその電車に乗らないといけなかった理由は、私に予定があったからです。そこで会わなければいけない人の存在があったからです。またその人が「たまたま」東京に来ていて、どうしてもその日しか暇が作れない、そのような諸事情があったからです。
要は「自分以外の存在」によって私はその場に立たされていたわけです。
また肝心の電車が止まったのは、人が急な風に煽られてホームに転落したのかも知れない。あるいは持病を抱えた人がいて、体調が急変してしまったのかも知れない。いつもその人は、別の曜日に医者に行っているのに、担当医が休みで、たまたまその日がちょうどその振替の日だったのかもしれない。
結局原因はわかりませんでしたが何かが起こったのです。そしてその「何か」というのは、根深い因縁が複雑に絡まり合った姿だったということです。
物事というのは、全てそのような、収拾のつかないしがらみに支配されて起こっております。
その時々に因縁たちが、出会い、そしてまた出会い、結合する。そして時に自分に関わる物事として登場する。
自分の出来事というのは「他」なのです。つまり他によって生み出されるものなのです。
またその他においても、先ほども述べたようにさらにその他によって生み出されている物事であり、そこでは収拾のつかないしがらみに支配されている。
常にそのようなことが起こり続けているというのがこの世界であり、あるいは「私」という出来事なのです。
我々からすれば予期せぬことも、あるいは万に一つのことも、結局はそのような起こり方をしていて、他によって生み出された単なる物事にしか過ぎません。
無論、今こうして日常だと思っている朝の風景、机の上でPCをカタカタ打つこと、コーヒーを飲むこと。こうした普段の日常も、同じような仕組みをしております。
1つでも要素がなくなれば、あるいは過程や要因が崩れたりすれば、一方でそこに何かが加わったりすれば、決してそうなることはありません。
そう思うと、全ては万に一つ。他に支配されている。当たり前のことなどないのです。
私のその思い、その行動というのは、常に他や、その他のさらに他、因縁の中の因縁によってもたらされるものだったのです。まさに自然災害だったのです。
我々は常に自然災害に出会っているのです。あるいは行っているのです。
我々の普段の日常、あるいは千載一遇の状況。それらはいずれも、地震や雷などと同じ天地災害です。
普段の日常だろうが、そこで穏やかな気持ちで過ごしていようが、一方、万に一つのことでも、偶然に起きたことでも、そこで思うこと、思っていること、次に思うことというのは、自分で用意したものではありません。
そこで出会うものは例外なく、自分で選んだ思いではなく、自分で選んだ行動でもない。自分ではどうすることもできずに、他にさせられてしまったもの、他に急にさせられてしまったものだということなのです。
我々は思うのではなく、思わされ、また行動するのではなく、行動させられているのです。
我々の日常は常に「天地災害」なのです。
こんなことを普通の人は思わないわけで、一般の解釈であれば「今日朝から電車の遅延があって、めちゃくちゃイラついたよ〜しかもドジしてこけちゃったし、ついてないわ〜」このような捉え方にしかならないはずです。
しかしそのように思いとどまるのは実は正しくなく、実際には「やらされてしまったもの」なのです。
そのような考えから逸脱する必要があります。つまり我々はやらされているということ、生かされているということを思う必要があるのです。
同時に普段の生活においても、あらゆる出来事が確率にして計ることができないほど、実に尊いものなのです。
冒頭でもお伝えした通り我々の生活態度というのは、何かを考え、そして行動することです。それのみです。
我々はあたかも自分の手柄のように思っておりますが、それらは全て自分でやっていることではありません。
他によって思わされている、そして行動させられているものなのです。
他とは?
肝心のその「他」とは「仏」のことです。
この世界では全てが1つだからです。鳥が鳴くと、私の耳が震えたり、冬になるとバケツの中の水は冷たくなり、雑巾掛けで手をそのバケツに突っ込むと冷たさを通り越して痛くなるように、またどこからともなくやってきた酸素によって、いつでもどこでもどの国でも、寝ていても呼吸ができるように。
それぞれの命が重なり合っている。命に垣根がない。宇宙がそのまま自己であり、自己がそのまま宇宙だからです。
この世界は全て同一階層の話であり、全てが私に繋がっていて、あるいは私だけの話であり、一方で全てが仏と繋がっていて、仏の中の話であり、それは事実として仏と繋がっている。「仏」そのものだからです。
見方として、死にっぱなし、生きっぱなしなのです。
今回でいえば、会う約束をしていた人、電車の遅延、あるいは怒りっぽい性格、あるいは老婆、あるいは風、あるいは躓くこと、あるいはPC、あるいはそうたらしめる指。
こうしたもの、全てが「仏の呼吸」だったということです。
そのようなものに自分は生かされている。そのようなものにさせられている。そのようなものに思わされる。そのようなものによって私の行動が決められる。
言い方を変えれば「導かれている」のが私という存在なのです。我々は常に仏に導かれているわけです。他によって生かされているわけです。他によって私の一挙手一投足が決まるわけです。
結果として思うのではなく「思わされていた」と言ってしまえばそれまでですが、そもそも「何かを思う」ということは、その矛先、受け皿となる対象物があってそこに向かっていくからできるわけです。思考の経路が確保されるわけです。
「それ」がなければ生じることのないもの。つまり「他」なのです。
「思う」という、そのもの自体が「他」なのです。
我々の一挙手一投足。それらは全て自分でやっていることではありません。
やらされている。ただただ、やらされてしまう。
丸ごと、ひっくるめて「仏の導き」なのです。
「運命」という言葉がありますね。あまり好きな言葉ではないのですが、あながち否定できるものではありません。
我々の生活全ては、全て「そのようになってしまうもの。させられてしまうもの、決められているもの」だということ。他によって握られており、自分ではどうすることもできないものばかりなのです。
我々が生きることは、他に生かされるということです。仏に導かれるということなのです。
しかし何があってもそうしてしまう、呼吸をしてしまう、思ってしまう、あるいが何があっても他によって生かされててしまう、何某の結果に恵まれる我々がいるわけで、あるいはどんな場所に放り込まれても、そこは仏の地です。どんなことがあってもそれは仏なのです。
常に我々は救われているのです。
必ず仏の場所に導かれるという意味でも、仏に導かれているということです。
今こうしてこの記事をあなたが読んだこと、そしてそこで思ったこと、それらはすべて仏の導きだったのです。ある種の自然災害であり、運命だったのです。
しかしこのような「極論(真実)」は、どうすることもできないと諦めるためのものではなく、また傍若無人に振る舞うことを許すためのものでもなく、心安らかにこれからの人生と向きあうためのものです。
それこそ仏の「主旨」だからです。つまり我々が真に生きるためにあるものです。
このことを「仏教」と呼ぶのかも知れません。
どうかこれとともに、一生に一度の人生、仏のみの安心の人生を謳歌してください。
何も疑うことなくその呼吸をしてみてください。今置かれた状況を生きてみてください。
そこで悩むこと、悲しむこと、努力すること、転ぶこと。
これからの人生では多種多様なことが起こったり、襲いかかるはずです。しかしそれは仏の導きです。我々は常に安心して生きていっていいのです。
安心して悩む、安心して悲しむ、安心して努力して、安心して転びましょう。


コメント