この世界は「仏」のみです。
例えば今目の前にあるもの、そこで聞こえるもの、見えるもの、匂うもの。
それら全てが「仏」です。
なぜなら鳥の鳴き声が自分の耳を震わせるように。またあるいは人と人とが手を握り合って温もりを感じるように。またあるいは真冬のバケツの水の中に手を突っ込むと手が痛くなるように。
ここでは全てが1つだからです。ここでは全てが「全て」だからです。
要するにA=B=C=Dだということです。
仮にこの世界のどこかに遠くにあるものでも今の私は繋がっているし、仏がどこか遠くにあるものだとしても、その遠くにある仏とも今の私は繋がっているということです。
即ちいまここにあるもの、起こるもの、見えるものは全て仏だというわけです。
そこでは例えば花が枯れること。これも仏だということ。あるいは握り拳を突き上げることも、救急車のサイレンの音も、子供の声も、おしっこも、うんちも、ビルも、山も、全てが仏だということです。
「健なれば坐し、疲れれば横になってしまう」。私自身が「仏」そのものなのです。
そもそもこの世界に存在するものは、この世界の働きを100成しております。
例えば私に比べてA君の方が、呼吸が上手だなんてことはありません。私に比べてA君は坐禅をした時に足が痛くならないなんてことはありません。無論、あちらの花よりこちらの花の方が優秀だなんてこともありません。
全てが絶対平等、この世界の恩恵をあるがまま、100いただき、それにお答えしている仏の姿なのです。
またここでは別の世界の「産物」、別の世界の「行動」というものは何1つありません。
全てがこの世界の話で、この全てが1つに繋がった世界の話のわけです。
つまり仏の話なんです。仏に含まれる話なのです。仏の手のなかの話なんです。
私がふとした時に不安に思うことも、怒り心頭することも、邪な思いも、全てがこの世界の働き、自然な働き、仏の働きなのです。
またそれならば、ここではすべての行いが仏行になるということにも気づく事ができます。
朝歯を磨き、洗面すること、毎日三度食事をいただくこと、自転車に乗る時姿勢を正すこと。
ここでは全ての行いは仏に触れているということ。仏を操り、仏を生み出しているわけです。
我々の日常には仏が溢れているわけです。生活を丁寧にいきること以上の仏道はありません。我々の日常には仏が溢れているわけです。
これを逆手にとれば、仏を作り、その仏の功徳で世界を満たせすことができるというわけです。
我々の日常にはこうした世界を仏だらけにする、世界をよりよくする夢に溢れているわけです。
またここで生まれて、生きていく以上、常に仏と共にあるわけで、言い方を変えれば、仏に常に監視されているわけですね。誰も見ていないからなんてことは絶対ないのです。
常に修行させていただいていると思い、またそれを幸せに思い、人生の生き甲斐にしていけたらいいですよね。
そうした人生を誰もが歩むべきです。いかに仏を作り、その仏の功徳で世界を満たせるか、そのように思いながら生きるべきで、そういった事が若者の夢になればこんなにも嬉しいことはありません。
一人一人、この世界の全てを包括している「仏」に仕えて生きていけばいいんです。つまり大自然に感謝しながら生きていけばいいんです。
そして誰もが常に安心を感じながら仏に生きる、仏道に生きる、こんな風に生きることがたらきっと世の中は良くなるはずです。
仏道とは「今、ここ」です。仏とは「今、ここ」です。
今こうして握り拳を突き上げることです。あるいは呼吸をすることです。何かを見、何かを聞くことです。「おい!」と呼ばれ、「はい!」と無意識に返事をしてしまうことです。
何も案ずることなく生きていけばいいのです。何が起ころうと、死してもなお仏なのですから。
あるいはそのような武器を手にするだけで、どこにいてもいい、どこでも死にきれる、生き切ることができるということですから。
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