「仏教」もない、「禅」もない、「仏」もない、「救い」もない。

タイトルで少し驚かれた人もいると思いますが、要するに今回も以下の2つの記事と同じように「仏教」とは何か、ということを考えてみたいと思うのです。

日本はかつて「仏教大国」と呼ばれておりました。残念ながら今は人々の信仰心は薄れ、なかなかそのような話ではなくなってしまいましたが、過去にはこの仏教が大いに活躍し、この日本を支えてくれたのは事実です。

今の人に「お米には仏様がおる」といっても、「はて、なんのことやら」と呆気にとられてしまうことでしょう。

しかし事実としてこの教えが日本を日本へとたらしめ、日本人に慈悲や奥ゆかしさをもたらしてくれたのだろうと思います。

私も信じておりますが、この世で最も価値のあるもの、それが「仏教」です。

この仏教がこれからも多くの人を支えていって欲しいと願うばかりです。

目次

絶対平等

今回のことを本格的に考えていく前に、まずは我々が今置かれている状況について整理してみたいと思います。

「事実」というものを見ていきたいのです。

例えばこの世界には頭が良い人とそうでない人とがおります。しかし仮に頭がよくても悪くても、シンプルに足を組めば痛い。総理大臣だろうが、芸能人だろうが、偏差値70以上の高校の出身者だろうが一緒です。

要するに我々はみな同じ足の仕組みをしているわけです。

また同じように我々は何かしらの食べ物を食べますが、その食べたものは誰もが同じように消化します。豪華な食事も素っ気ない食事も喉元を通ればわけ隔てなくきちんとこの体が消化してくれるわけです。

人によって毎日フランス料理のような豪華な食事を摂る人もいれば、毎日お粥とたくあんだけという人もいると思いますし、そこで毎日栄養を摂れる人とそうでない人がいるのも事実です。

しかし内容や結果はいずれでも、いわゆる消化器系の働きのようなところも我々は皆同じ仕組みをしております。

「オイ」と呼ばれれば、無意識に「ハイ」と返事をしてしまうのもそうだし、健なれば坐し、疲れれば横になってしまうのもそうです。

要するに我々は皆、平等の体の仕組みをいただいているわけです。紛れもない真実のあり方をこの体は成しているわけです。

また同じく今置かれている状況ということで言えば、仮に誰がなにをしていようとも1秒ごとに風化されております。外気に触れ、時間の拘束に掛かり、同じように皆、歳をとります。

ここでは花は枯れ、みな平等に歳をとるというわけです。

またそこでは我々は常に何かを見たり聞いたりしているわけですが、例えば自分が意識せずとも、それがカラスの鳴き声か、鶯の鳴き声かきちんと聞き分けることができますし、そもそも自分が命じなくとも、どちらも変わらずにきちんと耳に入ってきます。

また同じように誰もが太陽の光を浴びることができますが、例えば室内にいて紫外線に当たらない人も、室外にいて紫外線に当たる人も、そこではその「太陽量」なりの結果が惜しげもなく展開されるわけです。

もちろんその量が多ければシミができてしまいますし、場合によって寿命も縮まることもあるでしょう。なのでできれば太陽に当たりたくない、紫外線には当たりたくないというのが本音としてあると思います。

しかしそれはそれとして、そこでの「太陽量」は決して包み隠されていないということです。仮に太陽量が少なくとも、室内にい続ければ腰痛になったり、目が悪くなったりしますし、言い方を変えればそこにいると、シミはできず、寿命が延びてしまうと言うわけです。

結果はいずれでも、そうなる「道」がどちらにもきちんとあるということ。そしてそれは必ず真実の結果に繋がっている。嘘ではない正真正銘の「真実」がそこにはあると言うわけです。

そういう視点で、いつでも正真正銘100点満点の状況だということです。

要するに我々はいかなる状況に置かれようとも、いつどこでもこの世界の「全働き」をいただいているのです。

ミサイルの飛び交う国とそうでない国。そしてそこで死んでしまおうがなんだろうが、我々は常にこの「世界の全働き」とともにあるわけです。それを受けてしまうわけです。

貧困の国で生まれ育った子供と、豊かな国で生まれ育った子供とでも、そこにはなんら違いはないということですね。

我々は皆包み隠さず、余すことなく、この世界の「全働き」とともにある。

同じようにこの世界の真実をいただいてしまうのです。誰もが包み隠さずこの世界の「全て」をいただけるようになっているということなのです。

今の話は先ほどの体の仕組みに対して、一方の世界の仕組みの話です。要するに自分の内と、外の話です。

自分の内側と、外側。この世界にはその2つしかないわけですが、それらが誰においてもいつも100いっぱいだということなのです。

つまり誰もが絶対平等。これが事実としてあるわけです。

この世界の「事実」を伝えるのが仏教

我々は生きている間は、誰もが同じ分の恩恵を常にいただいているわけです。嫌でもいただいてしまうわけです。嫌でも常にこの世界の真実の全てを手にしてしまう。恩恵を余すことなくいただいてしまう。それが展開されてしまう。

このような生き方をしているというわけです。

「いつでも誰でもどこでも誰もが100のあり方」このように考えれば良いでしょう。

人間だけではありません。草だろうが、クマだろうが、虫だろうが、コンクリートだろうが、鉄だろうが、なんだろうが、何もかもが同じようにこの世界の真実と常に共にあります。

1秒ごとに風化していっているのです。

我々が生きている間は常にそういう世界で生きられるというわけです。常に100いっぱいでありつづけることがてきるわけです。

皆、絶対的に平等で、これ以上もない以下もない生き方しかできないわけです。

ある意味それは救いだぞというわけですね。皆平等に100であり続ける。寝ている間も、何をしている間も、常にこの世界の100とともにあるということ。

確かにそれを救いととるか、地獄だと受け取るかは今置かれた状況によって異なると思います。

例えば私が戦火が飛び交う、貧困の国にいる若者だとしたら、とてもそんな風には思えないと思います。

しかしこれは残念ながら事実であり、またやはり正真正銘の「救い」だということなのです。

この事実を説くのが今回の「仏教」の役目であり、「仏教」の定義だという風に私は思っております。

絶対平等、常に100。常に誰においてもこの世界の真実が展開する。死してもなお、その事実からは逃れられない。死してもその事実が展開する。死してもなお、お救いである。

そのようなことを伝える教えが「仏教」だぞというわけですね。

事実は救いのみで、その事実を伝えるのが「仏教」だというわけです。

仏教などない

しかし今述べてきたようなことは実は正しくないのです。正しくないというよりは本当のことではないのです。

そしてここからが今回の話となります。

改めてですが、ここでは鳥の声が自分の耳をふるわせるわけです。鳥によって自分の命が起こされる。

あるいは自分が寝ている間にもこうして体が呼吸をしてくださるから生きられるわけですが、その呼吸に必要な酸素というのはどこか遠くからやってきたもののわけです。

自分とはかけ離れた遠い場所からやってきた「私という命の源」のわけです。

つまり私という存在は「他」によってできているわけですね。

この世の全てのものはこのようにして生かし生かされの様相で、この世の全ての命は1つとして繋がっているわけです。

壁を殴れば痛い。人とぶつかってお互いに痛い思いをする。そこではお互いに命が発生してしまう。命に垣根がない。

それは要するにこの世に私という存在はどこにもないということなんですね。

世界は常に1つ、私はこの世界と1つなのです。

実際に真冬に雑巾掛けをしようと思い「バケツの中の水」に手を突っ込むと、驚くほど冷たいし、痛くなるはずです。それはまさに宇宙と自己との「間」に垣根がないからなのです。「宇宙」がそのまま「自己」であり、「自己」がそのまま「宇宙」なのです。

「天地同根万物一体」あるいはお釈迦さまの言葉を借りれば「大地有情同時成道」というわけです。

良寛さまは、人に借りたものや、その辺に落ちている石ころにも「俺のもの」と書いてしまったといいます。

全てが無我、全てが自我。

全ては1つ。同時。全ては私で、全ては「今、私の、この自己の展開」だというわけです。

そのような世界で、今回の「仏教」や「仏」に見るように、これは〜であるといった考え方がそもそもできないわけです。物事が2つとして分かれない以上、「これ」というものがこの世には何一つ存在していないのです。

全てが「全て」の世界。全てが「1」の世界で、そこから何かが分かれるといったことはないし、それがない以上物事の定義はできない上、個別の存在というのもあり得ないわけです。

ここでは「自分」と「他」をわけて見ることはできないし、無論、自分と仏教、自分と仏を分けて考えることはできないのです。

ここには何もありません。仏もなければ仏教もないのです。常に仏そのものであり、常に仏の中の世界なのです。常に水の中の世界なのです。

言うなればここは「無仏法の世界」なのです。

仏とは何か?仏教とは何か?禅とは何か?心とは何か?

そのように考えるということは、それは水の中にいるのに水を探しまわってるようなものだということなのです。自分の目で自分の目を見るようなものだということですね。

仏とは「私」なんです。全ては「私」なのです。

今回の仏に限らず、何かを求めたり何かを定義したりすることはそこから離れた時にできることです。それが本当に見えた時にできることです。つまりそれは鳥の鳴き声が聞こえない世界に行けた時に初めてそれができるというわけです。

よって永久にできない、そもそも存在しないということなんです。

何かを常に追い求めている我々ですが、蓋を開けてみれば、そんなことばかりやっているわけですね。できもしないことばかりをやっているのです。水の中にいて、水を追い求めている。

すべてがこの自己の繋がり、この自己の延長であり、この自己の展開です。

本来何かを求める必要はないのです。求めようとしてもそのようなものはないし、できないのです。

今、ここ、この自己しか、この世界にはないのです。

今、ここ、この自己が自己をすること、それだけが世界の「動き」なのです。それだけがこの世界に「存在」しているものなのです。

なので例えば仏法とは何か、仏とは何か、仏教とは何かと外国人にきかれたら、思いっきり鼻をつまんでやりなさいということです。

この世界はすべて自己の展開なのだと。仏も、心も、禅も、あらゆるものはすべてこの自己のことなのだと。

仏教も自己そのもので、今、ここ、この自己の展開なのだと。

真実とは、もしくはこの世のたった1つのこととはその鼻の痛みなのだと。

その「痛み」が「仏教」であるということを教えてあげるのです。

教えてあげるというよりは思い出させてあげるのです。ここは仏のみの世界ということで、我々はただそのことを忘れているだけだと、水の中で水を探しまわっているだけだと。

ここは仏のみの世界です。仏から漏れることがない。仏教とは何かなんてこと本来考えなくていいのです。

そんなものは探したところで「ない」のです。

そんな無駄なことなどせず、我々はこの水の中にいさえすればいいのです。ここで生きていきさえすればいいのです。余計なことに、このかけがえのない時間を浪費しないでください。

今回「仏教」とは何かというテーマでお話ししてきましたが、我々が必要な努力は、そのように仏教に関してということを頭で探ることではありません。

頭を鍛え、この巨大すぎるコンテンツ、仏教とは何か、その真髄に迫り、それを言い当てることではありません。

あるいは幸せや、救い、豊かさを追い求めることでも、悟ることでもないのです。

我々に必要なのはそのような疑いを捨て、この世界に居続けること、この世界で安心して生きていく努力だけです。

ただ毎日をこの水の中で生き抜くことだけです。

先ほど述べた通り、それは自己が自己をするということです。

それが「坐禅」だというわけです。坐禅が我々が生きるということなのです。

このことを「只管打坐」といいます。

それだけがこの世界に「ある」ものなのです。それだけが「本当」のことなのです。

冒頭では仏教に対する信仰心が薄れてきている実情をあげましたが、その問題と今回の内容を考えると複雑な思いです。

残念ながらこの世界には何もありません。このような事態でもそれは「水の中」なのです。

ここには概念もありません。仏教もありません。あるのはこの自己のみです。その自己の展開のみです。全てが1つとして動いており、それを眺めることも、分けることもできないのです。

これが真実です。

しかしそれでもどうしても「仏教」という入れ物を作り、そこに何かを入れたいというのなら、本記事でお伝えしてきたように、

この世界は自己のみの世界で、全てがこの自己の展開であるということ。自己の命だということ。それはつまり水の中にいるということで、水の中にしかいれないということ、よって絶対救済。

という事実以外、ここにはないので、まずはその事実を伝え、あとはその水の中でただ安心して生きていけばいい(只管打坐)と伝えてあげるのが道理でしょう。

その役目を担っているのが「仏教」だということでいいのだと思います。

おそらくそこに異論はないはずです。

要するにそれはこの世界に唯一1つだけ存在している「鼻の痛みの教え」あるいは「水の教え」ということです。

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