なぜ我々は常に救われているのか?それは常に「仏」として生きているから。全部「仏」シリーズ①

年の瀬。寒い日が続きますのでご自愛ください。

さて、前回執筆した↑こちらの記事では、例えば「満員電車」では立っている人間と、座っている人間とがおり、満員の中立っているのだから辛く感じている人間がいる一方、席に座ることができた方は、それは確かに「体勢的に楽ができている人間」なのだけれども、実際は何も「差別」はないと。立っている人間と座っている人間。そこではいずれにおいてもこの世界の真実をいただいており、真実のあり方を成しておると。

そのような内容の話をしました。

それは座っていれば「座ったなりの世界」が展開し、立てば「立ったなりの世界」が全展開するからだということ。そしてそれは必ず展開する。必ずそうなるということ。必ずそこでは「世界の全ての真実」が付き従うからだ、ということだったからなのでした。

いつでも、どこでもそういった恩恵を受けてしまう。いつでもどこでも世界の真実を「全て」いただいてしまう。いつでもどこでも仏の真実をいただいおり、100の仏をいただいてしまう。

その意味で同じあり方。よって絶対平等、絶対「仏」であるというお話しなのでした。

今回の話もその部分の補足となっており、以上のような内容を踏まえると我々はただそこで100の仏をいただいているだけじゃない。我々の行動はいつでもどこでも「100」のことをしており、それはいつでもどこでも「100の仏をしている」ということにもなるわけです。

生きにくさや、焦り、劣等感、不安を覚えやすい現代において、これは覚えておきたい事実です。

寝ていようが、サボっていようが、足を組んでいようが、海外にいようが、立っていようが、座っていようがです。

我々はいつでもどこでも必ず真実いっぱいなんです、よって「仏」なんです。

例えば我々はよく「何かを考える」ということをやります。プライベートでも、会社でも、いつでも、どこでも。言ってしまえば、その出来が我々の評価みたいなものです。我々の人生みたいなものです。

しかし仮にその考えの内容が半端でも、一方で完璧に近いような内容でも、それを考えてる「本人自体」には優劣がないということですし、そのようなものからなる作成物であり、実はその作成物である「思考」にも優劣などないというわけです。

例えばビジネスで「A案」が自社において最適化で効率的だと評価されても、それは確かに効率的なのかもしれないけれど、それがつまり「最も」ということではない。つまりそれは「非効率」ではないということです。それは決して「B案」にはなれないということです。完璧ではないということなんです。

もちろん効率化主義の現代社会ではそのような「着眼点」は重宝されず、見向きもされず、そもそも生まれさえしないわけですが、土台としては、事実としては、そうだというわけですね。そこに優劣はないのです。評価などできないのです。

我々は「ここ」を見逃してはいけません。

AとB、あるいは立っている人間と座っている人間。両者は確かに表面的にみれば差がある。差別がある。疲れる、疲れない、そういった違いが確かに生じている。

しかしどちらもそれは真実、何があっても真実、何があっても土台の部分は変わらない、我々の「命のあり方」は変わらない。本質は変わらない。恩恵の差はない。そういった意味で「平等」なんです。

「必ず真実を受け取る者」という意味で、あるいは「必ず真実のあり方をなす」という意味で、我々をはじめ、この世界のすべてが「仏」なのです。我々がみんな「仏」だというのはこういう意味です。

我々は絶対真実をいただいてしまう。絶対に仏をいただいてしまう。そういった受け皿としての私、中身ではなく、器としての見え方になってしまいますが、だからこそ「本当の仏」ということです。それが仮に「器」であっても、それが実は「中身」だということです。大切だということです。

そのおかげで我々は必ず仏をいただいてしまう、真実をいただいてしまうわけですから。そして仏の活動をしてしまうわけですから。

誰もが疲れれば横になります。足を組めば痛くなります。そういう作りになっているということ。仏を絶対に裏切らない私だから、仏なのです。みんなが仏なのです。

我々は決して仏を裏切れません。そういう作りとなっている「仏」だからです。そしてだからこそ「仏」なのです。

例えば諸宗派では「仏様は目の前で手を差し伸べてくれている。そこで阿弥陀仏を唱えればその私に気づいてくれる。よって救われる。だから阿弥陀仏と唱えなさい。悪人も誰もがこれで救われるのだ」とお伝えになります。

しかしこれはどこかずれているというか、それでは世界が分断されてしまうのです。世界は「1つもの」ですから、あるいは私と仏とは1つですから、それは事実ではないのです。

そもそも「阿弥陀仏」と唱える自分、無関心からそのことに気づく自分、救いに手を差し伸べる自分、あるいはその自分がいる場所、アパート、階段、むろん私、このような支えや経緯、繋がりがあってそれは叶うわけです。それら要素もそうなるためには全て必要のわけです。それら要素によって「そうなれた」わけです。全て一員のわけです。仏の一員のわけです。仏になりたいと願っている自分こそ「仏」なのです。

そこがつながっているから、二分化されないから、仏に通じているから、そのようになるのです。何も誰も仲間はずれにされていない。

全てが仏としての器を持っている。仏に通じる道がある。仏性を持っている。なので全てが「仏」なのです。この世の全ては仏性を持っているのです。仏という命を生きているのです。仏へ常に一直線なのです。

この世の動きは全ては「仏としての働き」です。仏の呼吸です。仏の一員です。真実です。

「阿弥陀仏」と唱えなければ救われない。サボっている人間は救われない。それができなかった人間は救われない。気づかなかった人間は救われない。そんなことはありません。仲間はずれを作ってはいけません。作ろうと思っても作れないのです。

この世の全ては仏なのです。ここでは手段も結果も、経過もありません。全てが1つにつながっているんです。全てが「全体仏」として生きているんです。

光の中にその手を差し伸ばそうとしている自分、苦しいともがく自分、何も気づかない自分、仏教に関心のない自分、それも全て仏のあり方です。仏の呼吸です。仏の一員です。

それは全て仏につながっているわけで、我々は仏として生きているということなのです。

そしてここはそのようなものだけの世界。仏性を持った者たちのみの世界。仏のみの世界。全てが仏の中、水の中なのです。何があっても仏の中、水の中なのです。

我々にとっての一挙手一投足は全て仏で、どう生きようが全て仏です。生きることが全て仏なのです。

そんな中にあって我々は「どう踊るか」ということだけなのです。パフォーマンス、どう見せるかという見せ方の部分だけなのです。我々は「仏のダンサー」です。確かにプロとアマチュアとがいるかもしれません。下手、上手いがあるかもしれません。

しかし「仏のダンサー」という意味では同じです。

「大乗仏教」、全てを救済する船の如く教えのことですが、しかし初めから全てその船の上だけの話だったのです。

我々は常に救われているんです。

今こうして何かが聞こえる。呼吸をする。何かを疑問に思う、立っていれば疲れる。座っていれば腰が痛くなる。それがいいんです。それが救いなんです。それはこの世界の真実です。真実のあり方です。仏としての命です。仏である証明です。

何かが聞こえる。腹が減っている。腹が立っている。もしく何かを思っている。何かに迷っている。何かに心が躍っている。これが救いなんです。

我々はいつも「100の仏」をしているのです。何があっても仏なんです。何があっても救われてしまうのです。

つまり私は「仏」なのです。私の有り様は全て仏なのです。私の有り様は全て悟りなのです。

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