新年明けましておめでとうございます。2026年もよろしくお願いいたします。
さて、仏教のことを学んでいくと、悟りとは何か、真実の仏法とは何か、そういったものを考え、考察力が深まったり、閃いたり、鮮明になったり、清々しい気持ちになったりします。
色々なメリットがそこにはあるわけです。
しかし今の話にもあるように、それは単なる「理解」だと言うこと。頭の中の出来事だということです。
「悟り」と呼ばれるものも、実はそうした延長線上にあるものなのです。
もちろんそういった「理解」も1つの生命体験であり、今般「精神の豊かさと健康寿命の相関性」については医学的にも立証されているところで、例えばそれによって長生きできたり、健康になったりもするし、その人がその後おおらかな性格になったり、その人のその後の行動を変えたりもするわけです。
つまりそのような「精神活動」も実際の「命の出来事」として、あるいは「真実」として、あるいは「生命の実物」として位置付けられるわけです。
決して軽んじることはできません。「精神活動」も立派な仏の活動なのです。そのために一生懸命「悟り」を得ようとするのも間違いではありません。
しかしそんな難しいことを考えなくても、そもそも我々の体というのは、常に外界に晒され、常に風化しているわけです。常にこの世界の真実にどっぷりと浸かっているわけです。
そしてその世界とは「仏の世界」のことです。なぜならこの世界はたった1つだからです。誰もが今の季節であれば寒い思いをするし、実際に今バケツの中に手を突っ込めば手が痺れるほど痛くなるわけです。
「全て」が「全て」と繋がっており、「全て」は「全て」だということです。この世界は「仏」なのです。無論私も「仏」なのです。鳥も本も犬のうんちも全て「仏」なのです。
つまり悟ろうが、悟らまいが、我々は常に仏を生き、仏に生かされているわけです。言ってしまえば誰もが常に「悟り」を得ているわけです。お悟りの命を生きているわけです。
仮に大きな悟りに出会えずとも、仮にその後の人生がみすぼらしくなろうとも、前提として我々は常に仏として生き、仏に生かされているわけです。
残念ながら何があっても真実のみです。何があっても仏のみです。寝ている間でも呼吸をするし、針を指に刺せば飛び上がるほど痛いです。「おーい!」と呼ばれれば無意識に返事をしてしまうし、どんなに頑張っても疲れれば寝てしまいます。
逆に言えば我々は常に仏に捕まっているのです。
その手から離れようと思っても離れられない。仏から、真実から離れようと思っても離れられない。この世界から逸脱しようと思ってもできない。悟っていること以外、方法はないわけです。
真実から逃れようと思っても逃れられない。仏から逃れようと思っても逃れられない。悟りから逃れようと思っても逃れられない。
自分だけが他の世界を生きようと思っても、もっと良い人生を歩もうと思っても、仏以外を生きようと思っても、別の命を生きようと思っても、別の世界を生きようとも、残念ながらそれは不可能なわけです。
何があっても足を組めば痛いわけです。
何がっても常に「悟り」のわけです。仏のわけです。「悟り」や「仏」を常に誰もが「直」で、やらされているわけです。
お腹が減ったり、食べたものを消化したり、鳥の声が聞こえてきたり、電車の走る音が聞こえてきている。「それ」をやらされていないことがないわけです。「それ」から漏れていることがないわけです。
常にこの世界を真実を、仏をいただいている。悟りをやらされているわけです。
我々はどこまで行っても、常に「水の中」、「仏の中」です。
むしろ「自分こそは悟ろう」という思いや狙い、そうした意識というものがえってその人の邪魔になることがあったりして、逆に何も知らない人間の方が考えなしに生きられたり、足取りが軽かったりして、人生を謳歌できる。この「仏の命」、「仏の人生」を謳歌できたりするものです。「水の中」を悠々自適に泳げたりするものです。
仮にそこで何があっても、どんな失敗があっても、我々は常に仏の中、水の中のわけです。死して骨になってもなお、風化され、大地に帰っていく。死してもなおまた仏のわけです。
私は年末年始は行事が多く、忙しくしておったせいか、普段行えていた勉学が行えません。いまだに頭がぼんやりとして、思考が働かず、視界が明瞭になりません。
しかしそれがなぜか「生きやすい」と感じたのです。
仮に何も知らずに、日々に忙殺し、仏教とも出会わずに生きられたらもっと楽になれたのかもしれない。私のような能力のない、サボりがちな人間はその方が幸せだったのかもしれない。本当の意味で仏の命を生きられたのかもしれない。仏を感じられたのかもしれない。
そのようにも思ったりしたのです。
もちろん先ほども述べたように「悟り」や「意識体験」なるものも一つの生命のあり方、頭の中の出来事も立派な生命活動であり、つまりそれは仏の活動であり、何よりそれは仏に導かれた、誰かが書いた書籍に導かれた、他による、どうすることもできない、運命付けられてしまう、あらかじめ決められていた尊い活動のわけで、軽んじることはできません。
そのような感情や悟りも、立派な生命体験、仏の活動、つまり「悟り」なのです。「悟ろう」と思ったならば、それも仏の導き。きちんとその道に準ずることです。
誰も何もコントロールができないのです。仏の導きのままに生きていくしかないわけで、そこではもしかしたら仏教の勉強というものも必要になる人がいるのかもしれない。中には死ぬほどの思いをしなければいけない人もいるのかもしれない。
私が言いたいのは、仮に悟りに気づけなくてもいい。頭が良くなくてもいい。どんな場所もそれは「仏」だということです。日々に忙殺してしまい勉学に励めなくてもいい、悟れなくてもいい、仏教に出会えなくてもいいということです。それも仏の有り様だということです。大自然の有り様だということです。
それも仏の存在、そのような者は「生まれたての赤ん坊」のようなものだということです。しかしそれは我々と同じ「人間」のはずです。
よもぎなのか、桜なのか、雑草なのか、チューリップなのか。名前の違いでしかないのです。
我々もそうです。頭の良い人、エリート、馬鹿者、低所得者、お金持ち、総理大臣、フリーター、ニート。
こうしてさまざまな名前や種類、形があるわけですが、なんだっていいんです。
全ては仏です。誰もが足を組めば痛いのです。
つまりご縁に従え、仏の導きに従えということです。それしかできないということです。我々が生きることは全て他によって動かされるということ。仏に導かれるということです。仏に導かれることしかできないのです。
いつまで続けられるかわからない、こちらのブログですが、仏縁のあるかぎり続けていく所存です。


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