ここは「仏の世界」です。
いつどこにいても鳥の声が聞こえ、真冬にバケツの中に手を突っ込めば、痺れを通り越し痛くなるからです。
つまり物事の「全て」が、常に「全て」と同時で、「全てそのもの」であるからです。
私はあなたとも繋がっており、この大宇宙とも繋がっておる。私やあなた、雲も、蜘蛛も、熊も、「全て」が「全て」と繋がっておる。
「仏」とも繋がっておる。全てが「全て」そのものである。
よって、ここは全て(仏)のみだからです。
仮に私が明日死んだとしてもいずれそれは骨になり、その後またいずれ風化される。そしてまた大地(仏、全体)に戻っていきます。
死んでもこの世界(仏、全体)から離れられないわけです。「その手(仏、全体)」から離れられないわけです。この世界の恩恵をいただいている私の命があるわけです。死んでも生きているわけです。
ここにあるものはその「全て(仏)」のみ。ここに生きているのはその「全て(仏)」のみ。その「全て(仏)」が1つとして動いているわけです。
ここは「仏」の世界で、仏のみの世界で、我々もその一部。だから我々は「仏」なのです。
ここはそんな我々も含め、「全体(仏)」のみなのです。
なので生きていくことも、死んでいくことも、その「1つ」のわけです。。「全て」のわけです。「全体の動き」のわけです。
ただ、ただ「全体」。全体の動き。仏の動きだけ。宇宙の動き、真実の動きだけのわけです。
その命(仏、全体)から切れることがない。離れることがない。途切れることがない。ここでは境界線がないわけです。終わりがない、始まりがないわけです。
生きることも、死ぬことも仏の動き、全体の動きに含まれるわけです。
常に「全体」だけ。何があっても「全体」だけ。誰もが、何もがその「全体」に含まれるというわけです。我々は「全体(仏)」なのです。
そのような「事実」がきちんとあるわけです。
残念ながらそれに気づことなく、死んでいってしまう人がほとんどのわけですが、仮にそうだとしても、事実として大丈夫なわけです。仮に何が起こっても大丈夫のわけです。
我々は何があっても「仏」として生き、「仏」に包まれている。「全体」に包まれている。全体で動いているからです。全体に守られている。仏に守られているからです。
ここで生きている限り、何をしても、何が起こってもそれは仏の生き方だということです。生きていることが仏なのです。死んでいくことが仏なのです。何も知らずともいいのです。
もっと言えば生きているだけでいい、死んでいくだけでいい。
何があっても仏なのです。何があっても大丈夫なのです。この世界に生きてるだけでいいのです。ここで死んでいくだけでいいのです。
確かに人生では悩んだり、辛かったり、苦しんだりする。時にどうすることもできないほどの悲しみに襲われることもあります。しかしそれこそ「仏」だということ。仏の命だということ。
どんなこともこの仏のみの世界においては「仏行」だからです。
「おーい!」と呼ばれ咄嗟に返事をしてしまうこと、疲れれば横になってしまうこと。足を踏まれ咄嗟にイラッとしてしまうこと。食べたものを分け隔てなく消化してしまうこと。
それらは「真実」です。この世界の「真実」です。悩んだり、苦しんだりすることも、全て皆「真実」です。
そしてその「世界の真実」とは「仏いっぱい」のことですから、我々は何がどうあっても、意識せずとも、こうして仏の命を生きているのです。
何があっても、常に仏教させられているわけです。仏教の大意をさせられている、悟らされているわけです。
常に仏いっぱい、真実をやらされているのです。仏(真実)以外できないのです。仏(真実)以外にならないのです。
繰り返しになりますが、ここは仏のみの世界で、どんなこともこの仏の世界においては「仏行」だからです。
畢竟、我々は生きてるだけでいい。死んでいくだけでいい。全て仏なのです。悩めるのはとても幸せなことです。それは我々が生きている証拠です。
生きてるだけで丸儲け。by 明石家さんま
私の大好きな言葉です。
また「さんまさん」は、時にこのような言葉も残しております。
パンツ1つで死ねれば勝ちや。by 明石家さんま
このさんまさんが残した言葉や、今回の内容を時に思い出しながら、辛く苦しく険しい人生を歩んでいきたいですね。





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