チベット人に見る「仏教の教え」とは何か?「仏」とは何か?

仏教が盛んな国として知られるのが「チベット(現中国)」です。

彼らは普段からマニ車を回したり、聖地を巡礼したり、五体投地をしたり、ラマ僧に多額のお布施をしたりしています。

そういったことが昔から日常的なのです。

生死輪廻を信じ、来世のために少しでも供養しようと、亡くなった後のご遺体を「鳥葬」にふすといったこともします。大きなお寺の裏方には決まってこの「鳥葬場」があると言います。

ヤクや羊たちと共に生活し、彼らの「糞」を調理の際の火起こしに使ったり、住居の壁の素材として使ったりして生活するなど、質素ながらも、とても篤く仏教を信仰されているわけです。

仏教のためならなんでも行う。どんなこともできる。財産も投げ打つことができる。

かつては「人肉」や、「人糞」すらも食していたと言います。我々現代の日本人からすればとても考えられない話です。

もちろん当時、食べるものがなかったからという経済的な理由もあったからでしょうが、彼らはそうした、とても想像に及ばないようなことも行います。行うことができます。

それら背景には、仏教への強い信仰心があるからです。

この世界は全て仏のみです。言い方を変えればこの世の全て、一切合切が、「真実」のわけです。この世界の息がかかっている、仏の息がかかっているわけですね。

汚いとしか思えないような「犬のうんち」も仏、「ビニル袋」も仏、「生ゴミ」もそう。一秒ごとに風化していく。あるいは手に触れることができるわけです。

紛れもなくこの世界の住人です。それらは事実として、真実、もしくは仏と呼べるわけです。

従って、かつてのチベット人のように、本来であれば、どんなものも分け隔てなく大切に扱うべきものです。さすがに食べろとまでは言いませんが、排他的にできるものは本来、この世界にないわけです。従って排他的な生き方というのも本来ではないわけです。

仏教徒としては、全てが真実、全てが仏。そのような物差しを持って、生きていくこと。実際に分け隔てしないこと。全てと手を取り合いながら生きていく。このような生き方が正解だというわけですね。

もちろんそのような生活は、清く美しく素晴らしいものです。かつてのチベット人のような生活、もとより仏教が深く浸透した生活が広まれば、世界はもっとより良くなっていくのでしょう。

事実、経済発展ばかりを見据えた我々人間には、もうすぐ行きつまりが待っているはずです。

今こそこのような生活が求められるところです。確実に必要です。チベット人のような生活が、仏教と生活を共にした暮らしが、もっと広まればいいと思いますね。私もそのために尽力していく次第です。

ちなみにアメリカでもようやく人民の1%が仏教を信仰するようになり、これは日本におけるキリスト教のそれと同じような状態だということです。

しかし仮にどのような世界になっても、またそこが行きつまりだったとしても、あるいは普段の生活を蔑ろにしたり、仏を忘れた生活をしたりすることは、果たして悪いことでしょうか?果たして仏は我々を見捨てるのでしょうか?我々は仏に見捨てられているということなのでしょうか?

前述の通り、全てが仏のみです。何があっても仏のみの世界なのです。

「眼横鼻直」。

これは道元禅師のお言葉です。目が横に鼻が縦に付いている。という我々の体にあっては、「当たり前」のことを述べられているわけです。

中国へ渡りそこで5年もの間修行をされ、日本に帰国した道元禅師が残された言葉が「これ」です。仏法などどこにもなかったと。求めてもどこにもなかったということを述べられております。

仏法とは大自然のことです。あるいは「この世界のこと」です。この世界の真実のことです。

目が横に鼻が縦に付いていること。これ以上の真実はありません。これ以上の仏法はないわけですね。

この世界では全てが真実を展開しているわけです。常にその仏が目の前に、あるいはこの自分に余すことなく展開しているわけです。仏法を他に求めなくても良かったということに気づかれたのです。

それだけではありません。

犬のうんちを投げられて咄嗟に「汚い!」と言って避けてしまうこと、あるいは差別してしまう心、そうした咄嗟の出来事、命の正体も、れっきとした大自然の正体のわけです。大自然の命のわけです。

あまりにもお腹が空いていて、あるいは飢餓に苦しむ中、何日も食べていないのであれば、周りのことなど構っていられません。格好などつけていられません。

仏教などお構いなし。慈悲などお構いなし。他人のことなどお構いなし。ただがむしゃらに食うだけです。

しかしそれこそが、本来の命のあり方のわけです。仏教のあり方のわけです。

あるいは普段現代においても、「おい!」と呼ばれ、咄嗟に反応してしまうことだってそうです。

「健なれば坐し、疲れれば横になってしまう」のもそうです。

仏教など持ち出さなくても、現に私たちは仏教をさせられているのです。いつでも、どこでも、常に我々が仏であり、常にこの世界は仏のみだというのはそういうことのわけです。

仏教など学ばなくても、求めなくても、我々は常に仏教の教えを生で実践しているのです。

あるいは仏を探さなくても、求めなくても、常に仏として生きているわけです。常にどこにあっても、仏のみの、大自然のみなのです。

きちんと根付いているのです。仏教が、大自然の教えが、誰にとっても、どこにおいても、初めから備わっているのです。また失われることもないのです。

死してもなお仏。現に「骨」になっても大自然によって風化させられる。仏によって風化させられる。つまり仏の命をいただいているわけです。

それはこの体が死んでも、仏としては生きており、そこでは仏を迎え入れることができるからです。

そしてまたこの大地に帰っていく。そこで始めることができる。

何があっても大丈夫、仏のみということです。

「仏教」を仮に忘れようが、あるいは将来携わることもなかろうと、その忘れるということ自体、または無関心ということが、すなわち「仏教」なのです。

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