「呼吸」にはうまいも下手も、完全も不完全もありません。それは大自然によってやらされているもの、例えば寝ている間にもやらされているものなのです。
きっと私の「思い」や「行動」も同じようなものだと思うのです。
今こうして何かを思った時、その背景には「他」の存在があったからです。あるいはいつぞやかの「他」がいたからです。それが突然行ったものだとしても、必ずそこには「原因」となる他の存在がいたからです。
そしてそれによって生まれてくる「行動」のわけです。
我々の思いや、行動というのも、全て他によって生まているのです。他の「呼吸」なのです。他によって思わされている。他によってやらされているものなのです。よってうまいも下手も、完全も不完全もありません。
それは他にしか動かせないもの、作り出すことができないもの、他の産物、それが我々個人の「呼吸」や、「思い」、「行動」なのです。
我々の一挙手一投足は「他」によってもたらされるもの、あるいは「全体」によってもたらされるもの、あるいはその「全体」に従っていくものだったということです。
私の体自体もそうです。「全体」によって作られている。
例えば我々が普段食べている「お米」は堆肥の活躍によって、太陽の活躍によって、あるいは水の活躍によって、虫たちの活躍によって、あのような姿になり、そして我々の口元に運ばれてきます。そこに何かが加わったり、何かが減ったりすれば、あのような姿にはなりません。
私もつまりそうなのです。
またそれは私だけではありません。隣の田中さんも、青山も、鈴木も、カラスや、絵画などの制作物、ビルなどの建造物などたちも全てそうです。彼ら全ての存在がこの「全体」によってもたらされている。「全体」に動かされている。
この世界には個別となる「生命」がありません。個は全体であり、それは全体の一部見え方に過ぎないのです。全体があるから「個」があるのです。全体が無ければ個は生まれません。
「全体」が我々の生命の「源」なのです。「全体」が我々なのです。「全体」が我々の「生命そのもの」なのです。
事実、真冬になれば寒さでぶるっと体が震えます。そんな中バケツに水を突っ込めば冷たさを通り越していたくなってきます。宇宙がそのまま自己であり、自己がそのまま宇宙なのです。
ここでの存在物は「全体」だけなのです。その「もの」しか存在しておらず、その「もの」に伴って、私やあなた、カラスなどは動いているわけです。
我々は個別の存在ではないのです。ここでは命を分けたり、個別の存在を認めたり、評価するということができないからです。
また我々が存在しているということは間違いなくその「全体」が存在しているということでもあるわけです。我々が今こうしてここにいるということは全体的なもの、生命の源も間違いなく存在しているということです。
「それ(全体)」は間違いなく存在しており、その「全体」だけがこの世の存在物なのです。
その「全体」のことを「仏」と言います。「仏」は間違いなくおり、「仏(全体)」だけがこの世界に存在しているのです。もちろん私もその「仏」だということです。
またこの世界というのは「自」も「他」もない、1つながりのその「仏の命」だけだということです。
私は「私」という「個人の存在」なのではありません。私は「全体(仏)」なのです。
だから私が生きること、それは全体が動くということ。仏が生きるということなのです。あるいは全体に導かれ、仏に導かれているということなのです。
しかし例えば今日自身が交通事故にあったとして「それも仏様の導きだったのだ」と、そういう風に思えということではありません。
「導かれる」といっても、そこに仏様のご意志や目的があるわけではなく、それは生きつまりのない、人間的な概念が通用しない、何も妨害のない風通しのいい、大自然の生命を生きるということです。正真正銘の「真実」だということです。あるいは何でもあり、全てが全ての世界を見せられているということ、ある種絶対的な救いに支配されていること。絶対的なもの、紛れもないもの、全てが全てだということです。この真実の役割が仏様であり、大自然だからです。
そしてそのようなものと繋がっているのが本来の我々の命だからです。
導かれているに違いありませんが、そこに人間の憶測や、感情、狙いをつけることはできません。つまり全体として全体しているということなのです。
我々はただただ、今日も明日も、仏様に、大自然に導かれて生きていくだけなのです。全体されていくだけなのです。あるいは全体として「全体していく」。全体に「全体されていく」以外、やれることがないのです。存在しているものがないのです。
我々は個別に生きているのではありません。全体として生きている。全体に生かされているのです。
私を責任もって生きていかなければいけない理由もここにあります。私は私ではないのです。私は全体であり、大自然そのものだからです。またただただ、全体が全体していく。これ以外方法はないからです。
よってそれを放棄することはできません。許されません。しかしもちろん死ねば骨となり、それがまた全体に風化され、この「全体」に戻ってきてしまうわけで、死してもなお、どうすることもできない。どうしても放棄することができないわけですが。
ここは1つのみの世界です。全体のみが存在している世界です。全てが全てによって成り立っている。我々もその全ての中にいる。
「全て」と1つ。「仏」とも1つなのです。
ここではどうやっても鳥のなき声が聞こえる。呼吸ができてしまう。死んでしまう。そして風化される。全体のみの世界です。
ここでの行いや思いというのは全て仏にやらされるもの、あるいは仏の活動だということです。その個人の行動も概念も本来「1つの行い」、「全体の行い」なのです。真実というのは決してなくならないから真実のわけで、あるいは常にそのままのわけで、どうやってもその真実に反することができないのです。どうやっても分けること、区分ができないのです。
我々の一挙手一投足は「全体」にやらされているのです。「全体」に思わされているのです。
我々はどんな形でも、ただここで生きていけばいい。この仏のみの世界でただ生きていけばいいと思うんですね。ここで生かされていけばいい。生活していけばいい。それは100の仏道です。
またどんな行為でも、それは満点です。全体です。一方、悲しいかな自分ではどうすることもできないものでもあるということでもあるのです。
今この瞬間、この宇宙いっぱいの「深呼吸」をしましょう。それが「全て」です。


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