何かを思ったり、何かをしたりしている、我々の「一切合切」。
しかし今そこで何か思ったり、行動したりすることは、自身の活動ではないというのですから驚きです。
それはある種「運命」のようなもので、決められていたものだということです。どうすることもできない、ある意味で大災害のようなものなのです。
自分でどうこうできない問題のわけで、よって心安らかに生きればいいということ。何があってもジタバタしなくていいということです。
その真意については下の記事で詳しくお伝えしております。
何かを思い、行動する。要するにこれが我々の「生活態度」のわけですが、それは全て仏に導かれているものなのです。仏の呼吸なのです。
他に生かされる自
例えば私がその時間のその電車に乗らないといけなかった理由は、私に予定があったからです。そこで会わなければいけない人の存在があったからです。またその人が「たまたま」東京に来ていて、どうしてもその日しか暇が作れない、そのような諸事情があったからです。
要は「自分以外の存在」によって私はその場に立たされていたわけです。
どんな場所、どんな物事もそうです。その背景には必ず「他」の存在があるはずです。そしてその「他」の背景にもさらなる「他」の「他」が駆け巡っている。
常にそのような様相で繰り広げられているのがこの世界で、また「私」という現象だということです。
自分が何かを見たり、聞いたり、思ったり、行ったり。それらは全て「他」が原因です。「他」によるものです。「私」というのは、他でしか動かせないんですね。
他によって生かされている、他によって生かされるしかない我々のわけです。
我々が自分でどうこうしていることは何もありません。全て他に決められてしまう出来事だったというわけです。どうすることもできない大災害のようなものなのです。
そもそも「何かを思う」というのは、まるで自分の力で行っているもののように思いますが、その対象があって初めて行えるものです。対象がなければ行うことはできない、発生しない、生まれない、生きないもの、なのです。
「思う」ということ自体が、他なのです。
それは「思っている」わけではなく「思わされている」というわけです。
そしてそのような「もの」からなる我々の「行動」だということです。
全てが「他」によるものなのです。他の導きによってやらされていることなのです。「他」そのものなのです。
そしてこれからもそのように「他」によって支配されていく、自身の行動が「他」によって決められていくのが我々だということです。
しかしそうは言っても、そもそもこの世界に「自」も「他」もありません。
鳥の鳴き声が自身の耳を震わせるように、国境を超えた酸素によって寝ている間でも呼吸ができるように、真冬のバケツに手を突っ込めば冷たさを通り越して、痛くなるように。
この世界では全てが同一階層なのです。「それっぱなし」、生きっぱなし、死にっぱなし、自分っぱなしなのです。
全てがこの自己の展開なのです。あるいは他の展開なのです。
命は繋がっていて、あらゆる出来事も繋がっている。私の行動は他であり、他によって自身の命が起こる。他が動けばあなたも動く、他によって自身の一挙手一投足が決まる。他によって行動させられる。思わされる。呼吸させられる。
ただ「一つ」の命として生きている。ただ「一つ」として行われていく。
私は「全て」なのです。仏なのです。あるいは仏がどこか遠いところにあったとしても、それとも「同時」のわけです。ここでは全てが同一、同時のわけです。仏と私は同時のわけです。全てと同時のわけです。
ここでは全てがその仏の動きです。仏の展開です。仏の呼吸です。
従って、我々の一切合切はその仏が生きているということなのです。仏の采配だということです。仏の管理下だということです。あるいは仏に導かれていることなのです。仏の動きだということです。
我々はどうすることもできない常に天地災害に遭っているのです。仏に導かれているのです。仏として生きているのです。
その穏やかな休日も、あるいは満員電車に揺られる忙しい平日も、いずれも仏の導き、つまり自分ではどうすることもできない「天地災害」なのです。
仏のみ
ここでの我々の行動及び、生死、生き方、一挙手一投足というのは、すべて仏に導かれていたということです。これからも導かれていくということです。
私たちはどうすることもできなかったということです。これからもどうすることもできないということです。
どうすることもできない命、どうすることもできない私。どうすることもできない一日。
我々の「すべて」というのは仏の導きなのです。私という存在が仏であり、私の「出来事」というのは全て仏の導きによって、そうさせられているものなのです。
しかし、目が横に、鼻が縦についていること。あるいはいつどこにいても肌をつねれば痛いように、いつどこでも呼吸ができるように、いつどこでも烏の鳴き声が聞こえてくるように、いつどこでも火打石でカチッとやれば火がつくように。
紛れもない事実として、我々は確かにこの瞬間、その場で生きております。
事実として、仏から漏れることは決してないのです。
何があってもそこは真実の場所です。我々はいつどこでも、常に真実に恵まれてしまうのです。それが今の事実です。これからの事実です。これまでの事実です。
何があっても事実が伴う。どうすることもできない問題だろうが、なんだろうが、何があってもそこは仏の場所なのです。
常に何があっても仏いっぱいのわけです。どこにいってもそこは仏いっぱいのわけです。仏と共にあるわけです。自身がその仏のわけです。
ここがまさに極楽浄土のわけです。生きている限り極楽浄土のわけです。仮に死しても、常にこの極楽浄土でいつづけるわけです。
現に死んで骨になったとしても、その骨は時と共に風化され、大地に帰っていきます。
その骨を風化させる「何か」のことを仏と言ってもいいかもしれません。あるいは先ほどの「たった一つの存在」だというわけです。
生きている間も、死んだあとも、我々はその「何か」と共にあるのです。常にそれと共に生きているのです。それだけがあって、それがずっと続いているのがこの世界です。世界とはその「何か」なのです。
常に1つ。世界は決して2つに分かれません。
水の中ではどう泳ぐか、ステージの上ではどう踊るか
そんなたったひとつだけの世界。
あるいは世界しっぱなし、仏しっぱなし、生きっぱなし、死にっぱなし、極楽浄土しっぱなしの我々の生活において、どう踊るか、どう呼吸するか、どう生きるか、この仏や、極楽をどう丁寧に調理できるか、ということしかないのです。それ以外やることがない、できることがないのです。
この仏のみの世界においては、仏をこねること、仏を整えること。
これしかできることはないのです。それだけの世界線なのです。
その理由は今も述べた通り、ここは仏っきりだからです。
常に我々は「それっきり」だからです。常に同じ世界だけの話で、常に舞台の上に立っているからです。
ある意味、この世界は学校や公園にある砂場のようなもので、我々はそこで砂遊びしかやることがないというわけです。
ここではどう仏をこねるか、つまり仏作仏行。あるいはどう泳ぐか、どう踊るか、これだけが我々の生活にあるものなのです。我々の命であり、全てなのです。
絶対安心だということ。
しかしそうだと言って、安心することなかれ。
仮にここが仏のみの世界だとして、またいかなる場合でも仏に導かれることが決まっていたとして、また我々の一挙手一投足が仏作仏行だとしても、我々にとってはこの「仏作仏行」がすべてだということです。
そのある種パフォーマンスともいえる部分、小細工的な、見え方の部分としかいえないような部分だけが、我々にとっての自由のわけです。我々の生死のわけです。許されている部分、ある意味存在している部分のわけです。
「我々」という命であり、生命に関わる大変重大な問題で、こだわる必要があります。
どう踊るのかということだけだとしても、その踊り方だけが我々の生命だということです。
どう調理するのかということだけだとしても、その調理方法だけが我々の生命だということです。
ある人は会社員をするのでしょう。またある人は空港で働いたり、先生をしたりするのかもしれません。
あるいは仏が会社員をするのです。仏がサッカー選手をするのです。仏が先生をするのです。
そこでは真剣にならなければいけません。その仕事にこだわっていかなければなりません。
なぜならそれが「全て」だからです。
どんな形でもいい。いかにそこで自分が自分を自分するかということです。仏の世界で、仏が、どう仏するかということです。
どう踊るのかということ。どう調理するのかということ。仏を整えるか、ということです。
我々はそうですね。足を組みましょうか。
簡単なことなので、できれば全員、足を組みたいところです。
この自己っきりの世界において、自己の動きだけがこの世界にあるものだからです。
坐禅だけがこの世界にあるものだからです。
仏がこの仏の世界で仏をすること。もしくは自分が自分だけの世界で、自分すること。
それだけがこの世界にあるものだからです。もしくは我々にできること、許されていることだからです。
どう踊るか、どう調理するか、いかに足を組むか。これが我々にとっての全生命です。全てです。
そしてそれを真剣にやったとき、あるいはやれることをやったとき、できることをやったとき、その時初めて我々一人一人の使命が果たされるわけです。本来の面目を全うできる、叶えることができるわけです。
とても重要な問題です。
いかに踊るか、いかに調理するか、いかに足を組むか、これがどれだけ重要なことなのか、ということです。
従ってそれを含め、どうか自分を律し、制限のある生活、不自由な生活、規則正しい生活、法律に則った生活を送ってください。
それが今回を通して最も言いたかった「仏の導き」だということだからです。




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