こんにちは、harusukeです。
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。
今回は、
という部分を解説していきます。
それではまず初めに前回の、
のポイントを振り返りたいと思います。
- 「言葉」や「概念」は人間だけのコミュニケーションツールであり、「実物」ではない。
- 「言葉」や「概念」をもってして「真実」にはたどり着けない。
- 真の「安心」を得るためには光を「外側」ではなく、「内側」に向ける。
- 「内側」とはつまり「自己」を指す
- それが即ちわたくしが今ここに生きている「実物」に立ち帰るという事(坐禅)
それでは前回のポイントをおさらいしたところで、本記事を読み進めていきたいと思います。
こんにちは「harusuke」と申します。
2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。
さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。
それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?
ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。
所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。須らく囘光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目(めんもく)現前(げんぜん)せん。恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲せば、急に恁麼の事(じ)を務(つと)めよ。夫れ参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲飡(おんさん)[飲食(おんじき)]節あり、諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪(ぜんなく)を思はず、是非を管すること莫(なか)れ。心意識の運転を停(や)め、念想観の測量(しきりょう)を止(や)めて、作仏を(と)図ること莫(なか)れ。豈に坐臥に拘(かか)はらんや。
無我でなければ「仏法」ではない
今回は、
という部分を読み進めていきたいと思います。
まず初めの「身心自然に脱落して、」という部分。
道元禅師が中国へ赴き、天童山の景徳寺において「真実に目覚められた時」のことをこの「身心脱落」という言葉で表現します。
少しここでそのときの経緯についておさらいしておきましょう。
天童山景徳寺の「坐禅堂」において、道元禅師が熱心に「坐禅」をしておったんですね。
その時隣で「坐禅」をしていた修行僧が盛んに居眠りをしていたんです。
するとそこの住職であり、道元禅師の正師でもある天童如浄禅師が、その時履いていた靴でその寝ておった修行僧をぶち叩いんですね。
そして、
只管に坐睡してなんたるや!坐禅は「身心脱落」なり!
と叱咤するわけです。
その様子を見ておられた道元禅師が「身心脱落」、つまり「真実の在り方に目覚めた」というような逸話が残されております。
さて、仏教の基本は無我であります。
つまりこの世界には「俺」という自我はないんですね。
「諸法無我」という仏教用語もありますが、あらゆるものは無我であります。
「無我」でなかったら仏法とは言えないんですね。
そもそも、仏教の教えには「三宝位」という三つの旗頭があります。
- 「諸法無我」(諸法は無我である。)
- 「諸行無常」(諸行は無常である。)
- 「一切皆空」(一切は皆空である。)
その三つの旗頭の一番基本となるのが、「諸法無我(諸法は無我である。)」なのです。
ということで、「無我」でなかったら仏法ではないという事なんですね。
しかし我々には、生まれてからいつの間にか獲得していった「自我」というものがあります。
これは我々が生まれ持ったものではなく、生まれてから獲得していったものであります。
例えば赤ん坊のころはなかった「これは私のもの」、「これは俺のもの」という考えが成長するにつれ段々、芽生えてきますよね。
そして「自分のもの」、「俺が」という「自我意識」が強くなっていくんです。
また、小さいときというのは自分の事を紹介する時に「さっちゃんはね、」と言ったりしますよね。
そのように、幼いころというのは「自我意識」がきちんと確立されていないから「傍観者」として自分自身を見ている時期があるのです。
しかし徐々に意識が確立されていく。「俺が」、「私が」というものが徐々に確立していくのです。
コギト・エルゴ・スム
さて、西フランス出身の、哲学界の巨人「デカルト」(1596-1650)が、ラテン語で「コギト・エルゴ・スム」という言葉を残しております。
これを日本語に直すと、
思う故に我有り。
という意味になります。
つまりどんなことがあろうと最終的にはこの「我」があり、すべてのはじまりはこの「我」だというんですね。
「色々疑問に思うこと、そうおもうことが全てであり、そのための出発点、最終点には我がいる、私がいる、自我がある」といった考え方ですね。
この「考え方」が出発点となり西洋の自然科学というものが確立していきました。
ですからこのデカルトの言う「我思う故に我有り」という考え方と、さきほどの仏教による「無我」というのは相反するものです。
例えばこのデカルトが言うには、私が「物を見る」、私が「ガラスを見る」、私が「畳を見る」、私が「本を見る」、というように外界の物を「客体」としてまず大自然から切り離す。
そしてそれら「客体」を見ている「私」という風に「見る」という出来事と「客体」を2つに分けて行うという事です。
- 私がガラスを見ている
- 私は本を読んでいる
- 私はバナナを食べる
つまり、常に「主体」と「客体」と2つに分けて世界を眺めており、「真実」を相対の世界の出来事という風に見てしまっているんですね。
しかし「真実」の世界、「大自然」の世界はそうではありませんね。
物が当たれば痛い。足を組めば痛い。鳥の声が自然と自分の耳に入ってくる。おならの嫌なにおいがする。
このように本来の世界は、すべてが1つとして繋がっているんです。
それに相対の世界という風に世界を見てしまっては、常に他者によって自分の存在が証明されなくてはいけません。
つまり相対の世界は個々が「確立された世界ではない」ので、お互いが証明しあわなければならないのです。
それは非常に不安定ですよね。
「主体」と「客体」という風に頭で切り離しているのに過ぎないと言うのに。
そしてそんなものは本来ないはずなのに。
庭前の栢樹子
または趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)禅師という有名な中国の禅僧がおります。
この方は「禅の巨人」とも言われる非常に有名な方ですね。
その趙州禅師の有名な話で「庭前の栢樹子」というものがあります。
これは「如何なるかこれ仏法の大意」という「仏法の大義」を問う問答に対して、この趙州禅師が「庭前の栢樹子」と答えたという内容に基づいたもので、非常に有名な公案として現代でも語り継がれているものです。
つまり「何が仏法ギリギリの教えですか」という問いに対して、「寺の庭に立っている、柏の木だよ」と答えたんですね。
「真実」とは何か?と聞かれ、「庭の栢樹子」と答えるのですから、さきほどのような「相対の世界」で見たらこの公案の真髄は決して分からないでしょう。
というのも、「真実」は自分と常に一つであり、目の前に展開する全てのものがその「真実」であるわけですから、この「庭前の栢樹子」と答えただけなのです。
我々人間はいつも「主体」と「客体」という風に物事を眺めて、そして「認識」をしております。
物を「認識する」という事は物事を「相対化」しなければ理解できないのです。
「自分」と「客体」と「相対化」しなければ理解する事ができない。
「私」と「対象物」と分けるから初めて人は「理解」ができるわけです。
身心脱落は人間の脳みその話ではない
もちろんこの「認識する」という行為は特に現代の人間の生命活動において重要な事です。
いくら「真実はいつも1つとして繋がっているのだっから、俺の物もなければ、お前の物もない!」といっても人のものを盗んでしまってはそれは「窃盗罪」になって捕まってしまいますしね。
しかし今言った「真実」や「生命活動そのもの」においては「理解する事」はなにもないんですね。
なぜなら理解というのは、後付けだからです。
命のあとに理解が付いてくるからです。
命があるから理解できるからなんですね。
だからデカルトの言う「我思う故に我有り」というのはつじつまが合わないことが段々理解できてくるんですね。
つまりそれは単なる「概念遊び」に過ぎず、真実の命の的を射ていないのです。
例えば「寝ていて、自我意識が無い状態」の時でも、朝起きればきちんと食べたものは消化されるし、呼吸もされています。
生命活動において何の理解も必要ないんですね。
人間の理解が及ぼないといってもいいかもしれません。
なので、人間はこの「認識」が及ぼす生命活動の矛盾にいつも苦しみます。
なぜなら生きていくことは「認識」や「理解」することではないからです。
どんなにつらいことがあっても腹は減る。
呼吸もせねばならない。
理不尽なほど排泄感を催してくる。
繰り返しになりますが、生きていく上でこの「認識」するという行為は直接的には必要ないのです。
話がいくらか脱線してしまいましたが、先程も申し上げた「主体」と「客体」という風に、物事を分ける以前、認識する以前の事を「身心脱落」というんです。
なので先ほど言った「庭前の栢樹子」というの事例も、「私が庭前の栢樹子を眺めている」となったらこれは「身心脱落」になりません。
何故なら「私」と「庭前の栢樹子」という風に物事が2つに分かれてしまっているからです。
物事が分かれる以前の事を「身心脱落」と言うからです。
非常にここは重要な所です。
先程のデカルトに見るように「自我」や「私が」という所から人間生活や西洋の自然科学は出発し、今日の発展を遂げて参りました。
しかしこの物事を「分ける」とか、「理解する」、「物を概念化し他の人々と共有していく」という行為は全て人間の頭の中だけの話です。
「本来の世界」、「実物」の世界というのは、2つとして分かれないし、「私が」という世界は人間の脳みそ以外どこにも存在しないのです。
「如何なるかこれ仏法の大意」・・・「庭前の栢樹子」
これが全てなんですね。
「真実」は「庭前の栢樹子」なんです。
「概念」は人間だけの問題
それでも「理解」する、「分かる」という事は人間だけが出来る能力であり、非常に大切で大事な能力です。
良い悪いは別にして、今日の様なこの「人間社会文明」を確立できたのもこの能力のおかげであります。
しかし、「相対化する」、「物を分ける」、「概念化して頭で理解する」というのは人間だけができて素晴らしい能力と同時に、そのせいで色々な問題も生じさせています。
例えば「真実」を見失う事によって、人生に行き詰まりが生じたり、「主義、主張」によって争いが起きたり、或いは格差社会において落ちこぼれが生まれたり。
しかしそれらは全て「真実」を見失う事によって生じている人間だけの問題です。
所詮これらすべては「頭のなか」の出来事でしかなく、「実物」の話ではないのです。
「実物」ではないということは、本当に起こっている問題ではないのですね。
「架空」の問題とも言えます。
その「架空」の問題に振り回され、始終しているのが我々の常です。
なので「争い」とか「行き詰まり」とか「喜怒哀楽」というのは人間だけの「概念」の問題であり、生きる上では何の支障もないということをきちんと理解しなければなりません。
「思う」という事は「私」がやっていることではない
道元禅師のおしるしになった『正法眼蔵生死の巻』に次のような一文が出てきます。
ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。仏となるに、いとやすきみちあり、もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろずをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもうことなく、うれふることなき、これを仏となづく。(一部抜粋)
まことに恐れながら、少しだけ解説してみたいと思います。
とありますね。
ここで言う「仏」というのは今長々と説明させていただいた「真実」の事をさします。
つまり今、ここに生きている「事実、実物」や「目の間に展開する一切」を「仏」と言うんですね。
我々は日々色々な思いによって振り回されてります。
そんな中でも、「坐禅」を通してこの「実物(仏)」に帰っていく尊さをここで道元禅師はおっしゃっているんですね。
そしてそれが「仏」となるいとやすき道だと。
我々人間も本来「真実(仏)」の世界に生きています。
何故ならさきほども言ったように、この世界は1つに繋がった「仏の命」だからです。
物が当たれば痛い。足を組めば痛い。鳥の声が自然と自分の耳に入ってくる。おならの嫌なにおいがする。
こうした2つとして分かれない、1つに繋がった世界を生きているからです。
なので頭で考えて難しく考える必要はないんですね。
「坐禅」を通してその「真実」、あるいは「実物」に立ち帰るだけなんですね。
つまり「自我を忘れ、自我を全部、仏の家に投げ捨ててしまう、そして本来の世界に帰る」それが仏になるいとやすき道である。
「坐禅」が悟りにおいて「手段」ではなく「目的」とされる理由がここなんです。
足を組めば痛い、この「坐禅」こそがまぎれもない「生命の実物」であるからなんですね。
「坐禅」こそが「真実」だからなのです。
元々が「身心脱落」
そしてその「真実」や、「人生以前」、「物事が分かれる以前」、「父母未生以前」を行じていくのがこの「坐禅」、つまりは「只管打坐」であります。
以上のことを踏まえ、ようやく本記事の内容でもある、『普勧坐禅儀』に話を戻したいと思います。
この一文で高祖様は「自然に身心脱落す」とおっしゃっております。
これはどういう事かと言うと、「力をもいれず、心をも費やさず元々の在り方」こそが「身心脱落」であるということですね。
例えば今から100m先にこの「身心脱落」があるというわけではありませんません。
元々が「身心脱落」ですので、「坐禅」を通し、その元々の世界に帰る。
つまりその構築してしまった「俺」という「自我意識」を手放し、「坐禅」さえすれば自然と「身心脱落」するという訳なんです。
何か「努力」をし、その結果としてこの「身心脱落」があるわけではないのです。
一生懸命「修行」を頑張った、その結果として「身心脱落」するという訳ではないのですね。
元の姿が「身心脱落」であり、その「元々」の世界に帰ることが悟りという考え方なのです。
なのでむしろ「考え」や「修行」、「悟り」そういった頭で考える事を放棄し、「本来」の世界に帰った時、「真実」に出会えるということなんです。
そしてここでいう「真実」はが「大自然」なんですね。
1つに繋がった仏の世界なのです。
我々が普段から振り回されている「脳みそ」の中の話を全部手放しさえすれば自然と「身心脱落」になる。大自然に戻れる。本来の面目に出会える。
そういうことなんです。
なので本当の「修行」とはこの自分で構築してしまった「自我意識」を手放す事ともいえるかもしれません。
決して「身心脱落」というのは「心境」の問題ではなく、元々の「今ここに生きている実物」を「身心脱落」というわけであります。
今ここに生きている事実の「証明」
なので「坐禅」を通し、「今ここに生きている実物」を行じていく事。
これが人間にとっての一番の「安心」のしどころでもあります。
何故なら「今ここに生きている事実」を証明していることでもあるからです。
我々人間はこの「生きている実感」が無い為に不安になり、その実感を他人との兼ね合いの中で得ようとします。
「他人から認められたい、他人に褒めてもらいたい。」そういう相対的な世界の中から「生きている実感」を得ようとするんですね。
しかし非常にこれは不安定な話であり、人間を不安にさせる一番大きな原因です。
なぜなら「他人から認められたい、他人に褒めてもらいたい。」というのは、相対的な不安定な話あり、自己の権限を他に握られているようなものだからです。
しかし、これまでにお伝えした来たように「真実」の世界はそんなものではないですよね?
「真実」の世界はいつも1つに繋がっているのです。
「足を組めば痛い」そういう紛れもない真実で成り立った世界なんです。
手に取れる、本物や、実物がちゃんとあるんです。
人間がちゃんと安心できるものがあるんです。
だから「他人との兼ね合い」をこの坐禅では行じてもらう訳ではないんですね。
「坐禅」を通し「今ここに生きている実物」を行じていく事、それが一番の人間の「安心」のしどころであります。
何故なら「実物の行い」というのは、形のない「相対的」なものではなく、形のある「絶対的」ものだからです。
この実物に落ち着いていく事が我々の一番の安心であり、唯一の安心できる場所です。
今ここに生きているこの生命の実物を行じる事(坐禅)が我々の生きる「目的」であり、ここで言う「本来の面目」と言うのかもしれません。
なぜならそれは「真実」の行いだからです。
自然に身心脱落すれば、そこに本来の面目があるではないか。
「坐禅」を通し、大安心の世界を行じているのがこの道元禅師のお勧めになるこの「只管打坐」であるということです。
生きる目的、本来の面目とは
今回は、道元禅師がしるした『普勧坐禅儀』の
という部分を解説してきました。
最後に本記事のポイントをおさらいしておきましょう。
- 無我でなければ「仏法」ではない
- 他人の評価で成り立つ「相対的な世界」ほど曖昧で不安定なものない
- 「思う」という事は大自然の行い
- 「身心脱落」は元々の自然の姿であり、本来の実物の世界のこと。
- 思いを手放し、この元々の「実物の世界に」帰ることが「坐禅」
- そしてその「実物の世界」こそ真の人の安心する場所。
本記事はこの『普勧坐禅儀』において非常に重要となる部分です。
何度もお読み頂ければ幸いです。
以上、お読みいただきありがとうございました。
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