「身心一如。」とは「心」と「体」、つまり「身」と「心」というのはいつも「一つもの」であるということです。
本記事ではそんな「身心一如」とはどういうことで、一体どのような場面でこの「身心一如」という言葉が使われるのか?について解説していきたいと思います。
それでは参りましょう。
こんにちは「harusuke」と申します。
2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。
さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。
それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?
ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。
道元禅師の「身心脱落」
さて、「身心一如」について本題に入る前にここで少し、道元禅師の過去のお話に触れておこうかと思います。
宜しければお付き合いください。
そもそも道元禅師とは、鎌倉時代の「禅僧」になります。
恐らく「禅」に通じている方は必ず一度は耳にしたことのある、今日の日本仏教界を支える「巨人」であります。
その道元禅師は今から750年ほど前、宋の国(現在の中国)へ渡られます。
そして天童山の「天童如浄禅師」のところへ行かれて、「身心脱落」をされたという経緯がございます。
「身心脱落」とは簡単に言えば「お悟り」を開かれたということですね。
本当に簡単に言えばですが・・・。
そしてこれにはとある逸話が残されております。
夜、「道元禅師」が天童山の「僧堂」で「坐禅」をしていたんですね。
すると道元禅師の隣に坐っていた修行僧が眠ってしまってんです。
その様子をご覧になった「道元禅師」の師匠でもあり、当時の天童山の住職でもあった「天童如浄禅師」が「打坐はこれ身心脱落底なり。」と言ってその眠っていた修行僧を叱咤するんです。
お前は何をやっているんだ!只管に坐睡してなんとするか。
と、その時履いていた靴で、その寝てしまった修行僧を打ちのめしたんですね。
その時にその様子をご覧になっていた道元禅師はそこでお悟りをひらいたと言われているんです。
つまりそこで「身心脱落」したと言われているんですね。
その後、夜になって道元禅師が妙高臺(みょうこうだい)と呼ばれる如浄禅師がおられる部屋まで線香を持参して赴きます。
すると「如浄禅師」から「一体何しに来ましたか、」と聞かれるんですね。
道元禅師は、「身心脱落して参りました。」お答えになります。
そしてそのような晴れやかな「道元禅師」の様子ご覧になって如浄禅師もすっかり道元禅師が「身心脱落底」されたことが分かるんです。
「あなたはもうすっかり悟りましたね。」
「お師匠様。そう、気安く証明しないでください。」
「いや私は決して簡単にあなたの身心脱落を証明しているのではないですよ。」
「そのように言われる根拠は何でしょうか?」
「脱落、脱落」
このようなやりとりがその後、続いたとされます。
道元禅師が「身心脱落」された際にはこのような経緯があったんです。
身心一如とは何か
さてそれではそのような道元禅師が「身心脱落」された経緯を踏まえて、そろそろ本題にはいっていきたいと思います。
「身心一如」とは何なのか?
以下で詳しく解説していきます。
我々の「脳みそ」は海の波に例えられる
まず我々人間は脳みそをもっておりますね?
この脳みそが頭の中で、「ああでもないこうでもない。」と言いますよね?
つまり「概念遊び」をするわけです。
もしくはこれを「心の作用」と言ってもいいかもしれないですね。
そして我々の「頭」や「心」というのはいつもこの「体」と分離しております。
いつも分離しているというのは、「頭」や「心」で考えたことが、実際の体には伝わってこないということです。
例えば「火」と思った瞬間に口から「火」がでれば、これは分離していないですね。
しかし実際はそうはいきません。
つまり「実際には存在しない」ことがこのように「頭」や「心」の中では映し出されるんです。
要するに「バラバラ」なんですね。
「心と体」というのは。
メチャクチャなんです。
しかし、我々の生命、「命」というのは、これは一切分離はしてないんですよね。
何故なら、「心」があるから「体」があるし、「体」があるから「心」があるからです。
なのでバラバラであるとか、分離しているなどというのは正直どうでもいいことなんです。
そのように「心」と「体」、「身」と「心」というのはいつも「一つもの」であります。
これを「身心一如。」と言うんです。
頭や心が概念遊びをしたければ勝手にやらせればいいんですね。
それも大切な人間の命の作用ですし、我々の体が「身心一如。」であることには変わりがないんですから。
身心一如とは海全体の話
さて我々の脳みそというのは本当に色んな事を考えますね?
丁度それは海に例えると「波」の様なものですね。
大きな海には「大きな波」や「小さな波」など色々な様相があります。
我々の頭もその波のようなものなんですね。
気分が落ち込む時があれば、明るくなる時がある。
まさしく「波」のようなものであります。
しかし我々はいつもその「波」の部分だけに始終してしまっているんですね。
その「波」の部分だけに振り回されているんです。
先程も言いましたが「身心一如」とは「心」と「体」が一つ物であることです。
それに「心」とは常に不安定であるし、それが「心」の正体であり、あるべき姿です。
ですから、この「心」の行う事というのは、「概念遊び」にしか過ぎないんです。
それにもかかわらずこの「波」の部分、つまり「心」だけに支配されているのが我々の生活なんですね。
実際の我々の命というのは、「波」ではなくこの「海」全体であります。
「全体」。
身と心がいつも分離しておりますが、実際は身と心は一つものであります。
この「身心一如」とはまるで海のようなものなのです。
身心一如の例「鏡を見る時は、鏡を見る」
また、この「身心一如」の話は我々がよく使う「鏡」にも置き換える事が出来ます。
我々一般の凡夫というものは、鏡に映された形にいつも始終してしまっているんですね。
「もう少し鼻が高ければ・・もう少し目が大きければ・・もう少し痩せて肌の色が白ければ・・」そういう鏡に映った自分の形、或いは映像に振り回されてしまうんですね。
要するに形や映像に振り回されているのが我々一般人なんです。
しかし一方で悟りを得た人達は皆、同じような時「鏡そのもの」を見ています。
鏡に映された映像に振り回されない、とでも言いましょうか。
鏡に映された影というのは、上記で言ったように、海の「波」のようなもので、海の「一部分」にしか過ぎません。
しかし我々凡夫にとってはこの「波」の部分が全てになってしまっているんです。
ですから問題なんですね。
大きな波があったり、小さな波があったり、きれいな波があったり、海には色々な波があり、海を彩る表面部分にしか過ぎません。
それにもかかわらず、表面上に過ぎない「波」が命の全てになってしまっているんです。
その「波」を生み出すものに「海」があるように、「心」を生み出すために「体」があるわけです。
この「海」や「体」を例に、「全体」の生き方をしているのが「仏祖」であり、「道元禅師」なんですね。
特に道元禅師はこの「身心一如」の事を盛んに取り上げています。
例えば「尽十方界真実人体。」という言葉をよく道元禅師は用いて言うわけですね。
「体」こそが「命」であると。
つまり「体があってはじめて色々な思考が出来るし、わがままがを言えたりする」という事を抑えた言葉なんですね。
「身心一如」とは「全体」です。
人間でいえば「心」と「体」一つの命です。
坐禅は「身心一如」そのもの
そしてこの「坐禅」は「その全体を行じている。」んです。
「身心一如」そのものなんです。
「命そのものを行じている」と言っても良いかもしれません。
何故なら「生命の実物」を行じているからですね。
「心」と「体」、ひいては「私」の「宇宙一杯の姿」を行じているからです。
この「宇宙一杯の姿」を「ありのままの姿」と言ったりしますね。
坐禅とはつまり人間の「ありのままの姿」なんです。
我々はややもすると表面上の波だけ、或いは鏡に映る映像や形だけに振り回されているのが現状です。
しかし道元禅師が我々にすすめているのは「命そのもの」を行じる「坐禅」です。
「身心一如」の「坐禅」です。
「心」と「体」はいつも「一つ物」です。
「心」は「体」で「体」は「心」なんです。
おわりに
「身心一如」とは何かについて本記事では解説してまいりました。
今回はここまでとさせて頂きます。
コメント