趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)禅師(778年 – 897年)は中国唐代の僧で、中国禅宗における巨人です。
「庭前の栢樹子」を例に見ても、その道に通ずる方であれば、この趙州禅師の名はさまざまな場面で目にするはずです。
今回はそんな趙州禅師とある二人の修行僧が残した逸話をご紹介し、「真実」とは何なのかを紐解いていきたいと思います。
高齢で行脚修行に出た趙州禅師
趙州従諗という禅僧がかつて唐時代の中国にいました。
この趙州禅師というのは六十歳を過ぎた、高齢を迎えてから修行を始めた人です。
幼くして曹州の龍興寺で出家し、7~8歳で既に悟りを得たとも言われております。
ちなみにこの趙州禅師の師匠は南泉普願(なんせんふがん)禅師という方で、こちらも非常に有名な方です。
趙州禅師は六十歳という年齢で行脚の旅に出ます。
その行脚の修行に出る際、
七歳の子供でも私より優れた者があったならば彼に教えを請おう、また例え百歳の歳老いた老翁であっても私の方がもし優れていたら彼に教えようという。
という一つの誓願を立てます。
旅の途中で出会った二人の修行僧

修行の旅の途中で「庵主(あんしゅ)」と呼ばれる、一つの庵を構えてそこで坐禅三昧の修行をしている二人の修行僧に出会います。
趙州禅師はまず、庵を構えるとある一人の修行僧の所へ行って次のように質問します。

有りや、有りや。
そこで「有りますかね?」という風に質問するんですね。
少しわかりにくいですが、
あなたは私を導いてくれる何かをお持ちでしょうか?
という風に声を掛けた。
するとその修行僧は、小さな庵に住んでおったのでありましょう、その庵から出て来て、趙州禅師の目の前に「握り拳」をニョきっと出した。
今で言う「ガッツポーズ」を趙州禅師の目の前に出したんですね。
すると趙州禅師は、



いや、いや、水が浅くて舟を停める処ではない。
と言ってさっさと立ち去ってしまうんですね。
「水が浅く、とても舟を停められない」というのです。
つまり、「あなたには私を導けない」とその修行僧をある種けなしたような発言でその場を退いてしまったのです。
次に趙州禅師は同じくその旅の中で、一つの庵に向かい、またもやそこで別の一人の修行僧と出会います。
同じように、その修行僧に向かって



有りや、有りや。
「ありや、ありや。私を導いてくれる何かをお持ちですか。」という風に質問した。
するとその修行僧も、前回の修行僧と同じように趙州禅師の目の前に「握り拳」をグッと突き出した。
しかし今回の趙州禅師は、



あなたは自由自在である。与えるも奪うも殺すも生かすも、お前さんには自由自在にできるだろう。
と言って、うやうやしくその修行僧にお拝をしたんですね。
このような逸話が残されている。
ここで紹介した趙州禅師と二人の修行僧のやりとりは『無門関』、『第十一則』の「州勘庵主」で紹介されております。
目に見えない「評価」に「命」を脅かされている
それでは何故仏法の大意に関して、同じ答え方をした二人の修行僧に対し趙州禅師の返答の仕方は異なったのでしょうか?
その正確な答えを導きだしたいところですが、残念ながらその正確な意図に関してはどの文献でも一切触れられていないのです。
二人の修行僧、両者とも同じように「握り拳」を趙州禅師の目の前にグッと突き出した。
一方に対しては「とてもこの修行僧は水が浅くて、私のような舟を停める事は出来ないなぁ。」と言って、さっさと立ち去ってしまう。
もう一方に対しては「あなたは与えるも奪うも自由自在である。殺活自在の生き方だ、素晴らしい。」と言ってお拝をする。
公案というのはいつの世も仏法者を導くために、古くから用いられ続けられる教材のようなものです。
この「州勘庵主」も我々を導くために古くから用いられてきた有名な公案の一つです。
一体、趙州禅師は何を言わんとしているのかと。
ここではその問いを通して、趙州禅師の、あるいは仏法の大意に近づくことができるというわけなんです。
またここでは両者の修行僧の返答の是非が定められているわけではないのです。
ここでは我々にその是非の決定を投げかけているんですね。
我々はいつも評価に振り回されています。
「水が浅くて舟が停める事が出来ないよ。」と言ってさっさと立ち去ってしまう。
一方では「あなたは素晴らしい、自由自在な方だ。」と言って評価をする。
我々は「その評価」にいつも振り回されているんですね。
しかしこの二人の「庵主」、修行僧は決してその評価に振り回されていないんです。
だから発言すらしていない。
ただ「握り拳」という生命の実物を出しただけであります。
もし趙州禅師の「評価」にこの二人の庵主が振り回され、発言でもしようものならばこの公案は成り立っていないでしょう。
「握り拳」を出し、発言すらしていない。
ただそれだけである。
「他人の評価」、「世間の評価」に我々はいつも振り回されている訳ですが、「評価」は所詮「評価」です。
目に見えない、概念の世界であります。
そのような「評価」は他人任せで十分である。
「実物」は「実物」であって、「評価」は「評価」である。
我々が今坐っている「坐禅」は生命の実物であります。
この時の「握り拳」と同じであります。
今ここ、この自己に生きている、自己の正体を今行じている。
それに対して色々な「評価」が出てきたとしてもそれは他人任せでどうでも良い事でなんですね。
我々が一番大切にしなければならないのは、この「握り拳」であり、実物の世界である。今、ここ、この事実である。
事実だけが全ての答えなんです。肌をつねれば痛い。足をくめば痛い。これがこの世界の正体です。そこには上も下もない。我々がいつどこにいってもその世界の正体とともにある。それが事実です。
つまり事実というのが世界の正体なのです。今、ここには必ず事実が展開しておりますが、今ここにはその世界の正体、上も下もない、この世界の全てが今ここに展開しているわけです。
今、ここにこの世界の全てを頂戴しているわけです。
どこにいっても肌をつねれば痛い。どこにいっても足をくめば痛い。どこにいっても我々は世界の全てを頂戴しているわけです。
事実こそが仏法なのです。今、ここ、この自分こそが全てなんですね。
それにも関わらず我々は「評価」に振り回され、それを蔑ろにしている。疎かにしている。
概念の「世界」に始終している。
存在すらしない「評価」に「命」を脅かされているんですね。
この考案の是非は我々に委ねられております。
そしてその是非に関しては先ほど述べたように、今ここ、この自分のありがたさ、生命の実物の尊さに気づけるかどうかということです。
いつも、いかなる時も我々には事実が展開している。それは仏法の全てだということです。
その事実を抱きしめること、足を組んでこそ、我々は真に仏道を歩めるというものです。平穏な生き方ができるというものです。
その事に我々に気付いてほしくてこのようなやりとりを趙州禅師は残されたのであります。
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