「寒山拾得と麻浴宝徹禅師のとある話を参考にする」普勧坐禅儀に学ぶ⑥

こんにちは、harusukeです。

本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきたいと思います。

今回は前回の内容も踏まえつつ、

況んや全体逈(はる)かに塵埃(じんない)を出(い)づ、孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。

という部分を解説していきます。

まず前回の、

のポイントを振り返りたいと思います。

前回のポイント
  • 「塵」や「埃」というものは人間の概念でしかない
  • その「概念」も含めた、我々人間の命
  • そしてその「人間の全体の命」を行じるのが道元禅師のお示しになる「坐禅」

それでは前回のポイントをおさらいしたところで、本記事を読み進めていきたいと思います。

この記事を書いているのは

こんにちは「harusuke」と申します。

2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。

さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。

それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?

ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。

普勧坐禅儀(訓読文)※青マーカーが今回の説明箇所です。

原(たず)ぬるに、夫(そ)れ道本円通(どうもとえんづう)、争(いか)でか修証(しゅしょう)を仮(か)らん。宗乗(しゅうじょう)自在、何ぞ功夫(くふう)を費(ついや)さん。況んや全体逈(はる)かに塵埃(じんない)を出(い)づ、孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。大都(おおよそ)当処(とうじょ)を離れず、豈に修行の脚頭(きゃくとう)を用ふる者ならんや。然(しか)れども、毫釐(ごうり)も差(しゃ)有れば、天地懸(はるか)に隔り、違順(いじゅん)纔(わず)かに起れば、紛然として心(しん)を(の)失す。直饒(たとい)、会(え)に誇り、悟(ご)に豊かに、瞥地(べつち)の智通(ちつう)を獲(え)、道(どう)を得、心(しん)を(の)明らめて、衝天の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にっとう)の辺量に逍遥すと雖も、幾(ほと)んど出身の活路を虧闕(きけつ)す。

目次

寒山(かんざん)と拾得(じっとく)

前回の記事では、

況んや全体逈(はる)かに塵埃(じんない)を出(い)づ、孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。

という部分を解説しました。

その際、六祖慧能(えのう)禅師の、

菩提元樹なし、明鏡また大にあらず。本来無一物、いずれのところにか塵埃のあらん。

という見偈を例に、この世界には拭うべき「塵」や「埃」はなく、それは人間の概念でしかないというお話をさせていただきました。

今回もその内容についてもう少し深堀していきたいと思います。

中国に「寒山(かんざん)」「拾得(じっとく)」という非常に有名な仙人のような生活をした二人のお坊さんがおりました。

この「寒山(かんざん)」と「拾得(じっとく)」は、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)様、普賢菩薩(ふげんぼさつ)様の生まれ変わりともいわれておりますが、その名を耳にしたことのある人はおおいのではないでしょうか?

架空の人物であったという説もありますが、禅画の画題として用いられることから今でも非常によく目にする機会の多い人物です。

寒山寺にいた寒山(かんざん)と、天台寺にいた拾得(じっとく)。

詩人としても有名なこのお二人でしたが、二人とも奇行が多かったことでも知られています。

下の画像をみてください。

『寒山拾得図』朝日町歴史博物館より出典

この画像をみると「拾得」の方がですね、箒を持って片一方の指で天を指しております。

「寒山」の方はというと、箒も何も持っていません。

この画像にまつわるお話を今回少しさせていただきますね。

道元禅師は何故坐禅をされるのか?

恐らく二人で仲良く庭掃きをしていたのでしょうね。

楽しそうな話ごえが今にも聞こえてきそうです。

ある日、箒を持っていない「寒山」の方が、

払うべき埃もなきに箒持つ奴の心ぞ塵となりぬる。

と言います。

つまり、

払うべき埃もないのに、箒など持ってどうするのだ。そのようなお前さんの心こそ塵ではないか。

と「寒山」は言う訳です。

この世の中に厭うべき「埃」も「塵」というものは一切無いのに、箒を持って払おうとする。そのお前の心が塵や埃ではないか、という訳です。

一方箒を持っている、「拾得」の方は、

払うべき埃もなしと言う奴を払わんが為の箒なりけり。

というんですね。

つまり、

ああだこうだ理屈を並べ立てて、掃除をしないお前のような奴を払うための箒である。

このやりとりの場合、どちらの意見がどうという訳ではありませんが、どちらの言い分もわかるわけです。

このような非常に面白いやりとりがこの『寒山拾得図』のなかには隠れているわけですが、このやりとりは今回の『普勧坐禅儀』の内容と非常に似ていますよね。

況んや、全体迥かに塵埃を出ず。孰か払拭の手段を信ぜん。

つまり、

道元禅師

あなたの「思惑」で、修行をする。そのような手段としての「坐禅」を一体誰が信じるというのでしょうか。

と、道元禅師はいうわけです。

つまり「坐禅が全体」「坐禅が全て」であるのに、どうして「手段」として「坐禅」を用いるのか?ということですね。

そして今回、「寒山」が言うのはこの世の中は何一つ「塵」や「埃」が無い、一体どこにそのような「塵」や「埃」があるんだと。

しかし、この両者の見解は似ている様で少しだけ違いますね。

何故なら、

  • 払うべき「埃」も「塵」もない。そのように言うのなら、そもそも「掃き掃除」なんてしなくても良いではないか?
  • 「全てが悟り」だというのなら「坐禅」などしなくてもいいのではないか。

このような考え方は誤りだからです。

もう一度言いますが、

  • 払うべき「埃」も「塵」もない。そのように言うのなら、そもそも「掃き掃除」なんてしなくても良いではないか?
  • 「全てが悟り」だというのなら「坐禅」などしなくてもいいのではないか。

これはあくまでも「考え」なんですね。

つまり人間の概念であり、人間の駄々こねなんです。

このような考えは人間の「こうであればいいのに」という思惑に過ぎないんですね。

「悟り」を知った気になっているだけなんです。

というのも、

「全てが悟り」を証明できるのは「坐禅」や「掃き掃除」だけなんです。

何故なら、「概念」とは違い、「坐禅」や「掃き掃除」には生き詰まりがないからです。

それは「生命の実物」だからです。

「生命の実物」であること、「生き詰まり」がないことが「悟り」だからなんですね。

しかし今言ったことは「概念」なんです。

そして「概念」は「概念」なんです。

「生命の実物」ではないので、生き詰まりがありまし、人間だけにしかない「概念遊び」だからです。

「全てが悟り」なのは「生命の実物」に限った話です。

何故なら「生命の実物」、「大自然」にはいきつまりが一切なく「真実」を「真実」のままに現成しているからです。

だから、

  • 払うべき「埃」も「塵」もない。そのように言うのなら、そもそも「掃き掃除」なんてしなくても良いではないか?
  • 「全てが悟り」だというのなら「坐禅」などしなくてもいいのではないか。

というのは誤りなんですね。

それは単なる人間の「概念遊び」なんです。

少しわかりづらい部分かもしれませんが、非常に重要なので何度も読み返していただければと思います。

そして今申し上げたことを道元禅師は踏まえていたから、ひたすら「坐禅」にうちこむわけです。

只管打坐

大自然の「生命の実物」を実践するわけです。

ここが両者の見解の異なる点なんですね。

「すべてが悟り」と「証明」しているのはこの「坐禅」だけなんです。

それを踏まえた上で道元禅師は、

況んや、全体迥かに塵埃を出ず。孰か払拭の手段を信ぜん。

とおっしゃるんですね。

本来「払うべき埃はない」とおっしゃるんです。

犬の糞もフランス料理も、同じ「実物」であるからですね。

大自然の命だからです。

そしてその生命の実物には、人間の判断価値や優劣入りこむ余地がありません。

なので我々も「坐禅」を組まねばならないし、「掃き掃除」をしなければいけません。

何故なら「坐禅」は生命の実物であり、大自然の命だからです。

「掃き掃除」は生命の実物であり、大自然の命だからです。

仏性を誰もが持ち合わせているという事を証明するためには

また今述べた内容に関するお話がもう一つありますので、そちらのお話もさせていただければと思います。

昔、麻浴宝徹禅師という人がいました。

よほど暑かったのでありましょう。

暑いのでうちわで仰いで居りました。

扇風機もクーラーも無い時代であります。

暑い中、うちわで一生懸命仰いでおったんです。

すると一人の修行僧が「風性は至る所にある」と、この麻浴宝徹禅師に聞くんですね。

つまり「風の性は至る所にあるではありませんか?風の性というのはどこにでもあるではありませんか?」と聞くんですね。

とある修行僧

和尚さんは何故風の性が至る所にあるというのに、扇などを使うんですか。

と、こう質問した訳です。

「風の性は至る所にある。」これは「仏性はみんな持っている」とも言い換えられますね。

なのでこの質問は、「仏性をみんな持っているというのにどうして和尚さんは坐禅をするんですか?」という質問と同じに受け取れるわけです。

我々は「仏性」をみんな持っている、「仏の命」として生まれ、「仏の命」として生きている。

なのに何故わざわざ「坐禅」をしなければいけないのか?

というわけなんです。

するとこの麻浴宝徹禅師は、

麻浴宝徹禅師

あなたは風が至る所にあるという事は知っているが、働きによってその風を導き出すということをまだ知らない。

と、そのような回答をその修行僧にされたんですね。

そしてその際、ただ「扇で仰いで見せた」という教えが残っているんです。

この話で言いたいのは、

風はどこにでもある。しかしお前はその風がどこにでもあるということは知っているが、扇がなければ風の働きは起こらないという事をお前は知らない。

ということなんです。

つまり、

みんな平等に仏性を持ってるという事は知っている。しかしそれはただの「概念」である。「仏性」は「概念」ではなく「生命の実物」だからこそ「仏性」なのである。

ただ扇を「使う」こと。

或いは「坐禅」を行じることにおいて「悟り」は証明されるという訳なんです。

扇を「使う」ことによって「風至らざる所なし」、という事を証明していく。

これが仏法の理屈です。

またこれは道元禅師のおすすめになる「坐禅」の理屈でもあります。

全体迥かに塵埃を出ず、たれか払拭の手段を信ぜん。

「概念」でこのことを理解しようとしたならば、単なる「理解」で話が終わってしまう。

しかし、仏法は頭で理解するような「概念」の教えではありません。

「生命の実物」である「坐禅」を「行じる」こと。或いは言い方をかえれば「真実」を「真実」することで初めて、我々人間が「仏」であることを証明できるし、「仏性」を持ち合わせているという事を証明することができるのです。

人間は仏であることを証明するために「仏の行い」を行じなければいけない。

今回は『普勧坐禅儀』の、

況んや、全体迥かに塵埃を出ず。孰か払拭の手段を信ぜん。

という部分を解説してきました。

最後に本記事のポイントを振り返りたいと思います。

本記事のポイント
  • 生命の実物としては「塵」や「埃」というものは存在しない、実物に人間の価値判断は付けられない
  • 概念としてなら「塵」や「埃」、きれいな物、汚い物と、人によって価値判断が分かれてくる。
  • 物事の正しい姿は全て「実物」としての姿。
  • 「塵」や「埃」は払うという実践を通して始めて、「塵」や「埃」を実物としてとらえる事が出来る。
  • 「風」は至る所にあるが、仰いで始めて「風」が至る所にあるという事を証明できる。

以上が本記事のポイントとなります。

お読みいただきありがとうございました。

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