菩提達磨様の生涯とは?

「だ~る~ま~さ~ん~が~こ~ろ~ん~だ!!」

さて現在の我々の生活にも馴染みの深い「だるまさん」。

あなたはこの「達磨(だるま様)」がどういった人物で、どのようなことをされてきた人物かをご存知でしょうか?

そこで本記事ではインドで王族としてお生まれになり、その後中国に「真実の仏法」をお伝えになった「菩提達磨(ぼだいだるま」様の生涯について触れていきます。

少しここで簡単にお話すると、達磨様は中国に渡ってすぐ、当時中国で権力を奮っていた「梁の武帝」と問答をし、「真の仏法とは無功徳である」と有名な言葉を残されました。

またその後、かの有名な「少林寺」にはいり、「面壁(めんぺき)九年の坐禅」を実践された達磨様。

一体そこで「無功徳」とおっしゃた意味は何だったのでしょうか?

そして何故そこまで面壁の「坐禅」に励まれたのでしょうか?

そういった点も本記事では触れていきたいと思います。

さて当ブログでは「道元禅師の禅」がテーマとなっておりますが、その道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』のなかに、

少林の心印を伝(つた)ふる、面壁九歳(めんぺきくさい)の声名(しょうみょう)、尚ほ聞こゆ。

という一文が出てきます。(ここでの「少林」とは「達磨様」のことをさしております。)

道元禅師の生涯にとっても、この「達磨様」の影響というものは大きく何度もこの達磨様について触れられております。

それほどまでの人物だったんですね。

仏法においてこの「達磨様」の功績は計り知れないわけなんです。

今回は恐れながらも私の微力をもってして、今の我々の生活にも大きな影響を及ぼす「達磨様」について解説していきたいと思います。

それでは参りたいと思います。

この記事を書いているのは

こんにちは「harusuke」と申します。

2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。

さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。

それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?

ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。

目次

達磨様によって今日我々に伝えられた真実の仏法。

本記事では仏法の歴史上最重要人物の一人として数えられる「菩提達磨(ぼだいだるま)」様の生い立ちについて触れていきます。

さて当ブログのテーマでもありますが、「道元禅師」のしるされた『普勧坐禅儀』に次のような一文が出てきます。

少林の心印を伝ふる、面壁九歳の声名尚ほ聞こゆ。

この『普勧坐禅儀』の一文を皮切りに今回解説していきたいと思うのですが、そもそもここで言う「少林」というのは、少林寺拳法で有名な中国嵩山の「少林寺」の事を指します。

そして「心印を伝ふる」「心印」というのは、お釈迦様から始まった「天上天下唯我独尊」という真実の教え。

つまりこの一文は、「真実の教えが滴滴と二十八代の達磨大師まで伝えられてきたという事を言っているのです。

また壁に向かって坐禅することを「面壁」と言いますが、達磨様はその面壁の坐禅を「九年間」されておりました。

それを九年間(長い年数の意)行ったので、ここでは「面壁九歳」と表しています。

そして、「その名声は今も尚、今日まで聞こえている」というのがこの一文の内容であります。

果たして達磨様がお伝えになった真実とは一体なんだったのでしょうか?

コウシ国の第三王子

菩提達磨

達磨様は南インドにある「コウシ国」の第三王子としてお生まれになられました。

さて、この「達磨様」もそうですが、お釈迦様、そして道元禅師も、王子や階級の高い家庭に生まれ、将来を保証されているような方ばかりがこの仏法においては有名なんですね。

しかしその祖師方は地位や名誉を顧みず、みな出家されてしまうのです。

そしてこの達磨様も、南インドにあるコウシ国という国の三番目の王子としてこの世に生まれたわけです。

父親のコウシ国王は非常に仏教を崇め、重んじられておられたと言われております。

そんな中、当時インド仏教の最高指導者に般若多羅尊者(はんにゃたらそんじゃ)という方がおられました。

この方はお釈迦様から数えて二十七代目の祖師にあたるかたです。

そしてある日、コウシ国王はこの般若多羅尊者を宮殿にお招きしてご説法をしてもらうことにしたんですね。

国王でありますから、非常に財力もあったのでありましょう。

その説法のお礼に、この世で値段が付けられない程高価な「宝珠」、「宝石」を般若多羅尊者に差し上げようとした訳です。

ところでこのコウシ国王には三人の王子がいました。

第一王子「ゲツジョウタラ」、第二王子「クドクタラ」、そして後の達磨さんになる、第三王子「ボダイタラ」の3人です。

般若多羅尊者は説法が終わると、国王からもらった高価なその「宝珠」を取り上げて、三人の王子たちに

般若多羅尊者

この世の中でこの「宝珠」よりも、優れた物があるかどうか?

と質問するんです。

すると第一王子と第二王子は、

第一王子と第二王子

この宝珠は七宝であり、あらゆる宝石の中で、一番尊い物です。これに勝る物は他にありません。これこそ「般若多羅尊者」のような優れたお方がお持ちになるのが一番相応しいです。

という風にお答えになられました。

このような答えは世間一般的に考えれば何もおかしいところはありません。

しかし第三王子の「ボダイタラ」、後の達磨尊者は

第三王子

この「宝珠」がどれほど素晴らしい物であると言っても所詮は世間の宝物でしかありません。本当の上等の宝物はありませんよ。

という風にお答えになったのです。

それを聞いた般若多羅尊者はこの三番目のボダイタラのことをただならぬ「器」だと知り、非常に尊ぶと同時に自分の弟子として育て上げることにしました。

そして、

般若多羅尊者

中国には未だ真の仏法が伝わっていない。だから私が亡くなったら中国へ行って真実の仏法を伝えなさい。

こう、菩提達磨様に告げるのです。

そうは言っても、実際には既に中国にも仏法に近しいものは伝わっていたんですね。

何故なら既に「玄奘三蔵」がシルクロードを通り、インドと中国を往復していたと言われているからです。

それでもその時は仏教経典などだけが伝えられただけで、「真実の仏法」、「自己ギリの自己」という真実の仏法は一度も伝えられておりませんでした。

そのような事で般若多羅尊者は、「もし私が死んだならば中国へ行って真実の仏法を伝えなさい。」と菩提達磨様に言明をされたという訳です。

それで師匠の般若多羅尊者が亡き後、菩提達磨様は「中国」にやってくるという訳なんですね。

計り知れない器量の持ち主

当時王子だった「ボダイダラ」は、後の師匠となる般若多羅尊者との対話の中で、

世の中においてどんなに素晴らしい「宝物」であったとしても、所詮は世間の宝物でしか過ぎない。

と話しております。

その器量は幼いながらにも、後に中国という広大な土地に「真実の仏法」を伝えるのに相応しいほど恵まれていたんですね。

宝石や宝珠などといってもそれは所詮、世間の宝物でしかない。

そしてその価値は社会との兼ね合いによって成り立っているだけで、常に「変動」しつづけてしまうのです。

なのでどんなにそれが社会において素晴らしい物であったとしても他との兼ね合いで成り立っている以上、それは本当の宝物ではない。

そのような事に達磨様は幼くして気付かれていた訳であります。

中々難しいことですよね。

大人であっても、一生かけても、気付けない人は沢山います。

そうした器量を師匠である般若多羅尊者に認められ、達磨様は中国にやってくるわけです。

「梁」の武帝との有名な問答

さてそのような事で、大変器量に恵まれた「菩提達磨」様が真の仏法を伝えに中国へ渡ろうとします。

当時の中国への渡航の履歴を見てもそうですが、他の人達は大体が砂漠を通って西の方から中国に入っております。

しかしこの達磨様は当時としては珍しく、海を渡って今日の「広東省」、香港の方より上って当時の「南京」までやってまいります。

そしてその「南京」には、当時「梁」という国があったんですね。

その「梁」という国に達磨様は初めて赴く訳ですが、その際「梁」王朝の「武帝」という方と初めて会見した時の有名な問答が今日まで残されております。

その問答は、今においても非常に有名なものなのでここで少しご紹介させていただきます。

当時、「武帝」という程ですから非常に武力の長けておったのでしょう。

その「梁の武帝」の武力によって「梁」という国は治められておりました。

その武帝が率いる「梁」の国は、その武力を用いて様々な国から略奪していくんです。

中には残忍な行いも多々あったのでありましょう。

その事を非常に「武帝」は反省をするわけですね。

その悔恨の念もあり、武帝は「仏教」を非常に深く信仰したと言われております。

「沢山のお寺を建てたり」、「お経を訳されたり」、「経典を印刷されたり」、或いは「出家者を供養したり」、また或いは「自分もお袈裟を付けて法を説いたり」したとも言われています。

非常に仏教を深く信仰されていたわけです。

そのような背景もあり、「武帝」は南インドから真の仏法を伝えるために「達磨様」がやってきた事を聞き、問答をする訳です。

まず、「梁」の武帝が

武帝

私は仏法を大切にしてきた。お寺を建て、お経を作り、出家者を供養してきた。私は仏教の為に様々な貢献をしてきたが、どれほどの功徳がありますか?

と、達磨様に質問します。

すると達磨さんは、

達磨様

無功徳

という風に答えるんですね。

つまりそんな事をしたからと言って何も「功徳」はないぞと、「無功徳」と言われた訳です。

一生懸命「仏法」の為に尽力してきたというのに「無功徳」と言われてしまった。

当時の「梁」の武帝はさぞ、理解に苦しんだでしょうね。

受け入れがたい無功徳

我々人間は、何かを一生懸命やったとしてもそのことを「鼻」にかけてしまうんですよね。

例えば、「私が~の仕事をやっておきました」とか、「私は何々大学を出ました」とか、「私はこのような資格をもっております」とかって言う人がいます。

それだけ努力したのだから、それはそれで良いのでしょうが、それを「鼻」にかけてひけらかすという事が余計な事なんですね。

当時の「梁の武帝」もそうだったのかもしれません。

武帝

私は仏法を大切にしてきた。お寺を建て、お経を作り、出家者を供養してきた。私は仏教の為に様々な貢献をしてきたが、どれほどの功徳がありますか?

どうにかしてその功績を認められたかった。

しかし、それに対して「達磨様」は「無功徳」という風に言われます。

よその国から来たこの得体のしれない目の前の人物にそのようなことを言われたものですから「梁の武帝」は大変遺憾に思ったことでしょう。

なにせ、当時中国において真実の「仏法」は伝わっておりませんでした。

なので、「人々の為に布施を行う事」それが仏法のあり方だったわけだし、それが当時の中国の人々にとっての仏法だったんですね。

それなのに、よその国からひょっとやってきた得体のしれない人物に「無功徳」などと言われてしまう訳ですから、中々受け入れがたいところはあったはずです。

廓然無聖

納得のいかない「梁の武帝」は、続いて「達磨様」に質問を投げかけます。

武帝

そしたら「仏法」における真実の教えは一体何でしょうか?

すると達磨様は答えるんですね。

達磨様

廓然無聖(かくねんむしょう)

この廓然(かくねん)というのは、「晴天」のことを指します。

全く雲がなくて、塵も舞っていない。

カラっと晴れ渡っている様子を言います。

そして無聖(むしょう)というのは「聖(ひじり)がない」という意味です。

「聖」というのは「聖人」の聖という字ですが、「凡人」や「悪」に対して初めて意味を持つ言葉ですね。

つまり「無聖」というのは、真の仏法はそのような相対の世界で成り立っていないという意味なのです。

なので、

達磨大師

仏法は「廓然無聖」である。人間の思いに沿った功徳などあるわけなく、聖人がいなければ凡人もいない。

という事をおっしゃりたかったのです。

我々人間というのはいつも人間の価値基準、或いは頭の中だけに存在する相対の世界でキリキリ舞いをしています。

そして仏法の世界もそのような延長線にあると思っているんですね、この「梁の武帝」もそう思っておりました。

だから、

武帝

私は仏法を大切にしてきた。お寺を建て、お経を作り、出家者を供養してきた。私は仏教の為に様々な貢献をしてきたが、どれほどの功徳がありますか?

このように言われるわけですね。

しかし、達磨様に「廓然無聖」と言われてしまうわけです。

達磨大師

「聖」などそのような人間の評価など「仏法」にない、それが真実の仏法である。大自然のおきてである。つまりこれが一番安楽の世界、「廓然無聖」である。

本来大自然に人間の価値観は一切入り込まないことを達磨様は知っていたんですね。

大自然のおきてを知っていたんです。

しかし人間は、「功徳」などそんなものありゃせんと言われると、一気に張り合いが無くなってしまうんですね。

「坐禅」においてもそうです。

「坐禅」をしても何もなりゃせんと言われると、どうも張り合いがない。

一方、「坐禅」をすると何か悟りが開けるぞなどと言うと、「人間」は非常に頑張るわけです。

しかしこれは目の前に餌を釣って一生懸命走らされているのと何ら変わらないですね。

「人参」をぶら下げて馬に走らせてるのと変わらないものであります。

面壁九年の坐禅

「無功徳」であり、「無聖」。

これが真実の世界であると達磨様はおっしゃいますが、「梁の武帝」は言われている意味がまったく理解できないんですね。

何故なら「梁の武帝」はいつまでも世間のものさしで物を見ているからです。

その点、「達磨様」は仏法のものさし、大自然のものさしで見ているので両者は全く話が噛み合いません。

そして結局両者は理解しあうことが出来なかったとされています。

「達磨様」はここでこのような問答をしていても仏法は全然伝わらないという思いを抱いておられたのでしょう。

「梁の武帝」と今のような問答をしたのち、「長江」を渡って嵩山の「少林寺」に入ります。

そしてその少林寺において「面壁九年の坐禅」をされた訳であります。

九年もの間、壁に向かって坐禅をされたのです。

九年間ずっと坐りっぱなしであります。

それでは何故達磨様は面壁九年もの坐禅の行を行われたのでしょうか?

ここで余談ですが、今日の「達磨様」というと手も足もなく丸く形作られているのが一般的ですよね?

何故達磨様があのような丸い形になってしまったかというと、この「面壁九年の坐禅」を行い、そのせいで「手もなく、足もなくなった」という風習があったからですね。

しかしここで注意したいのは、達磨様は決して「飯も食わない」、「お手洗いにも行かない」、「坐禅以外なにもしなかった」という訳ではなかったんですね。

あくまでも「仏法を中心とした」、「坐禅を中心とした」、日常生活を送っておられたという訳であります。

なのでずっと壁に向かって坐禅をしておったという訳ではありません。

要するに「自分が自分を自分する」坐禅を、九年間続けられたという事であります。

ですから冒頭でもご紹介したように、

少林の心印を伝ふる、面壁九歳の声名尚ほ聞こゆ。

という部分は、「達磨様」がわざわざ南インドから中国の少林寺にやって来て、「悟りを開こう」と思って面壁九年、坐禅したという訳では決してないということです。

つまり、自分が自分を自分する「坐禅」というのはこの世界において誰しもが行うべきことなんですね。

それは何も特別なことではなく、大自然の行なのです。

そしてその大自然の行が仏法であったわけなんですね。

達磨様はその大自然の行をインドから中国へ伝えただけなのです。

「だけ」といってもその真実の仏法は当時の中国にはなく、達磨様によって「坐禅」は持ち込まれたのですからその功績は計り知れないんですね。

真実の仏法は大自然の行い、「自分が自分を自分する」

達磨様は悟りを開こうとして「坐禅を九年間」行じた訳ではないですね。

ただひたすらに「大自然の行」を行う。

そのことが我々人間にとって悟りなんです。

ですから達磨様は「少林寺」でただひたすらにその真実の行を実践されるんですね。

誰かに働きかけることもなく、ただ真実の行を実践する。

それが「悟り」だということを知っていたから。

そしてその「坐禅」が達磨様が南インドから中国へもってきた真実の仏法であります。

また中国における「真実の仏法」の始まりでもあります。

「面壁」というのは、ただひたすら「自分が自分を自分」しています。

自分をしっかりと引き受け、自分というものを「坐禅」を通して実践される。

我々にできることはこれだけなんですね。

真実はこれだけなんです。

なので真実を伝える仏法はここを出発点としており、それが今日まで伝えられている訳であります。

お釈迦様から始まり、「達磨様」に伝えられ、その達磨様によって中国に持ち込まれた「真実の仏法」。

この「達磨様」の「廓然無聖」、無功徳の教えが無ければいまだ人間は迷い続けていたかもしれません。

無功徳であるからこそ、「仏法」であり、引いては「真実」であるわけです。

しかし、他との兼ね合いや「功徳」を求めようとしたほうが人間は非常に頑張れるんですね。

「何もならない」、「無功徳の自分が自分を自分していく」などどいうものが仮に真実であったとしても、人間にとっては中々流行らないし、真実の生き方などどうでもよいと思われるかもしれない。

しかし、「本当の安らぎ」、「人間の救い」はこの「廓然無聖」、何の功徳にもならない、「自分が自分を自分していく」ことです。

他との兼ね合いの中には決して本来の「安心」はあり得ません。

自分が自分として安心をしていく所に本当のこの「仏法」がある訳であります。

達磨様が伝えた真実

ここまで達磨様のご生涯を解説してきました。

当ブログのテーマでもある「道元禅師の禅」。

その道元禅師だけでなく我々人類にも多大な影響も及ぼした「達磨様」の功績。

もしあの時「梁の武帝」との問答で、「無功徳」をお示しになっていなかったら、もし少林寺で世間との兼ね合いを捨てた「面壁九年の坐禅」を実践していなかったら。

そう思うと、達磨様の功績は計り知れないわけです。

そしてこの「達磨様」の功績がなければ我々はいまだに迷い続けていたかもしれません。

お読みいただきありがとうございました。

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