これは道元禅師の有名な言葉ですが、ここにもある「教外別伝」とは一体どういうものでしょうか?
結論から言って、「教外別伝」とは
仏法の真実は文字や文章で言い表すことができない
という意味になります。
続きは是非本章で御確認ください。
- 我々の一生というのは稲妻のようなものであり、たちまちに消えてなくなってしまう。それほど儚い物である。
- 須臾(しゅゆ)というのは時間の単位で今で言う「48分」を指す。
- 人間の命は非常に短い。
- 二度と「仏法」に出会う事ができないかもしれない。
- 「仏法」生命の実物をよりどころにする。
- 自分の命を大切にするということは、他人の命を大切にするということ。
- 大自然の教えを説いたのが「仏教」
教外別伝は普勧坐禅儀撰述由来に引用されている
道元禅師は現在、多くの人に知られております。
そんな道元禅師は幼少期ながらに「人は生まれながらに仏であるのに、何故修行をしなければいけないのか」という疑問を抱え、そこから真の仏法を求めるために中国まで赴きました。
そして正師「如浄禅師」の下で「身心脱落」をされるんですね。
道元禅師が中国から戻られからも当時の日本仏教界の現状は御利益信仰でありました。
今もその名残は続いておりますね。
仏の名のもと祈祷をし、その祈祷によってご利益をもらいたいというのが今も変わらずある習慣ではないでしょうか。
そのような折に、「真実の仏法は命の全体を行じる事、真実の仏法は命の全体である。」というようなことを道元禅師が言っても、それは中々受け入れられませんでした。
また当時、日本には「坐禅」は既にあったのですが、「坐禅」と言ってもですね、瞑想や、テクニック、或いは、特殊な心境に到達するのを目的とする、そういう坐禅が横行していたんです。
つまり「全体」ではなく、悟りへの「手段」としてこの「坐禅」は始終してしまっていたんです。
しかし、そのような特殊な心境に到達するためのテクニックだったり、瞑想技術ではなかったんですね、道元禅師のおすすめになる「坐禅」は。
それでも当時の人からは中々受け入れられない。
その当時の葛藤を「普勧坐禅儀撰述由来」や「弁道話」に書き残しております。
この「普勧坐禅儀撰述由来」というのは「何故、普勧坐禅儀を書くことになったのか、その経緯を書いたもの」です。
そしてこの「普勧坐禅儀撰述由来」の一文の中に今回の「教外別伝」という言葉が出てくるんですね。
折角ですので、少し紹介したいと思います。
これは直訳すると、
教外別伝の正法眼蔵は、我が国ではこれまでにまだ聞いたことがない。
という意味になります。
この「教外別伝」というのはですね、「教外別伝、不立文字」という一つの禅の熟語が由来しております。
教外別伝、不立文字とは何か?
この「教外別伝、不立文字」とはどういうことでしょうか?
簡単に言って「教外別伝、不立文字」というのは、
仏法の真実は文字や文章で言い表すことができない
という意味になります。
本当に簡単に説明すると、このようになります。
「教外別伝、不立文字」とは「真実の仏法は文字や文章で言い表すことができない」ということですが、「大自然そのもの」、「仏法」そのものをこの「教外別伝、不立文字」というんですね。
さて道元禅師はよく「文章」の批判をされています。
しかし、道元禅師の教えの中では、この「文字というものをないがしろにしてはいけない」という教えもあるので、「文字」を批判もされるが、大切にもされておりました。
つまり「文字」というものに対して強いこだわりを持たれた人物だったんですね。
そして先程の、
というのは、
日本ではいまだかつてこのような正法眼蔵を聞いたことがない。
という意味でしたよね?
そもそも道元禅師よりはるか昔に、「我に正法眼蔵涅槃妙心あり。」と、お釈迦様が摩訶迦葉様に言われたことが事の始まりです。
そんな「教外別伝の正法眼蔵涅槃妙心」を日本では誰も聞いたことがない、というのです。
無理もありません、何故なら高祖様がおられた当時の仏教界というのは、みんなご利益仏教でありましから。
なので、
その正法眼蔵涅槃妙心という仏法の神髄を私は今中国から持ち帰り、説こうとしている。
そういった道元禅師の意気込みを表した一文となっております。
教外別伝を伝えた「達磨様」
「仏教の教え」というのは「薬の効能書き」のようなものです。
当時の仏教界にはこの薬の「効能書き」は沢山あったのですが、「薬」そのものがなかったのです。
しかしこの「教外別伝の正法眼蔵」はその薬そのものである、薬そのものが正法眼蔵であるという事なんですね。
いくら効能書きを読んだからといって病気は治りませんよね?
その薬を飲んではじめて病気が治るわけで、「教外別伝の正法眼蔵」とはそういう受け止め方に等しいんです。
さて中国においても、かの有名な三蔵法師によって中国に初めて仏教が伝えられました。
この三蔵法師によってお釈迦様やキリスト様が生まれる前後に中国にも仏教が伝えられたわけです。
それ以来三蔵法師が行ったり来たりして色々な仏教にまつわる書物を伝えるのですが、そのどれもが、先ほど説明した「薬の効能書き」のようなものばかりで、「生命の実物」もしくは、「薬そのもの」がまだ中国に到着していなかったんですね。
「薬の効能書き」はどんどんやって来ますが、「薬」そのものがいつまでたっても届かない。
しかしそんな時「仏法そのものに生き、生命の実物を自ら行じる人」が、初めて中国に仏法の神髄を伝えました。
その方の名前は「菩提達磨」様です。
そう、あのダルマさまですね。
達磨様がインドから中国に渡ったことによってお釈迦様から伝わる仏法の神髄、「正法眼蔵涅槃妙心」が伝えられた訳ですね。
達磨さんがやってきたことによって「仏法の実物がやってきた」。
達磨様はインドから中国へやってきてわけですが、その際特別な「講義」をしたわけでもなければ、「教本」や「お経」を伝えたわけでもありません。
まさに「教外別伝」ですね。
「達磨様」がやったことはただひたすらに、嵩山の少林寺に入って面壁九年の坐禅をしただけです。
ただそれだけですが、そのおかげで中国に「真の仏法」が浸透していくんです。
そしてその正伝の仏法が、中国において脈々と伝えられて、今回の道元禅師の下までやってくるんですね。
そのような過程を経て、道元禅師から「教外別伝」が日本に伝えられるんです。
そしてその時の思いをしるしたもので大変有名な言葉があります。
これは道元禅師が開かれた、福井県の大本山永平寺の到着所に今でも飾られた言葉になります。
意味といたしましては、
達磨様から伝えられた祖道、真実の教えを私は今度、東、日本に伝えた。
という意味になります。
私はお釈迦様、達磨様から続く教外別伝の仏法をこうして日本に持ってきた。
今こう読み返してみても、当時の道元禅師の強い思いが伝わってくるようです。
最後に
道元禅師が人生の疑問を感じ、中国へ修行の旅へ赴きました。そして「如浄禅師」と出会い、その如浄禅師の元で「身心脱落」をされ、何も持たず手ぶらで日本に帰ってきました。
それはつまり達磨様から、ひいてはお釈迦様から脈々と伝えられる、「教外別伝の正法眼蔵」を道元禅師が初めて我が朝(日本)に伝えた事を意味します。
今まで日本に伝わっていなかった、正法眼蔵涅槃妙心を道元禅師が初めて日本にお伝えになりました。
また「教外別伝、不立文字」とは
仏法の真実は文字や文章で言い表すことができない
ということですが、そんな至極困難な仏法というものを道元禅師がわが日本に伝えて下さったわけです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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