弁道話とは何か?道元禅師の葛藤

道元禅師がしるされた『弁道話』について本記事では解説していきます。

目次

弁道話にみる道元禅師の葛藤

本題に入っていく前に、少しだけ仏教の成り立ちについて触れておきたいと思います。

「道元禅師」がお生まれになったの鎌倉時代になります。

それまで特に、平安時代の仏教界というのは、貴族の為の仏教でありました。

またそれは「祈祷仏教」であった訳です。

この「祈祷仏教」というのは、仏教の名のもと様々な祈祷をしてみたり、病気平癒を願ったりして仏教を信仰することを指します。

勿論当時の人間としては「仏の力」を借りて、利益を求めたり、病気平癒を願う行為に走ってしまうのは仕方のないことだったろうと思う訳です。

その名残がこの鎌倉時代にも当然残っていたわけですから、当時の人々に道元禅師が「坐禅」をおすすめしたところで中々理解してもらえませんでした。

「命の全体を行じる」という「坐禅」は理解してもらえなかったんです。

道元禅師は幼少期ながらに、「人は生まれながらに仏であるのに、何故修行をしなければいけないのか。」という疑問を抱え、そこから真の仏法を求めるために中国まで赴きました。

仏道への探究心、仏とは何か?を真剣に考えるような青年だったわけです。

そして師匠の如浄禅師と出会い、「身心脱落」をしたんです。

「身心脱落」というのは「生命そのもの」です。

「生命そのもの」というのは「命の全体」を生きているということで、「脳みそ」だけで人間は生きているんじゃない、脳と体と、「身心一如」で生きているんだということに道元禅師は気付かされたんです。

そしてそれこそが仏教の一番の要となる部分であり、その要そのものが「坐禅」であるということに気づいたわけです。

この健康な「身体」があって初めて、「脳みそ」も活躍させてもらってるんだなと。

この「一つものの命」という真髄を道元禅師は身心脱落の経験を通して気付かされたわけです。

しかし当時の仏教界では、「どうか心願が成就しますように」とか、「戦争で勝ちますように」など全て「自分の思惑」を叶えるために仏教は利用され、信仰されていたのです。

そういう現世利益ばかり願った、ご利益信仰であったわけなんですね。

ただここで断っておきたいのは、決して現世利益を否定してるわけじゃないのです。そこは間違ってほしくはないんです。

現世利益は人間の「思い」によるもので合っても、それもまた尊く、当然尊重されてしかるべきものであるのです。

しかし、本当の「仏教」というのは「身心一如」です。

心だけにとらわれてしまうと、本来の仏教に反してしまうのです。

「脳」のそればかりではなくて、「全体を行じる」ということを第一に抑えていかなければ、その教えは単なる現世利益の新興宗教と変わりがありません。

そういう自分の「思惑」を願うのであれば、他の「宗教」でも何でもよいわけです。

別にこの仏祖正伝の仏法である、「坐禅」を行じる必要などありません。

しかし何せ世は現世利益。

当然、当時の仏教界にこのような道元禅師の考えは浸透するはずがありませんでした。

「弁道話」にみる道元禅師の嘆き

当時の方々にこの「道元禅師」の考えは全く浸透しなかったんですね。

「身心脱落」を経て、中国から日本に戻ってくるわけですが何よりも理解してもらえなかった。

当時のその嘆きが今回のテーマでもある『弁道話』という道元禅師がしるした書物の中にも出てまいります。

そもそもこの『弁道話』とは、道元禅師の主著でもある『正法眼蔵』における前説のようなお話で、高祖様が中国からお戻りになって、さあ今から真実の仏法を日本のみんなに広めようとする際、そこまでに至る様々な葛藤をしるしたものです。

ここから少しこの「弁道話」に関して考察を深めていきたいと思います。

臨済の家風

「いささか臨済の家風聞くぜんこうは祖師西和尚のじょうそくとして、ひとり無常の仏法正伝せりあえてゆはいのならぶべきにあらず。」

道元禅師は修行を志し、14歳で出家をし、その後比叡山で修行をされます。

しかし、どうも納得がいかない。

真実の仏法を求めたい。

そんな折、京都の「建仁寺」に禅宗というのものを栄西禅師が伝えられたという噂を聞き、その建仁寺まで赴きます。

しかし残念ながら栄西禅師は道元禅師がたずねられる前に、既にお亡くなりになってしまっておりましたので、その一番弟子である「明全和尚」のもとで禅の勉強をしたわけです。

そこで9年間「明全和尚」の側について仏法の、禅宗のいろはを学んだんですね。

そしてその間にここで言う「臨済宗の家風」というものを学んだという内容です。

そこでしっかりと「臨済宗」の家風を聞いたというわけなんですね。

一生参学の大事ここにおわりぬ。

「みをかさねて大宋国におもむき知識をりょうせつにとぶらい家風をおもんに聞くついにたいはくほうの浄禅師に参じて一生参学の大事ここにおわりぬ。」

その後さらに仏法の真髄を知るために、また本物の師匠と出会う為に、道元禅師は大宋国の「中国」へ修行へ赴くんですね。

そして中国に上陸してからは浙江省の五山十刹を訪ね歩いたり、禅宗の教えを色々聞いて回るんです。

しかしなかなか「この人こそ!」という人に出会えません。

5年間の中国修行期間のうち、その4年間は「正師」を探し求めるのに費やしたんです。

そして最後の1年でやっと「天童山の如浄禅師」に出会うことが出来、そこで「身心脱落」をすることができたんです。

「一生の参学の大事ここに終わりぬ。」

とありますが、これは「これで、一生の修行が全て終わってしまった。」という意味ではないんですね。

「坐禅」を「目的地に達する船」のように考えて、「ここまで来ることが出来たので目的は達せられた」という意味ではないのです。

むしろこれを機にますます、道元禅師は「坐禅」を盛んに行じられるようになるんですね。

自分の方向性がしっかり定まったんです。

真の仏法というのは、「現世利益」を願ったり、「自分の思い」に振り回された教えじゃなく、「全体を行じる」教えのことなんだなと、「如浄禅師」に一生の参学の大事を教えられるわけです。

そして「修行は一生終わらないものだ」と、「人の生きる道こそ修行だ」とそう気づかれたわけです。

日本仏教の歴史上、道元禅師のこの気付きがすごいことでした。

我々が持つ「坐禅」に対するイメージというのは、すっきりする爽やかなイメージがありますよね。

坐禅を組めば、無になれるだとか、悟りをひらけるだとか、爽やかな良い気持ちになれるというイメージを持っているはずです。

そういうスッキリ爽やかな気持ちになれるのが「悟り」のように感じてしまうんです。

しかし実際の「坐禅」はそうではありません。そのような思い、仮にモヤモヤしていたとしても、そのような思いを含め、我々は生きており、そのモヤモヤした思いを含めた姿が本来の姿でもあるわけです。

スッキリ爽やかな様子も、モヤモヤした様子も単なる人間の心理作用ですね。その違いに過ぎないわけです。どちらがどうということではないわけです。

「坐禅」はその生命の全体を行じることなんです。この世は全体です。私もその全体の一部であること、そしてどんな思いが込められていようと私の脳も体もその全体の一部であるということ。

その全体と共になること、大自然そのものになること、これが「坐禅」なのです。この世界の本来になりきること、この世界の本当の姿に帰ること。これが坐禅修行なのです。

それまで道元禅師自身も人間の「喜怒哀楽」を追求することが坐禅の目的なのかなと思っていたのかもしれません。

しかし、天童山で如浄禅師に出会ってですね、生命の全体を学ぶことを如浄禅師からはっきり教えてもらって、一生の参学の大事ここにおわりぬという所を気付くことができました。

「仏法の正体」に気付くことができたんです。

そのような意味なんですね。

この、

「一生の参学の大事ここに終わりぬ。」

というのは。

それからというもの、ますます「坐禅」を盛んに行じることが出来るようなるんです。

「坐禅」は目的達成のための「船や筏」のようではなく、「全体そのもの」ということに気付いたからです。

「坐禅」こそが全体、「坐禅」こそが全てということに気づいたんですね。「只管打坐」です。

「坐禅」こそが命の全体を行じる生き方なんだと、人の生きる道なんだとはっきりと知る事ができたんです。

それが分かって日本に安心して帰ってくることができた。

やりとりなしが、正伝の仏法の出発点

道元禅師

「我、叢林(そうりん)を経ること多からず、空手にして郷に帰る。眼横鼻直にして他に満せられず。」

道元禅師は中国から日本へ帰ってくる際にこうした言葉を残されます。

当時、弘法大師空海の「生来目録(しょうらいもくろく)」という書物もそうでありましたが、先進国を代表する中国にいったらお土産として何かしらの書物なり、手土産を日本に持って帰るのが習わしでありました。

そして旅の記録を目録にして、天皇にお見せするんですね。

私はこんなものを持ってきましたという風に天皇様にお見せするんです。

そのため中国に渡られた祖師方はみな、何かしらの書物を携えて「生来目録」というのを残しております。

しかし、道元禅師は「空手にして郷に帰る。」とあるように中国から手ぶらで帰ってきたんですね。

なんにも持ちものはなく、手ぶらで帰ってきた。

せっかく中国行ってきたのですから、何か持ってくればいいのに、なにも持ってこなかった。

何故道元禅師は「空手」で帰ってきたのでしょうか?

道端に咲いている花は誰かを喜ばせようと思って咲いている訳ではありません。

人間の思惑など通用しない命が大自然の正体であり、仏法の正体なんです。

その何もやりとりがない所を仏法の出発点にしようと考えたんです。

大自然こそが仏法だったのです。その大自然においてはなんの駆け引きもない。ただその道端に咲いている限りです。

天童山の如浄禅師の元で「身心脱落」をしたのに、手ぶらで帰ってきた道元禅師。

長い修行期間も無駄なように思えてきます。

しかし大自然とは「なんにも足さない。なんにも減らない。」常にそこにある。常にありのままがそこでは展開している。常に全てがそこには展開している。

中国へ行く前も行った後も何も変わらず「ありのまま」だった訳です。

つまり「身心脱落」をする前もしたあとも「ありのまま。」

だから道元禅師は「空手」で帰って来たんですね。

「ありのままを持って帰ってきた」というべきでしょうか。

このような経緯があるんです。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次