道元禅師がおすすめになる「坐禅」とは一体どういったものでしょうか。
本記事では道元禅師がおすすめになる「坐禅」とはどういったものか解説したいきます。
道元禅師のおすすめになる坐禅とは
本題に入る前にまず始めに、道元禅師は一体どういった人物なのかを見ていきたいと思います。
道元禅師は「正伝の坐禅」を初めて日本に伝えた方です。
そしてその「正伝の坐禅」においてその「坐禅」の規則や、心構えを記した書物が『普勧坐禅儀』になります。
あなたももしかしたら一度は耳にしたことがあるかもしれませんね。
普く様々な人におすすめになる坐禅
さてこの『普勧坐禅儀』には、「普勧」という字が入っておりますね?
「普く勧める」という意味の「普勧」になりますので、道元禅師がおすすめになる「坐禅」というのは誰にでも勧められる坐禅であるという事がまずこれで分かります。
そもそも「坐禅」というと特殊な人間だけがやるもの、修行者だけが行う「行」のような気がしてまいります。
しかしこの道元禅師が言う坐禅は「普勧」の「坐禅」であります。
だれもが行える「坐禅」であるというのです。
そしてその為の坐禅儀だから「普勧坐禅儀」であるというのです。
信仰を持った者でも、そうでなくても、また興味がある者でも、そうでない者でも。
誰でも「坐禅」をすることが出来る。
ですから「普勧」というわけなんですね。
ある特殊な人達だけの「坐禅」であるのなら、それは『普勧坐禅儀』と呼べないですよね?
少しここで面白い話をご紹介しましょう。
昔、川上哲治(かわかみてつはる)というプロ野球選手がいました。
その川上選手は現役時代より、その卓越した打撃の技術から、「打撃の神様」の異名で呼ばれ、日本プロ野球選手史上初の2000本安打を達成した人でもあります。
その川上選手は「ピッチャーの投げる球がみんな止まって見えた、だから容易に打てた」というんですね。
この川上選手のようにそういった特殊な、凄い才能を持って生まれた人だけにすすめる「坐禅」であればそれは「普勧」とは呼べないわけです。
しかし「普勧」というのは頭の良い山田さん、容量の悪い田中さん、足の遅い鈴木さん、顔の良い高橋さん、今あなたの隣に今いる人を含め、この世の全員に向けること、それが「普勧」という意味なんです。
道元禅師がおすすめになる「坐禅」は、
普く人達全員に勧められる「坐禅」。
このことをまずはきちんと抑える必要があります。
面壁の坐禅
また道元禅師がおすすめになる「坐禅」、もとより曹洞宗の「坐禅」というのは「面壁の坐禅」です。
つまり壁に向かって坐る、「坐禅」なんですね。
そもそもインドにおいてこの「坐禅」は元より「仏教」というものは興りました。
その「仏教」はインドにおいてお釈迦様から始まったわけですが、その後達磨様によってインドから中国へ正伝の仏法は伝えられたんですね。
そのインドから中国に正伝の仏法を伝えた達磨様がこの「面壁の坐禅」を行っていたことに由来しているんですね。
つまりこの「面壁の坐禅」が「始まりの坐禅」で、「正伝の坐禅」とも言えるわけです。
しかしその「面壁の坐禅」に対し「公案禅」と呼ばれるものがあります。
以下でも言っておりますが、この「公案禅」とは例えるなら「坐禅」を悟り到達への手段として位置づけたものです。
「公案」とは、坐禅中に両者が向き合うように坐り合い、その両者で激しい問答を繰り広げ、悟りの境地に達成するという修行法。これは日本における禅宗の内、曹洞宗と双璧を成す「臨済宗」の修行法です。曹洞宗が壁に向かって静かに坐禅(黙照禅)するのに対して、臨済宗の「公案禅」は両者が向き合うように坐ることが特徴的です。
これは言い方を変えれば「悟りへ到達したい者だけ」がこの「坐禅」をするということでもあり、道元禅師のオススメになる「坐禅」とは少し違いますね。
繰り返しになりますが、道元禅師がおすすめになる「坐禅」はそういう特殊な方々の坐禅ではないですね。
それは「誰でも行じられる坐禅。」であったはずです。
高祖様はこの「誰でも行じられる」ということを強調する為に、わざわざ坐禅儀の上に「普勧」と付け、『普勧坐禅儀』と名付けたわけです。
道元禅師の坐禅をわかりやすく見ていきます。
ここでもう少し具体的に道元禅師がおすすめになる「坐禅」とはどういうものなのか?を見ていきたいと思います。
道元禅師がおすすめになる「坐禅」は「普勧=普く勧める坐禅」です。
これは一体どういうことなのでしょうか?
ここでは私の実際のエピソードを交えて解説していきたいと思います。
これは私がある友人のお寺に遊びに行った時の話です。
あれは確か、高校生1年生くらいだったと思います。
その友人のお寺で「坐禅合宿」があるというので、そのお寺に泊まりにいったんですね。
それはもうかなり山奥のお寺でした。
遊びに行った友人たちみんなで「坐禅」をして眠りにつくわけです。
そして朝起きて、また「坐禅」をするんですね。
そしてその早朝に坐禅をしていた時、友人の父親であり、そのお寺の住職がその「坐禅」の中である提唱をされたんです。
その中で、
「羅籠未だ至らず。(らろういまだいたらず)」
とおっしゃるんですね。
この「羅籠未だ至らず」とはどういうことなのでしょうか?
「羅(ら)」は、鳥かごを意味し、「籠(ろう)」は魚をとらえるかごを意味します。
なので「らろう」はどちらもカゴを意味するんですね。
要するにその住職は、
魚を捕る籠や、鳥を捕る籠などで、捕まえることが出来ない「命」を我々は生きているんだ。
という風な内容をおっしゃるわけなんですね。
そしてここでいう「羅籠(らろう)」というのは、「人間の価値判断」を表しているんですね。
つまり我々の「命」は、人間の価値判断や思惑、人間の寸法によって捕まえることが出来ないという事なんです。
そこで今回の道元禅師のおすすめになる「坐禅」について話を戻しましょう。
本来「大自然」というのはそういうものですよね?
人間の価値判断や思惑、人間の寸法によって捕まえることはとてもできません。
人間の常識など大自然には通用しないし、常にその常識を上回ってきます。
そしてその大自然と同様、我々の命も本来そういうものなんです。
そのような人間の思惑は一切入り込むことが出来ない命を私もあなたも生きているんです。
幼いながらそれまで私は「坐禅」をすれば、精神が研ぎ澄まされて、何か凄い必殺技でも使えるようになるんじゃないかと思っていたんですね。
しかしそういう私を見越してか、友人の父であり、そのお寺の住職は、
お前たちの「命」というのは誰一人例外なく、「羅籠(らろう)未だ至らず。」そういう「命」を生きているんだぞ。
という話をされたんですね。
当時の私たちもそうですが、世の中の人間というのは皆、その「羅籠の中」へ知らず知らずのうちに自分から入っていってしまっているんですね。
みんな自分だけの価値判断を持ち、またどこかで他人から評価をされたり、価値判断を付けられながら生きているんです。
また会社では給料で差を付けられたり、学校では成績で差をつけられたりと、人間社会においてはほとんどこうした価値判断によって評価がされてしまいます。
しかし我々の「命」、我々が生きている「生命の実物」というのは「羅籠(らろう)」に捕らえられるような余地は一切ないんだぞというような事を当時教えたもらえたんですね。
そして道元禅師の「坐禅」というのはまさにこの「羅籠未だ至らず」の「坐禅」なんです。
ただひたすらに「生命の実物」を行じているんです。
頭をよくするために「坐禅」をするのではない。
悟りをえるために「坐禅」をするのではない。
ただひたすらに「生命の実物」を行じるから「正伝の坐禅」なんです。
大自然そのものを行じているんです。
我々の命というのは「人間の価値観」や「思い」が、「物差し」が、「寸法」が「評価」が、一切至らないものです。
そして我々の命そのものがこの「坐禅」だということをここでは述べておきたいんですね。
少し暑苦しい話になってしまいましたが、過去の私のエピソードを少しだけご紹介しました。
道元禅師の坐禅は「海」そのもの。
また今述べてきた話を今度は「海」に例えて解説していきましょう。
「海」には「波」がありますね?
本来であれば「波」というのは「海」の一部分であり、「海」そのものでもあるんです。
しかしこの「海全体」を我々の人間としたとき、我々は「海」ではなく「波」の部分だけで生きているんです。
というのも、ここで言う「波」というのは、「怒り」とか「嬉しい」、「悲しい」などの感情ですね。
そしてその感情に振り回されているのが我々人間の現状ではありませんか?
しかし本来我々の命というのは「海」全体のはずですよね?
この「感情の波」をつかさどるものに「脳」があって、その「脳」をつかさどるものに「心臓」や「足」がある。
それなのに「脳」以外はおろそかにされてしまいますよね?
我々が今こうして生かされている「命」というものは「海そのもの」です。
だからこそ道元禅師は海の表面だけでなく、海「全体」、「海そのもの」をこの「坐禅」で行じようというんですね。
なぜなら「命」というのは「全体」だからです。
我々の命というのは全体として生きているからです。
海の量は増えもしない、減りもしない
宮城県に「花巻市」という場所があります。
「花巻市」はあの宮沢賢治が活躍したところであり、生まれ在所でもあります。
その「花巻市」で宮沢賢治の生誕100周年の法要があって私も参加したことがありました。
その法要が終わり帰路につこうとしたとき、台風が来ておりましたので、無理をせずその日は松島の温泉に泊まらせていただきました。
そのホテルの名前は忘れてしまいましたが、波の見えるすぐ近くのホテルでした。
そのホテルに私の師匠でもある父と、父の御友人のお坊様方そして私を含む4、5人で泊まったんですね。
翌朝、4時頃に起きて一番風呂に入った時ですね、前日は台風の影響もあり、怒涛の波が露天風呂のすぐそこまで、攻めてきていたんですね。
暴れ狂う波を見て驚いたのですが、私は栃木県出身なので海を見る機会というのがあまりありませんでしたので、その怒涛の波を見て大変驚いたんです。
しかし前日の嵐のような天候が打って変わり、翌朝4時頃行ってみたらもう大嵐も過ぎ去っており、海も平穏を取り戻しており、穏やかな凪に変わっておりました。
本当に鏡のように綺麗に広がる海原で前日とは比べものにならない程、静かな「波」になっておりました。
そしたら師匠の御友人である一人のお坊様が次のように言われたのが今でも印象に残っております。
「海」というのは生まれてかれこれ、何十億年もの間「全体の量」、つまり「全体の水量」というのは一つも変わってないんだよねぇ。
と言われたんですね。
前日はあんなに怒涛の波で、狂ったかのような嵐の中、すぐそこまで来ていた凄まじい波。
翌日になると穏やかな「凪」の姿に変わっている。我々のような一般寺からすると、そのあまりの変化に、波が減ったような気がするし、増えたような気もしてしまいます。
しかし「海全体の水の量」というのは、増えもしなければ減りもしません。
何十億年の間、地球上の水の量は不変なんだ、ということをそのお坊様はおっしゃったんですね。
この二日間の波の姿を見て思ったのは、我々は見た目によって、つまりこの「波の状態」で振り回されているんだなと気付かされた訳です。
海全体の水量について今まで考えた事もなかったんですね。
しかしこの話にもあるように「海の量というのは一定」であるし、全体の量というのは不変であるということに気づくことができたんです。
だからこそ道元禅師はだれにとっても「今、ここ」が「全体」であるといわれるわけで、「今、ここの坐禅」が「海そのもの」であると言われるわけなんです。
人間は感覚の生き物
我々人間は、その波の表情に振り回されてるのが現状です。
しかし道元禅師がおっしゃるのは、波の表情に振り回されず、「海の全体」を見てくださいということです。全体を行じていくのがこの「坐禅」ですよ、という事です。
そうなると、例えば「優秀な能力のある人」というのも、この波の「大波み」のようなものだし、「能力のない」私みたいなの人は海で言うと「小波」のようなものです。
しかしこの「大波」、「小波」を海全体から見たならば、そこには評価の付け様がありません。
そもそも我々が生きているこの「世界」は何ら評価のできないものです。
そしてその評価できない「海全体」とでも言える「坐禅」について述べたのが、道元禅師の「普勧坐禅儀」です。
この「大波」、「小波」の海の表情に始終しているのが我々の人生です。
これを他の表現を使うと、「声色(しょうしき)」というんですね。
この「声色(しょうしき)」というのは見たり聞いたりするという意味です。
我々が生まれながらに持ち合わせている聞いたり、見たりする感覚、またはその場の雰囲気を肌で感じ取る感覚もそうですね。
我々はこの「感覚」というものに非常に騙されやすい。
我々は感覚の生き物もあります。その場のムードに騙されやすいと言ってもいいかもしれません。
ここにある例え話があります。
私の友人に、蒲団の会社を営む経営者がいます。その方が一度、ムートンの蒲団セットを私に送ってくれたときがありました。
それまで、普通の布団で眠っていた私は、ムートン蒲団の寝心地の良さに驚きました。
また、「永平寺」を代表とする禅の修行道場では、「柏蒲団」と呼ばれる、白い敷蒲団を「柏餅」のように丸めて自分は「あんこ」のようにその敷蒲団の中に身をくるめて眠る。冬の寒い日は毛布もありませんし、そんな寝方なのでとても寒く、何しろ寝心地が悪いです。
しかし、「ムートン蒲団」で寝ようが、「柏蒲団」で寝ようが「熟睡」という全体の地盤で見たならば、その両者にはなんら差がりません。
確かに雰囲気という感覚の話で言えば、人間は感覚の生き物ですから、柏蒲団で寝るのと、ムートン布団で寝るのとでは行って帰ってくるほど違うかもしれないません。
しかし、その雰囲気というのは布団に入り、熟睡するまでの話です。
我々はこの「熟睡の地盤で物を考え直してみる」というのも必要です。
つまり「全体」を見るという事です。
全体を見るという事が人間は苦手で、先ほど言いましたが「声色(しょうしき)」、つまり感覚に振り回されているのが我々の日常です。
そこを高祖様は普く様々な人に、「普勧坐禅儀」を通して
という事を盛んにおっしゃっております。
道元禅師の坐禅を学びましょう。
今回、私の過去のエピソードや人間の感情論を踏まえながら道元禅師の「坐禅」とは何かについて解説してきました。
我々は海に例えると「波」の部分だけに振り回されて始終しているのが現状です。
しかし本来我々の命というのは「海全体」ですよね?
だから他人の価値判断や思惑に支配されなくていいとおっしゃるのです。
道元禅師がそこまで我々に「坐禅」をすすめられるのは、そうした「本来の命」のあり方に気づいてほしいからであったのかもしれません。
以下は道元禅師の『普勧坐禅儀』、学びの入り口となっております。
是非以下よりお越しください。
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