今日はこんな話をしてみたいと思います。しかしそうは言っても、これに対して何か別に答えがあるのだとしたら、これまでの人類のやってきたこととか、いま置かれた生活の基盤というものが根底から崩れてしまいそうですよね。
結論、そこに別に答えがあるわけではありません。我々は食わなければいけない。食うために稼がなければいけない。それだけです。
別の答えはないです。食べなければ死んでしまうから食べる。そして食べるために稼ぐ。これだけなんですね。
しかしもう少しこのことについて考えてみませんか?
食えなんだら食うな
「食えなんだら食うな」という本があります。
私も大好きな本です。関大徹さんというお坊さんが執筆した本です。
そこの冒頭である若い修行僧が食うためにはどうしたらいいか、実家は貧しい寺で食っていくためにはなんとかせにゃならない。妻子も養う必要がある。それでそうした質問をなげかける節があるんですね。その質問に「食えなんだら食うな」と関和尚が答えるんです。
「食えないなら食えない」それだけだし、それでいいということでしょうか。その真意はわかりません。
なんだそりゃ、それはもう極論じゃないかと初めて読んだ時思いましたが笑。
しかし妙にスッキリしたのを覚えております。
またあるいはですね、これは実体験なのですがいつだったか一人で住んでいた東京墨田区の、そこの近くにあった蕎麦屋には店主のこだわりなのか、人生の格言的なものが毎回お店の窓にはられているんですね。
それでいつぞやか「大丈夫、死ぬまで生きられる」という張り紙がされていたことがあったんです。その時衝撃を受けたんですね。
確かに本当だ、と。どうせ死ぬまでは生きられるんだ、安心だ。そんな安易な受け止めたかをしたのを覚えております。
我々の悩み、それは結局は「食べるために必要なお金を稼ぐこと」に関してです。それがほぼ全てです。
でも誰も決めていないんです。働けなんて誰もいってないんです。腹が減ると辛いから、どうしようもないから、だから必死に働いてお金を稼いで食うわけです。
しかし飢え死にしたとしても大丈夫。その時は死ぬだけだから大丈夫。ということなんですよ。
それに「死」も案外悪くないよと、そういうことなんですね。
というのも「死」がありません。そもそも我々は生まれてもいません。今私たちが思っているあの「死」は死ではないんです。例えば「生」があれば「死」はある。しかし世界は2つにわかれていないんですね。「生」も「死」もないんです。
私の命というのはどこからどこまでが私の命でしょうか?それが定義できれば「生」も存在するだろうし「死」も存在するかもしれませんが。
元々は母と繋がっていた。もともとは「母」だったわけです。それが臍の緒を切った途端、母と離れ離れになるということでしょうか?
またその母も元々はおばあちゃんと繋がっていた。
あるいは私が今誰かとすれ違った時、肩をぶつけたとする。お互い痛い思いをしますね。それは双方の命に境界線がないからです。つまり「命」に境界がないからです。あなたは私だからです。
またあるいはこの今生命を維持している呼吸においても植物が生成してくれるから行うことができる。
そこでいうと植物が私というわけなんです。物事に線引きはなく、始まりも終わりもありません。「生」も「死」もないのです。世界は自分しかいない、あるいは世界に自分などない、どちらかの言い方となるわけです。
繰り返しとなりますがこのことを達磨様は「諸法無我」と言われました。
全てが丸ごと全てなんです。全ては全て。地球上の過去何千年前にあったあれこれも、今もこうして形を変えて目の前にあって、これからもあり続ける。
仮に地球に始まりというものがあって、その始まりもそもそも何もないところから始まっている、無=全てなんです。存在=無なんです。
今こうして「ある」と思っている自分だったり、缶コーヒー。
その仮定でいうと、それらには元となる「何か」があるはずです。私でいえば両親だったり、缶コーヒーであれば「アルミ」や「スチール」なんかがですね。
しかしそんなものはない。物事は2つに分かれないから、その大元もないし、そこには境界線がない。いつからか物事はそのように2つに分けられてしまった。
それは言葉のせいです。概念のせいです。
概念や言葉は非常に便利です。物事を理解するという意味では。しかし我々の概念や言葉というのは真実とは一切関係がなかったんですね。生も死もこうした概念や言葉によって作られた産物なのです。
またそこからさらに大元の話というところでいうと、全ての大元は宇宙であって、その宇宙は137億年前、何もないところから生まれたと言います。
そう、無からあらゆる存在は始まっているんです。無=存在とはこのことなんですね。
しかしこれはまた矛盾で、そもそもビッグバン(そんなものがあったとして)が起こる時点で何もないというのは嘘なんです。つまり常に存在し続けているんですね。なくなりもしないんです。全ては。全てが丸ごと全てなんです。全ては全て。終わりも始まりもない。なくなりもしないし消えもしない。すべては今ここに私として存在しているのです。
生と死もない。今こうして机でコーヒーを飲んでいる私は過去137億年前どころか、それよりももっと前から常に存在し続けており、これからも存在し続けていくんです。決してなくならないんです。
話がかなりややこしくなってきましたので、一旦ここら辺にしておきます。
要するにこの世の全ては私です。物事は2つにわかれない。ここからここまでが私の命という線引き、ここからここまでが「死」で「生」であるという線引きができないのです。
だからある意味絶対的な安心の世界に、救いのみの世界に生きている我々なのです。そんな中「死ぬのが嫌だ」とか、生きるのが辛いとか言っているのがそもそもお門違いなんです。
今回の「食えないなら食うな」とか、「大丈夫、死ぬまで生きられる」とかは要するにこの救いのみの世界なのだから、何があっても大丈夫。死んでも大丈夫。そもそも死ねないから。死ねるものなら死んでみろと。
そう言ったことを言っているのだと勝手に解釈しているんですね。
要するに安心して生きていけと。
あるいは人間様の勝手にさせておけと。
田中くんの好きなようにさせておけと。
「食えないなら食うな」。もっともがけ、もっと苦しめ、いやいやもっと気楽に。こういうことなのかなと。
人間関係に苦しむのをなんとかできないか
しかしなかなかそう簡単に割り切ることはできません。
せっかく生まれてきたからにはもっと人生を楽しみたい。できるだけ長くいきたい。そう考えるじゃないですか。
人間だもの。
それに死ぬのが怖い。だから今日も明日もそうならないように飯を食う。そういった恐れも私の場合はあります。
我々はやっぱり食べたい、やっぱり死にたくない。そう思います。死はないなんて嘘ですからね。確実に死はやってくるわけです。
少しでも生きていきたい、少しでも楽しい思いをしたい。だから必死になって稼ぐ。
それに空腹は本当に辛いです。周りが見えなくなります。人に優しくすることも、余裕もなくなります。何よりもそのままにしておくと飢え死にします。確実に。
我々は死なないとか、死ねないとか、その後もあり続けるとか、そんなのは本当にどうでもいい。今この空腹をなんとかせにゃならない。
他の動物もこのように空腹を満たすためにひたむきに生きています。
だから我々もそれでいい、難しいことは考えずに、ただ今日の飯の心配だけをしてればいい。
人間の煩わしさは何かにつけて疑問に思ったり、迷ったりしてしまう点にあります。
死はないとか、絶対的な安心の世界に生きているとか、そのような真実がちゃんとあるのに、「死んだらどうなるの?」とか「お金を稼ぐためにはどうすればいいの?」とかそういった疑問から一生逃れることができないのです。
「空腹」。これがあまりにも辛いから、だから食う。そして食うために稼ぐ。他は知らん。我々の人生はそれだけのことなのかもしれない。
一方でそのために金を稼いだ。その間は確かに食えるのかもしれない。しかしそこで人間関係に悩む。そうこうしている間にあっという一度きりの人生が終わってしまう。
それだと勿体無いですよね。
とはいえ何をするのにもお金が必要。だから我々は葛藤するんですね。
稼ぐことをリタイアした人たち、それがあのホームレスです。
なので稼ぐことが嫌な人はホームレスに成り下がって、毎日ゴミ箱を漁るしか方法はない。
でもそれは嫌ですね。
寒い中それをやる。絶対嫌です。
難しいですよね。食えないなら食うな。これはなかなかの難題です。
しかし、明日もしかしたら死ぬかもしれない。もし明日までしか生きることができないとわかっていたら、今すぐにでも仕事をやめて、好きなことをするでしょう。
今必死になって食うために稼いでいる仕事もお金もどうでもいい気がしてくる。
本来そのような明日をもしれない命なのに、いつ腹を満たすのかもわからないお金のために今というとても大切な時間を殺しているのもまた事実です。
そして何よりも大切な「今」を蔑ろにしてしまっているのも事実です。
確かにそう考えると本当の命を殺しているのはどちらなんだろうと思わされるわけです。
確かにホームレスは嫌だけれど、狭い人間社会というカテゴリの中だけで頭を悩ませている自分も同じくらいみっともないなと思うわけです。
であれば、食えないなら食うな、そのように割り切っていっそのこと飢え死にしてしまうか、ホームレスとして生きていくのも悪くないのではないかと思うわけです。
しかもいつかどうせ死ぬなら、なぜ食うんです?やりたいこともないのに。やるべきこともないのに。なぜあのホームレスたちは生きているんです?なんとか必死に食べ物を探すんです?
どうせ死ぬんだから、そんなみっともないことしてないで、潔く飢え死にしたらよろしい。そう思ったりもするんです。
彼らにはそういった覚悟はないんですね。
私は彼らを擁護する気は全くありません。一方で邪険にも扱いません。
それはそれ、一つの自然のあり方です。
なぜ生きるのか?我々の生きる目的
すみません、何が言いたいのかわからないコラムとなってしまいました。
本題です。
我々が生まれてきた意味。そこがわかれば、必死で食います。なんとか必死に稼いで、その目的を果たそうとします。
疑問も何も生まれない。毎日の生活が意気揚々としてくる。
そこがわからないから、生きる意味がわからない、稼ぐ意味がわからない、食う意味がわからないんです。そして弱々しく世間に支配され、人生を終えてしまうんです。
また支配している側も実は何も成し遂げられなかったことに気づき、死ぬ間際で後悔するんです。
大切なのは金を稼ぐことではありません。誰かを従わせることでも、日本を背負って立つ存在になることでも、また温暖化を止め世界を救うことでもないのです。
大切なのは我々の使命をまっとうすることです。そしてそのために毎日ありがたく食事をいただくことです。あるいはそのためのお金をそれぞれ必要に応じて稼ぐことです。
それがわかればお金を稼ぐことも、必死で働くことも嫌ではなくなります。また必要な食費というのも人それぞれなので、適度の稼ぎ方ができるわけです。
不要なお金を稼ぐ必要も不要な食事をとることもなくなり、世界中の人々が潤うはずです。(理想論です)
そこがわからないから、なんのために食う必要があるのかわからないから、なんのために金を稼ぐ必要があるのかわからないから、人生が辛いんです。
その目的というのがお馴染みの「坐禅」です。
坐禅がなぜそれに該当するのかについては以下の記事をご参考に。
我々は仏です。その仏の使命は仏行です。その仏行が「坐禅」なのです。
坐禅をするために我々は食うんです。腹を満たし、明日も生きていかなければいけないんです。
稼がなければいけないんです。生きていかなければいけないんです。
未来?過去?はたまた真実?そんなものは全く重要ではありません。
今日も明日もやるべきことをやる。これだけです。そしてそのやるべきことをやるために食う。そのために稼ぐ。
やるべきことをやるという感覚、おそらく多くの方が出会えずに死んでしまうはずです。
それに出会えた時本当に楽しく、幸せで、しかもみんなが幸せになれます。
なぜなら自分が自分を自分する「坐禅」はあなたにしかできないからです。
そしてこの世界はあなたのみなので、あなたがそのやるべきことをやってくれさえすればいい。それだけで世界は救われます。あなたも救われます。
サラリーマンや一般人はなかなかこの「坐禅」だけの生活というのは難しく、時には仕事で辛い思いもすることとなるでしょう。
仕方なくそこにいるしかないという人も多いことでしょう。その際はどうかこの目的を明日からの活力源としてください。
人生本当はもっと気楽でいいんです。明日食べられるお金さえあればいいんです。そして明日坐禅ができればそれだけでいいんです。人は皆そんな感じでいいんです。
子供も産めます。だって坐禅だけですもん。高い学費も、高い洋服もピアノもいらないんですよ。世界中がこのことに気づけばもっと人間は自由になれるはずです。
生きる意味、食う意味、稼ぐ意味、これが分かった時、我々の人生は一気に華やかになります。
腹が減ったから食う。これだけです。
しかしなぜ生きるのか?そのような疑問も当然湧いてしまう我々人間ですから、その問いに対する私なりの答えを提示してみました。
気分を害された方がいらしたら誠に申し訳ありません。そのような内容の悪いコラムでした。
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