地位や名誉とは縁遠い山奥の地で、多くの弟子達と坐禅修行に励み、自身の生涯を「坐禅」に捧げてこられた道元禅師。
そして真実の追求のために、ただひたすら「坐禅」に打ち込む。
つまりその「真実」にひたすら打ち込める環境こそ、道元禅師にとっては地位や名誉よりも求めていたことでした。
今回はそんな道元禅師が求められた真実の道と、位の高い高僧にだけ与えられる「紫の衣」にまつわるエピソードをご紹介していきます。
こんにちは「harusuke」と申します。
2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。
さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。
それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?
ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。
三度目にしてようやく受け取った紫の衣
道元禅師は、当時天皇をされておりました後嵯峨天皇(1220-1272年)から、「紫の衣」を頂戴する機会が合計三度あったといわれております。
当時「紫の衣」というのは、名誉の最高位であり、「高僧」として認められた者のみしか天皇からもらうことが許されておりませんした。
その「紫の衣」をもらうことは、いわば「お墨付き」もらったようなものであります。
我々凡夫の頭からすれば、そのような「紫の衣」をいただき、天皇からお墨付きをもらえたということは大変名誉に感じることでしょう。
同時に「自分の仏法」が全国に認められたというような思いもしてしまうわけであります。
そんな中、道元禅師はこの後嵯峨天皇から「紫衣(しえ・・紫の衣の事)」を頂く機会が三度もあったと言われているんですね。
そして三度目にしてようやくその「紫衣」を頂戴したと言われております。
何故、三度目にしてようやくお受けになられたかと言いますと、恐らく道元禅師自身が「久我家」という皇族と縁の深い方お生まれであったため、周りの者に迷惑をかけまいと考慮されてやむを得ず頂戴したのだと推察されます。
生涯身に纏う事のなかった「紫の衣」
昔は僧侶も世間の「官職」として組み込まれていたので、最高の権威の象徴としてこの「紫の衣」が身に付けるのが相応しいという習わしがありました。
現代でもその名残で、「紫衣」は「高僧」の象徴と言われております。
しかし「紫衣」を頂戴した道元禅師は生涯その「紫の衣」を身に着ける事がありませんでした。
何故でしょうか?
何故なら道元禅師にとって「紫衣」は所詮、権威の象徴に過ぎず、またそれは単なる概念にしか過ぎなかったため「実力」ではないと感じていたからでしょう。
道元禅師はいつも「実物」、そして「実力」を求めておられました。
目に見えない権力を求められたわけではないのですね。
目に見える「実力」というのは自我の延長でもなければ「概念」でもない。
つまり「真実」であったわけです。
そしてそこにしっかりと「お坐り」になる「坐禅」こそ、「真の実力」であったわけです。
誰よりも真なる道を求めてひたすらに「坐り続ける」。
それこそ人間の評価されるべき、本当の「実力」であります。
道元禅師はその「実力」をもってして「布教」をされました。
いまで言う布教とは訳が違いますよね。
何故なら布教を行う道元禅師は説法をするわけでもなく、大義名分を掲げる訳でもない。
ただひたすらに「坐る」ことで布教を行ったわけですから。
その「真実」をひたすらに布教されていったんですね。
大自然の「猿」や「鶴」に笑われてしまう
道元禅師はこの「紫衣」を天皇から頂戴した折に、次のような「偈本」を残されております。
永平の谷、浅しと雖も勅命重きこと重々かえって猿鶴に笑わる紫衣の道老翁
どういうことでしょうか?
つまり、道元禅師は次のように言われるんですね。
後嵯峨天皇から頂戴した「紫衣」、非常に勅命であり重たいものである。勿論それは私も存じておる。しかしそのような「権力」に認められて喜んでいるようでは、大自然に生きている猿や鶴に笑われてしまうし、私のような年老いた爺さんが紫の衣を身に纏っておったら、余計に大自然に笑われてしまうだろう。
と言われるんですね。
大自然はみんな実力で生きております。
概念や権力をふりかざして生きている生物は誰もいないですよね?
猿も、鶴も、昆虫も、トナカイも、きつねも、ライオン、猫も。
本来みんな生きるために必死です。
なので「大自然の生き方」、及び「真実の生き方」を追求する立場であるのに、そのような権力を誇示した「紫の衣」などを身に着けたら「猿」や「鶴」に笑われてしまうではないか、という意味の偈本を残さたというわけです。
道元禅師は常に
「大自然の生き方」つまり、「真実の生き方」とは何か?
を追求されておりました。。
なので一生涯その「紫の衣」を身に纏う事は無かったと言われております。
常に「実物の世界を行じること」、「真実の生き方」を徹しておられた道元禅師。
「坐禅」は、その「実物」そのものであります。
「坐禅」をするうえでは「権利」や「概念」は何一つ通用せず、ただ「大自然を行じている」、宇宙一杯のありのままの自然の姿を行じておるのです。
人間の頼りどころ
さて、生命の実物そのものであるこの「坐禅」。
その「真実」を追求された方というのは過去にこの道元禅師以外にも沢山おりました。
そしてある人はこの「真実」及び「坐禅」のことを「独坐大雄法」と言った。
たった一人、大自然の中に坐っている姿をこの「独坐大雄法」と言いますが、「坐禅」はこの「独坐大雄法」であると言ったんですね。
つまり、大自然を生きている動物たちのように「権力」も必要なければ、他人からの「認知」も必要ない。
人間が「実力」で生きた世界、人間が「成仏」した姿の事であるから「独坐大雄法」だと言ったのです。
そもそも我々が生きる上で獲得した、「自我意識」。
実物から離れ、「概念」で生き方を構成し、その概念構成によって今日の様な文明社会を築きあげてきました。
もちろんあこれは非常に大切な能力であるわけで、決して否定はするわけではありません。
しかし同時に踏まえなければいけないのは、「概念」というのは人間の頭の中だけしか存在する事ができないということです。
動物たちに「概念」は存在しますか?
権力の象徴である「紫の衣」など身に纏う者が果たしておりますか?
いないですよね。
「概念」や「権力」は人間の頭の中だけに存在するものであり、「実物」ではありません。
ですから非常に不安定であり、危険を伴うのです。
つまりこの「概念」とは、テレビで見ているような「バーチャル世界」と同じようなもので、予想がはずれたり、目標が達成できなかったり、理由も無く理不尽であったりする訳です。
そういう「バーチャル世界」があたかも真実の世界だと思い込んでいるのですから、人間がいつまでも安心できないのは当然なのです。
何故なら「概念」は存在しないからです。
どんなに頑張ったところでこの「概念」には寄りかかりようがないんですね。
そこで、是非考え方を反転してみましょう。
人間にとって「概念」とは「構築」するものではなく「手放していく」ものなのです。
我々がその「概念」を手放していく。
そして「坐禅」を通し、確かな実物の世界を行じる。
そうやって考えると、我々にはこの「自分と言う生命の実物」というまぎれもない「頼りどころ」があることがわかるんです。
ですから道元禅師は「坐禅」をおすすめになるわけで、人の真実「生き方」としいて「坐禅」をおすすめになるわであります。
大自然に笑われない為に
それでも昔から人間と言うのは「権力」や「概念」に囚われて生きております。
現代でもそれは変わらずテレビの向こう側の世界、「バーチャル世界」が真実だと思っている人も多いはずです。
しかし繰り返しになりますが、「概念」や「権力」で構築された世界はとても不安定であり、危険です。
何故ならそれは目に見えず、存在しないものだからです。
そんな危険な世界と隣合わせの人の生き方を我々はいつも行っております。
そこには絶対的な安心は生まれません。
どんなにお金に恵まれ、地位に恵まれたとしてもそれは人の本当の「安心」ではないのです。
道元禅師は人の真実の生き方とはなにか?
「猿」や「鶴」に笑われないような「大自然の生き方」とは何か?
「人が真実にいきること」や、「人の本当の安心とは何か?」ということを追求されたのです。
よって権威の象徴である「紫の衣」は一度も身に纏わなかったと言われております。
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