本記事をもちまして、この『普勧坐禅儀』の講話は第「50回目」を迎えます。
ここまで連載してこれたのも、日々このblogをチェックしてくださる皆様のおかげです。
心より御礼申し上げます。
こんにちは「harusuke」と申します。
2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。
さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。
それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?
ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。
普勧坐禅儀を終えるにあたって
さて、この『普勧坐禅儀』は今回の「50回目」でひとまず最後になります。
ひとまずと言ったのは、この『普勧坐禅儀』というのは「道元禅師」を語る上でこれからも話題にあがってくるでしょうし、何よりこのシリーズでお伝えしているのは『普勧坐禅儀』における「触り」の部分でしかないからなんですね。
つまりまだまだこの『普勧坐禅儀』の参究は「浅い」んです。
それに私自身もこの『普勧坐禅儀』に関しては未だ、ほんの「数%」も理解できていないというのが現実です。
これからも沢山勉強を重ねていかなくてはならないし、そこで得た知識を今後もこの「道元禅師の旅」で投下していくつもりです。
なので今後も随時、この『普勧坐禅儀』は話題にはあがってくると思います。
楽しみにしていてください。
さて、この『普勧坐禅儀』、元より「道元禅師」に関して参究する為には「人生」をかけなければなりません。
何故なら「道元禅師」を学ぶと言うのは「真実」を学ぶという事に等しいからです。
当然、恐喝じみたことを言ってすみません。(読者の皆さんはそのような思いで読まれていないのは重々知っておりますし、これからもただ何となく読んでいただければと思います。)
しかし、
「何故人は生きなければならないのか?」
「何故私はこの世に生を受けたのか?」
「人の真の生き方とは何なのか?」
こういった疑問は生きていれば誰しもが抱えるはずです。
いわゆる人生の「テーマ」ですね。
そしてその疑問を誰しもが解決したいと願うはずです。
ただ何となく生きている人はこの世に一人もいないんですね。
本当にいないんです。
「気楽にいきていこー」とか「小さい事は気にするな」とか「生きている意味なんて考えてる暇ないんだよ!」とかそういった考えは勿論かっこいいし、素敵です。
そしてそうやって生きていける人はどこか魅力的ですしね。
しかしそういった人も必ず考えるんです。
僧侶であっても、一般人であっても、大統領であっても、アーティストであっても。
ヨーロッパの人であっても、アラブの人であっても、南米の人であっても。
誰しもがふとした時に立ち止まり、先ほどのような疑問を必ず抱くんです。
何故なら「僧侶」であっても「一般人」であっても同じ「命」を生きているわけですからね。
なので我々は「決着」を付けなければならないんですよね。
「先ほどの問いに」。
人は生まれながらにして仏であるのに何故修行しなければならないのか?
道元禅師は幼いながらに、このような「疑問」を抱かれました。
我々もおなじですね。
時代は変わっても、みんな同じなんです。
人間である以上、こうした疑問を抱き、なんとかしてこの疑問を解決しようと思うんです。
しかしこうした疑問は簡単には解決できませんよね?
ましてや「道元禅師」が解決してくれるわけでもありませんから、自分で何とか解決しなければならない。
そしてそのような疑問を抱きながらも解決できないまま、ただ何となく生きて、ただ何となく人生が終わってしまうんです。
私自身このように偉そうなことを言っておりますが、日々迷いの中にいます。
そして先ほどの問いにいずれ決着できるのか、不安でしかないわけです。
大自然からは「生きている事で悩むなんてお前は、本当に愚かだなぁ」と笑われてしまうのも知っています。
それでもそのような疑問を解決したいと思うんです。
この疑問をもしかしたら「仏性」と呼ぶのかもしれませんね。
みんなどうにかして咲かせたいと思っている「仏の種」と呼ぶのかもしれません。
しかしそのような疑問を、抱えている抱えていない、或いは解決できるできないに限らず、今こうしている最中も我々は「屁の貸し借り」すらできない、紛れもない「生命の実物」をいただいているんです。
そしてその頂いた「命」を誰しもが、死ぬまでまっとうしていかなければなりません。
そうやって考えると我々にできることというのは、この「屁の貸し借りもできない紛れもない命」をまっとうすることだけなのかもしれません。
「自分」という「ハンドル」を誰かが握ってくれるわけではありませんからね。
「自分」という「ハンドル」は「自分」で握らなければならないからですね。
「自分が自分を自分する」。
これこそがもしかしたら「仏の種」を実らせる方法なのかもしれません。
さきほどの「疑問」に対する「答え」なのかもしれません。
だから「道元禅師」は我々一人一人に、この『普勧坐禅儀』を通して「坐禅」をおすすめになるのかもしれません。
すみません、なにを言いたいのか話がうまくまとまりませんでした。
そうそう、この『普勧坐禅儀』は命を懸けなければならないということでした。
さきほどのような簡単には解決できない「疑問」と常に我々人間は共にしてまいりました。
そのためこれまで本当に多くの方が、この『普勧坐禅儀』や「道元禅師」について「命がけ」で参究されてきたことでしょう。
中には誰からも読まれる事無く、朽ちて散って行った「資料」や「研究」もあったでしょう。
その中にも当然、一般の方が難しい言葉を何とかかみ砕きながら行った参究もあったでしょうし、歴代の祖師方が将来をしょって立つ僧侶を導くために行った参究もあったでしょう。
「道元禅師」の「書」が難解とされるのと同時に、本当に全ての人の心の支えになっていたんだろうなぁとも思うわけです。
私のような人間が「道元禅師」について語れることはほんのわずかしかありません。
それでも現代こうしてネットビジネスも進み、わたしのような人間でも「道元禅師」に関する情報を「発信」することが容易になりました。
これまでもこれからも、多くの人々の支えになる「道元禅師」。
その「道元禅師」を皆さんよりほんの少しでも知りえるからには、どんな些細なことでも皆さんにお伝えしなければならないと思ったのです。
なので私自身は「死ぬ気」でこの「道元禅師」に関して学びを深めていく所存です。
そしてこれからのあなたの人生が少しで豊かになればという思いで今後も「発信」し続けて参りたいと思います。
これからますます精進してまいりますので、今後もどうぞこの「道元禅師の旅」を温かい目で見守ってくださればと思います。
今回この「50回目」でこの『普勧坐禅儀』は一旦終わりますが、「道元禅師の旅」は随時、亀のスピードで更新してまいりますので、たまにチェックしてみてください。
前置きが本当に長くなりました。
それでは『普勧坐禅儀』、第「50回目」の参究に入って参りましょう。
宇宙一杯、これに尽きる
さてまずは本記事の内容に入ってく前に前回の、
のポイントをおさらいしたいと思います。
- 「三昧」とは「坐禅」をさす。
- 祖師方が伝えられてきたこの仏祖正伝の坐禅を守りながら正しく受け継ぐ人にならなくてはならない
- つまり、我々一人一人が「真実」に生きなければいけない。
- 自我に振り回される、これが人間が陥っている病。
- 自我は実存しない。
- 自我が無くても呼吸ができる、自我が無くても食べたものを消化できる。
- 足が痛くなるは「作り物」ではない。
- 我々はこの「本物」を拠り所とし、それを実践し、守り伝えなければならない。
前回も非常に色濃い内容でした。
まだチェックがお済みでない方は、是非この機にチェックしてみてください。
さて、いよいよ本記事を持ちまして『普勧坐禅儀』のお話は最後になります。
せっかくですので最後に今一度、『普勧坐禅儀』全文に目を通してみましょうか。
原(たず)ぬるに、夫(そ)れ道本円通(どうもとえんづう)、争(いか)でか修証(しゅしょう)を仮(か)らん。宗乗(しゅうじょう)自在、何ぞ功夫(くふう)を費(ついや)さん。況んや全体逈(はる)かに塵埃(じんない)を出(い)づ、孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。大都(おおよそ)当処(とうじょ)を離れず、豈に修行の脚頭(きゃくとう)を用ふる者ならんや。然(しか)れども、毫釐(ごうり)も差(しゃ)有れば、天地懸(はるか)に隔り、違順(いじゅん)纔(わず)かに起れば、紛然として心(しん)を(の)失す。直饒(たとい)、会(え)に誇り、悟(ご)に豊かに、瞥地(べつち)の智通(ちつう)を獲(え)、道(どう)を得、心(しん)を(の)明らめて、衝天の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にっとう)の辺量に逍遥すと雖も、幾(ほと)んど出身の活路を虧闕(きけつ)す。矧(いわ)んや彼(か)の祇薗(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。少林の心印を伝(つた)ふる、面壁九歳(めんぺきくさい)の声名(しょうみょう)、尚ほ聞こゆ。古聖(こしょう)、既に然り。今人(こんじん)盍(なん)ぞ辦ぜざる。所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。須らく囘光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目(めんもく)現前(げんぜん)せん。恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲せば、急に恁麼の事(じ)を務(つと)めよ。
夫れ参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲飡(おんさん)[飲食(おんじき)]節あり、諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪(ぜんなく)を思はず、是非を管すること莫(なか)れ。心意識の運転を停(や)め、念想観の測量(しきりょう)を止(や)めて、作仏を(と)図ること莫(なか)れ。豈に坐臥に拘(かか)はらんや。尋常(よのつね)、坐処には厚く坐物(ざもつ)を(と)敷き、上に蒲団を用ふ。或(あるい)は結跏趺坐、或は半跏趺坐。謂はく、結跏趺坐は、先づ右の足を以て左の(もも)の上に安じ、左の足を右の(もも)の上に安ず。半跏趺坐は、但(ただ)左の足を以て右の(もも)を圧(お)すなり。寛(ゆる)く衣帯(えたい)を繋(か)けて、斉整(せいせい)ならしむべし。次に、右の手を左の足の上に安(あん)じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安ず。兩(りょう)の大拇指(だいぼし)、面(むか)ひて相(あい)拄(さそ)ふ。乃(すなわ)ち、正身端坐(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。舌、上の腭(あぎと)に掛けて、脣歯(しんし)相(あい)著け、目は須らく常に開くべし。鼻息(びそく)、微かに通じ、身相(しんそう)既に調へて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右搖振(ようしん)して、兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、箇(こ)の不思量底を思量せよ。不思量底(ふしりょうてい)、如何(いかん)が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。
所謂(いわゆる)坐禅は、習禅には非ず。唯、是れ安楽の法門なり。菩提を究尽(ぐうじん)するの修證(しゅしょう)なり。公案現成(こうあんげんじょう)、籮籠(らろう)未だ到らず。若(も)し此の意を得ば、龍の水を得たるが如く、虎の山に靠(よ)るに似たり。當(まさ)に知るべし、正法(しょうぼう)自(おのずか)ら現前し、昏散(こんさん)先づ撲落(ぼくらく)することを。若し坐より起(た)たば、徐々として身を動かし、安祥(あんしょう)として起つべし。卒暴(そつぼう)なるべからず。嘗て観る、超凡越聖(ちょうぼんおつしょう)、坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)も、此の力に一任することを。況んや復た指竿針鎚(しかんしんつい)を拈(ねん)ずるの転機、払拳棒喝(ほっけんぼうかつ)を挙(こ)するの証契(しょうかい)も、未(いま)だ是れ思量分別の能く解(げ)する所にあらず。豈に神通修証(じんずうしゅしょう)の能く知る所とせんや。声色(しょうしき)の外(ほか)の威儀たるべし。那(なん)ぞ知見の前(さき)の軌則(きそく)に非ざる者ならんや。然(しか)れば則ち、上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡(えら)ぶこと莫(な)かれ。専一(せんいつ)に功夫(くふう)せば、正に是れ辦道なり。修証(しゅしょう)は自(おの)づから染汙(せんな)せず、趣向更に是れ平常(びょうじょう)なる者なり。
凡(およ)そ夫れ、自界他方、西天東地(さいてんとうち)、等しく仏印(ぶつちん)を持(じ)し、一(もっぱ)ら宗風(しゅうふう)を擅(ほしいまま)にす。唯、打坐(たざ)を務めて、兀地(ごっち)に礙(さ)へらる。万別千差(ばんべつせんしゃ)と謂ふと雖も、祗管(しかん)に参禅辦道すべし。何ぞ自家(じけ)の坐牀(ざしょう)を抛卻(ほうきゃく)して、謾(みだ)りに他国の塵境に去来せん。若し一歩を錯(あやま)らば、当面に蹉過(しゃか)す。既に人身(にんしん)の機要を得たり、虚しく光陰を度(わた)ること莫(な)かれ。仏道の要機を保任(ほにん)す、誰(たれ)か浪(みだ)り石火を楽しまん。加以(しかのみならず)、形質(ぎょうしつ)は(た)草露の如く、運命は電光に似たり。倐忽(しくこつ)として便(すなわ)ち空(くう)じ、須臾(しゅゆ)に即ち失(しっ)す。冀(こいねが)はくは其れ参学の高流(こうる)、久しく摸象(もぞう)に習つて、真龍を怪しむこと勿(なか)れ。直指(じきし)端的の道(どう)に精進し、絶学無為の人を尊貴し、仏々(ぶつぶつ)の菩提に合沓(がっとう)し、祖々の三昧(ざんまい)を嫡嗣(てきし)せよ。久しく恁麼(いんも)なることを為さば、須(すべか)らく是れ恁麼なるべし。宝蔵自(おのずか)ら開けて、受用(じゅよう)如意(にょい)ならん。
こうして今パッと見ただけでもこの『普勧坐禅儀』は本当に難解の書であったことがわかります。
皆様のご理解力と参究心に感服いたします。
さて、今回は最後の段です。
この部分を端的に言うと、
我々が行じている「坐禅」は、宇宙一杯と繋がった「行」である
ということです。
「大自然と一つの坐禅」、「宇宙一杯の坐禅」であるというんですね。
これまでの解説でも「大自然」だとか、「宇宙一杯」だとか沢山出て参りましたが、最後の段でもやはりこの部分が出て参ります。
ただやはりこうして言われてみても分かったようで分からない話ですよね。
それでも最後までこのような話題になるのは、『普勧坐禅儀』で道元禅師が言いたい事は「宇宙一杯」、この一言に尽きるからなんです。
なので今回最後だとしても、懲りずにその「最重要部分」に関して解説をさせていただければと思います。
今まで以上に言葉に熱を込めていきますので、少し暑苦しく感じるかもしれませんがお付き合いください。
どこまでも「俺一杯」
我々はいつも「自我」というものを「宇宙」と「自分」の間に挟んで物事を「認識」しております。
つまり物事の正体を「認識」をもって捉えようとするんです。
しかしこの「認識」するという作業は我々の頭を使って行われる「概念遊び」でしかないんですね。
例えば「赤い物をもってきてください」と言えばAさんは「リンゴ」をもってくるが、Bさんは「トマト」をもってきたり。
「黄色い物をもってきてください」と言えば、Aさんは「とうもろこし」をもってくるが、Bさんは「パプリカ」をもってきたり。
このようにそれぞれ人の価値観や過去体験に基づき、「赤い物」の「正体」は変わるんです。
要はここで両者が「正体」だと思っているのは単なる「認識」でしかないんです。
つまり「認識」でもっては「赤い物」の正体を永遠に突き止めることはできないにもかかわらず、その「認識」が全てだと我々人間は思っているんです。
そしてこのように「宇宙」と「自分」との間にこうした「自我認識」を挟むから大きな間違いが生まれてくる。
本来人間の「認識」でもって物事の正体とはとらえられないんですね。
言い表せないんです。
なので物事の正体を捉えるにはそういった「自我認識」や「価値観」、「過去体験」を全て大自然にお返しすればいいんですね。
全てを「大自然」にお任せするんです。
そしてこの「坐禅」こそが「自我認識」や「価値観」、「過去体験」を全て大自然にお返しした「行」であるんです。
何故なら「坐れば足が痛くなる」というのはまさに「自我認識」の範疇外だからです。
例えば「俺の足!今から坐禅するけどどうか痛くならないでくれよ!」なんて言っても容赦なく足が痺れてくる。
「自我認識」や「価値観」、「過去体験」など関係なしに足が痺れる。
このように「坐禅」は「命の正体」を捉えていることが分かるんです。
「命の正体」、つまり真実をとらえているんですね。
「人間の正体」を行じているんです。
ということは、本来この世の全ては「宇宙と一つ」なんですね。
これが仮に「宇宙と一つ」でなければ、先ほどのように「俺の足!今から坐禅するけどどうか痛くならないでくれよ!」と言えば痛くならないのかもしれない。
しかし容赦ないですね。
問答無用で足は痺れてくる。
それは「自分」と「宇宙」が切り離せないからです。
足を組めば痛い、壁にぶつかれば痛い。
こうした「宇宙と一つの命」を我々人間は生きているからです。
だからどこにいっても宇宙と一つの自分しかいないんですね。
宇宙と一つということは「俺」がないんです。
どこまでも「宇宙一杯」。
「俺一杯」なんです。
- 足を組めば痛い。
- 無意識のうちに呼吸をすってはいている。
- 食べたものを寝ている間にも消化してくれる。
そういった「宇宙」と「自分」に際限のない命、隔たりのない命。
「ここからここまでが俺の命」という線引きが一切できない宇宙一杯の命を我々は今こうして生きているんです。
そして宇宙一杯だから「自我」などというものはあるはずがないんです。
つまりは全世界が「自己」ともいえる世界において、呼吸をするようにただ「自分が自分を自分している」のがこの「坐禅」なんですね。
この世界で呼吸をしているのが「坐禅」なんです。
これは言い方を変えれば、「すべてが坐禅」、「坐禅がすべて」とも言い換える事ができるんですね。
「坐禅」以外ないんです。
すべてが一つに繋がった世界で、我々人間が行っているのは「坐禅」だけなんですね。
冒頭で述べた「仏性」だとか「疑問」だとかどこか可笑しく思えてしまうほど、この世界は「坐禅」だけなんです。
「只管打坐」なんです。
すいません、少し分かりづらいですね。
ただの独りよがりの記事になってしまってもよくないのですが、何とかついてきて頂ければと思います。
これからあなたが出会うもの全てが「自己」なんですね。
何故なら「全世界」が宇宙一杯で、俺一杯だからです。
それは「いま、ここ、全て」が「自己」との出会いの場であるとも言えますね。
いつも「全て」との出会い、「自己」との出会いを行っているんです。
我々がこの世界で行っているのは常に「坐禅」及び、「自己」との出会いなんです。
言い当てられないのが「真実」であるのなら言い当ててはいけない
さて、今述べたことを抑えて今回の内容にもある「久しく恁麼(いんも)なることを為さば、」という部分に参りましょう。
ここで道元禅師が言っているのは「坐禅」はこの「恁麼」を行じているということなんです。
そもそも「恁麼」というのは中国における昔の「俗語」で、「このもの」という意味。
何とも名前が付けられないものをこの「恁麼」と言います。
「悪いがアレとってきてくれ」の「アレ」ですね。
しかしこれで正しいんですね。
何故ならどのようなものにも「正確な名前」はなく、「正確なもの」だと思っているのは単なる人間の「認識」に過ぎないからです。
「赤い物」を「リンゴ」といったり「トマト」と言ったりですね。
それは人間同士の「概念遊び」に過ぎないからです。
なので人間がそのものの正体を言い当てようとしようと思ってもそれは本来不可能なんですね。
ですから「恁麼」というんですね。
本来なにものにも名前は付けられないということです。
この「坐禅」においても「恁麼」を行じているというんです。
先ほどあそこまで熱く解説した「宇宙一杯」だとか「真実」だとか「俺一杯」というものもこれも所詮「認識」に過ぎないからですね。
結局、「宇宙」だとか「真実」だとか「自己」を言い当てようとしてもそれは無理なんです。
だからこの「恁麼」なんですね。
我々が生きているこの「自己」も「生命の実物」も「恁麼」なんですね。
言い当てられないのが「真実」であるのならば、言い当てようとしてはいけないし、そもそも言い当てる事ができないんです。
この「アレ」をひたすら行じていくだけなんです。
我々の正体は如来
また「何者か恁麼来」という言葉がある。
これは六祖慧能禅師の所に弟子の南嶽懐譲禅師が初めてやって来た時のことです。
「お前さんは一体ナニモノか?」と弟子の南嶽懐譲禅師に聞くんですね。
「一体ナニモノがやってきたんですか?」と聞くんです。
それから6年間もの間、弟子の南嶽懐譲禅師はそのことを考えながら修行に励むんです。
「何者か恁麼来」と聞かれたが一体どういう意図のなのか?
何者か恁麼来
これは一体どういうことなのか?
例えば「はい、私は○○会社の従業員です。」とか「はい、私は○○寺の住職です。」とか「○○ちゃんのお父さんです」といってもそれは所詮、他との兼ね合いで生まれた「認識」に過ぎません。
先ほど述べた「認識」ですね。
「私には財産が1000万円あります」といってもこれも他との兼ね合いに過ぎません。
つまり他との兼ね合いがあるから「言い表せる」んです。
しかしこの世界は先ほども申し上げた通り「宇宙一杯」、「俺一杯」ですから他との兼ね合いになんてものは何一つないんです。
だから言いあらわせないのが当たり前なんですね。
つまり何が言いたいのかというと、「何者か恁麼来」、これがそのまま答えになっているんですね。
我々一人一人の命も「恁麼来」として生まれて来た。
ですから「恁麼来」のことを如来と言うんですね。
「来るが如く」と書いて「如来」ですが、「阿弥陀如来」とか「釈迦如来」というのはみんな「恁麼来」です。
我々一人一人も「如来」。
「恁麼が来るが如く」です。
「我々の命」、「自己の正体」というのは「何者か恁麼来」なんです。
他との兼ね合いではなく、宇宙一杯の命を生きているから「何者か恁麼来」でいいんです。
「恁麼来」じゃなかったら、言い表せてしまったら、それは間違いなんですね。
しかし繰り返しになりますが他との兼ね合いや「自我」が宇宙と自分との間に入りこむと、間違いが生じる。
本来二つにわかれないこの世界を無理に二つに分けようとするわけですから、間違いだらけの人生になるんです。
本来「恁麼」であるものが「社長だ!」とか「有名人だ!」とか言うから変になるんです。
なので「久しく恁麼(いんも)なることを為さば、須(すべか)らく是れ恁麼なるべし」とあるのは、その「恁麼」を知っていればそのような間違いをせずに済むということをここで言っているんですね。
説明が下手で申し訳ないですが、道元禅師がここで言いたいのはどうか、そこを間違えないでくださいよということなんです。
本当の宝は自分自身
すみません、ここまで畳みかけるように話してきてしまっておりますが、先に進ませていただきます。
続いての、「宝蔵自(おのずか)ら開けて、受用(じゅよう)如意(にょい)ならん。」というのは、「宝物が自ずから開けて、自由自在に使う事ができる」という意味になります。
禅の言葉に、
門より入るものは家珍にあらず
という言葉があります。
これは「本当の宝物というのは、門から入るものではない」ということを言っているんですね。
「家の門」とか「山門」とか、そういう出入り口から入るものは本当の宝物ではないというんですね。
ここでいう「家珍」、つまり家の宝物というのは「自分自身」にあると言っているんです。
外から出入りするものは「家珍」ではないと。
例えば、家の家宝というものは大体はご先祖様がどこからか手に入れたものをその家の家宝にするというのが習わしです。
しかし禅の世界では「門より出入りするものは家宝ではない」と言うんですね。
「自ずから開けている」というんです。
だからここで「宝蔵自(おのずか)ら開けて、」とあるのは、みんな自分自身に宝物を持っているというんですね。
「宝蔵自(おのずか)ら開けて、」というのは自分自身で持っている宝物が恁麼を行じることによって自ずと開けてくるというんですね。
そしてここで言う「恁麼」というのは他でもない「坐禅」のことです。
つまり「宇宙と一つに繋がった」この命のことです。
我々は宝物というと、外にあるものだと思いこんで貪り歩いている。
しかし貪り歩いている限り、それは「貧しい」んですね。
それに本当の宝物というのはみんな自分自身の中に持っている。
「自分が自分を自分している」だけですから、誰も貪り歩く必要などないんです。
我々は何ももっていなくても平気で笑う事ができます。
平気でお腹が空く。
指をきればちゃんと血が出てくる。
こんな恵まれた命を誰しもが持っているんです。
一体それに加えて何を欲しがるのか?そのことをきちんと踏まえられれば、「受用(じゅよう)如意(にょい)ならん」。
もう自由自在であると。
自由自在に平気で生きていけると。
なので本当の「宝」は自分自身なんです。
「宇宙」と「自分」は一つの命なのだから「自分」さえ救われればいいんです。
そういう命を生きているんですね。
西郷隆盛は「金もいらぬ、命もいらぬ、名もいらぬ人はどうすることもできない、お手上げだ」と言うんですね。
そういう人は真に自由だから従える事ができないし、利用することができないというんです。
道元禅師は中国での修行を終えてから日本に帰られて有名になられました。
またこれから「真の仏法」を世の為に広めているということでそれを聞きつけた当時の天皇から紫の衣を授かるはずでした。
しかし道元禅師は一切その紫の衣を受け取ろうとしなかった。
何故なら紫の衣というのは他との兼ね合いの話であるし、「宝蔵自(おのずか)ら開けて、」ということを道元禅師は知っていたからなんです。
「紫の衣」のような他との兼ね合いによって評価されるもの、もしくは他との兼ね合いによって評価される人生を放棄すれば、「受用(じゅよう)如意(にょい)ならん。」本当に人が自由な人生を歩むことができるということを知っていたからなんです。
このような思いが、この『普勧坐禅儀』の最後の締めの言葉になっているんですね。
道元禅師は「本当の宝」は、「自分自身」だということを『普勧坐禅儀』を通してお伝えになられたかったのだと思います。
この不安でたまらない時代。
そんな時代において「足が痺れてくること」、「寝ている間にも食べたものを消化している事」そのような当たり前の事が本当の安心なんだと、そう思えてくるわけであります。
なので我々人間は何よりも、「自分自身」をこころのよりどころにするべきなんだとそう思えてくるわけであります。
もっと自分を大切にしなければと、そういう思いがしてくるわけであります。
最後に
さて以上でこの『普勧坐禅儀』も終わりになります。
最後はうまく話をまとめられなかったかもしれません。
ただ大まかな点はお話できたのではないかと思います。
「坐禅」に関するやりかたにおいては現代にも実に様々なやりかたが広まっております。
しかしこの道元禅師による『普勧坐禅儀』というのは「普く勧める坐禅」です。
そしてその中で誰しもが行じることができる坐禅をお説きになっているのです。
どんな宗教を信仰していてもいい、会社員でなくてもいい、男でもいい、子供でもいい、明日死ぬ命でもいい。
道元禅師のおすすめになる坐禅は「だれでもかれでも行える坐禅」で、「だれでもかれでも行うべき坐禅」です。
なぜなら「坐禅」は宇宙一杯の行だからです。
他との兼ね合いを放棄した「生命の実物」だからです。
我々の命や、我々の生きる世界は本来他との兼ね合いでなりたっているわけではなく、仏の命として宇宙一杯に繋がっております。
すべてが「一つ」に繋がった世界。
すべてが「俺一杯」のこの世界で、ただ「自分が自分を自分している」。
ただ「呼吸」をしている。
それが「坐禅」の真髄であります。
最後はかなり乱暴なまとめになってしまいました。
ここまで50回にも及ぶ連載をご愛読いただきまして本当にありがとうございます。
次回会える日を楽しみにしております。
コメント