坐禅に関する大きな疑問選!一つずつ分かりやすく解説します。

「坐禅」ひたすらに実践し続ける事(只管打坐)をお説きになった道元禅師。

「坐禅」を行う事は「生命の実践」、「仏行」とも言われております。その「坐禅」こそが悟りであるわけです。

今世界中でブームを巻き起こしているこの「禅」。

その禅と同義とされる「坐禅」に関して、目的や継続の意義について今疑問に思っている方は多いはずです。

今回はそんな「坐禅」に関して皆さんが抱える疑問を一つずつ丁寧に解説していきたいと思います。

それでは参りましょう。

この記事を書いているのは

こんにちは「harusuke」と申します。大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内でサラリーマンをしております。

目次

坐禅に関する悩み「Q&A」形式

ここでは「坐禅」に関する疑問を「Q&A」形式で見ていきたいと思います。

一つずつ分かりやすく解説しておりますが、ここでも分からない事やもう少し具体的に教えてほしいという方は是非お気軽にお問い合わせください。

こちらの@zennotabiでもご質問を受け付けております。

またここでの疑問は随時更新していく予定です。

それでは参りましょう。

「坐禅」の目的とは何ですか?道元禅師は、「坐禅」は何か目的を達成するため(例えば悟りをえる手段)に行ずるものではないと教えております。しかし、お坊さんではないわたしにとって、中々そのような心境になることができません。目的を持ってはいけないのでしょうか?

道元禅師の時代には「さとり体験」が重視され、お坊さんの中でも「自分は悟った!」と勘違いし、自分は偉くなったのだと思い込む人が大勢おりました。また現在でも、世の為、人の為、子供の為、と称し坐禅を行うことは愚か、実は自分の自己満足にすぎない例が見受けられます。そのように平和や、子供の為など、聞こえはいいですが、「何かの為」となった場合、大体それは「自我」の延長に過ぎません。「仏法は無我にて候う」という言葉にもあるように、真実は人間の自我とは関係のない「大自然」そのものであります。「坐禅」が「仏行」と言われる理由もそこにあります。そのような「自我」の呪縛から解き放たれるために「ただ、ひたすらに坐禅をする」という道を道元禅師は求め、生涯実践されました。なのでこの「坐禅」は何もお坊さんだけが行う者でもありません。道元禅師は『普勧坐禅儀』という書物をしるし、「坐禅」をあまねく人々におすすめになられております。生きる事は坐禅をすることです。人が初めて安心できるのは他人と比べる事をやめ、「坐禅」を通し生命の実物に立ち帰る時です。我々が本来の命にいきることです。なので「目的」を持つことは決してわるいことではありません。何故ならこの「坐禅」こそが人類全体の「目的」と言えるからです。

自宅で「坐禅」をしたいと思っています。「坐禅」は寺院や道場などで指導を受けてからでないとできないのでしょうか?

一般の方でも自宅で「坐禅」を行う事は可能です。しかし、自己流では狙いをつけた本筋とはズレた坐禅になってしまったり、そのせいで行き詰まってしまう可能性もあります。「禅」の場合、残念ながら、独りよがりな考えに固執する人が多く見受けられます。可能ならはじめは、経験豊富な指導者のもとで「坐禅体験」を何度かしてみるとよいでしょう。

何故壁を向いて「坐禅」をするのですか?

お釈迦様を始めインドの祖師方は精舎が造られるまでは実に様々な場所で坐禅をしていました。また現在でも、タイヤミャンマーなどの南方仏教では、壁や木に寄りかかって瞑想したりしていますし、同じ禅宗でも臨済宗はお互い向き合って坐禅(公案禅)をします。壁を向いて坐禅をする理由は、インドから仏教が中国に伝えられる過程で、そのようなスタイルが確立していたからです。その際、中国に禅を伝えたと言われている菩提達磨(だるま)様が嵩山の少林寺で面壁九年の坐禅修行をしたということから禅宗では特に壁を向いて坐禅をするようになったと言われております。

坐禅中に次から次に雑念がおこります。雑念が消えない時はどうしたらよいですか?また雑念が起きない工夫はありますか?

坐禅の中には無念無想を目指したり、雑念が起きないことを良しとするも考え方があります。しかし道元禅師のおすすめになる「只管打坐」はそのような今でいう「無心」の状態を目指すものではありません。私たちは日々、様々な音に囲まれて生きています。大きな音の近くにいる時、私たちは微細な音を聞きとることはできません。しかし、その音が無くなった時、風の音や小鳥のさえずりを感じる事が出来ます。それと同じように、坐禅中には私たちの日常の騒音、「あれが欲しい、なんであの時ああしなかったのか」など、欲望にうごめく喧騒がなりをひそめています。そして普段気にする事もなかったもう少し小さな音が届くようになります。坐禅中の思いもそのようなもので、「只管打坐」においては切り捨てるべき雑念として存在するのではなく、自分自身の大切な一部分であると考えます。つまりこの思想というのも自分がやっているものではなく大自然が行っている、大自然の産物であるという捉え方なんですね。

途中で足が痛くなったり、背中が丸くなったりしてしまいます。どこに原因があるのでしょうか?

普段スポーツをしていない人が突然なにかの運動をした時、翌日筋肉痛になったりします。反対に、はたから見て大変そうな仕事でも、日々、こなしていることならば、本人にとってそれはどうってことのない作業となります。「坐禅」もそれと同じで、結跏趺坐や半跏趺坐などは、普通の生活をしている現代人が普段する姿勢ではありません。そのため、「坐禅」に必要な筋肉や柔軟性がないのは、いわば当然の事です。ですから、焦らず徐々に身体をならしていってください。最も「坐禅」に慣れればまったく足腰が痛くならないかと言うと決してそういうわけではありません。足を組めば誰しもが「痛い」のです。痛くなかったら「坐禅」ではありません。しかし「坐禅」をし、その誰の物でもない、誰とも比較できない「痛み」のあらわれが「生命の実物」といわれ「仏行」ともいわれる所以です。この坐禅の痛みこそ、人間の安心できる場所なのです。

また、多くの人は左右どちらかに自分の身体が歪んでいると言われております。この「歪み」などによって右足は組みやすいけれども左足は辛いという事も出てきます。歪んだ状態でありながら身体を真っ直ぐ伸ばそうとすると、よけい歪みを促進する事にもなります。柔軟体操やストレッチなどをして日頃から身体のメンテナンスに気を付けてください。

仕事で忙しかったり、疲れていたりすると「坐禅」を継続することができません。継続しないと「坐禅」の意味はないのでしょうか?

「一寸坐れば一寸の仏」という言葉があります。「坐禅」は「仏行」であり、わずかでも坐ればそれはそれで意義があるものです。しかし一方で「元の木阿弥」という言葉もあります。勉強でも仕事でも何でも、鍛錬をやめてしまえばアッと言う間に元の状態に戻ってしまうものです。そうならない為にも、道元禅師はこの生涯、修行し続ける事を主張されます。ですから原則的には、苦しくても辛くても継続することが大切なのは間違いありません。

とはいえ、病気やケガ、過労気味の時などに無理して行う事は身心に不調をきたす原因ともなりかねません。どうか無理のない範囲で継続できる状態を模索されてください。

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