道元禅師にまつわる「言葉」のエッセイ。
今回は第⑰弾といたしまして、「恁麼(いんも)」についてお送りいたします。
筆者のつたないつぶやきとして、楽しんでいただければ幸いです。
こんにちは「harusuke」と申します。
2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。
さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。
それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?
ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。
恁麼とは
「恁麼(いんも)」とは、「このような(に)」「そのような(に)」という意味を表す中国の言葉です。
我々は普段から「あれ」とか「それ」とか「あの」とか「その」とかって言葉をよく使いますが、中国における「恁麼」もそれらと同じ意味としてよく使われる言葉なんですね。
また同義語には、異没(いも)や、伊麼(いも)、与麼(よも)などがあり、この「恁麼」を疑問形にした「どんな?」や「なんの?」という意味の「什麼(じゅうも)」という言葉もあります。
この「恁麼」は意味にすれば「あれ」とか「それ」に該当します。
しかしこの「恁麼」という言葉の持つ、本来の意味をそう簡単に理解できるものではないんですね。
本blog「禅の旅」でもこれまでに何度かこの「恁麼」について話題に取り上げてまいりました。
そう、「恁麼」とは仏法における「真実」をあらわした言葉なんです。
どういうことか以下でおさらいしてみましょう。
恁麼の意味
要するに仏法の真実は言い表せないと言うのです。
だから「真実」のことを、「あの」とか「それ」とか「恁麼」とかって言うんです。
もっといえば「真実」は「恁麼」としか言いようがないんですね。
例えば我々はいまこうして生きており、我々の身体は一秒一秒姿を変えております。
目には見えませんが、確実に姿を変えているんですよね。
それは疑いようもない事実です。
人間だけに限らず、目の前の壁も、水も、カーペットも、自動車も、確実に姿を変えている。
それが世界の真実ですよね。
例外はありません。
そしてその真実のことを「諸行無常」といったりもしますが、要するにこの自分の体一つとっても留まるところを知るものは何一つないんですね。
なので、本来名前の付けようがないんです。
しかし人間は名前を付けようとするんですね。
本来名前の付け様のないものに絶対的な安定を求めて、名前を付けようとするんです。
そして、いつしか諸行は無常であるという真実すら忘れてしまうのです。
すべてはうつりゆくもの、風化していくもの、いずれは跡形もなく消え去るもの。
そういった真実に蓋をしてみないようにするんですね。
それがいわゆる人間の脳みそによる「名称化」、「固定化」、「概念化」なのです。
ですが実際は、物が壊れない事、風化しない事、残り続ける事のほうがよっぽど悲しいんですね。
真実に反している訳ですから。
ですから「恁麼」という言葉はそういう人間に対する戒めの言葉であると筆者は思う訳ですね。
それと等しく、過去の祖師方も仏法の真実のことをこの「恁麼」と言い表したのです。
すべて「恁麼」でいいんです。
「真実」に相応しい言葉とは何か?など考えなくてもいいことだと思います。
昔「仏法の大意は何か?」と聞かれて人差し指をスッとその者の目の前につきだした倶胝和尚という方がいらっしゃいました。
人差し指を出された方は何がなんだかわからない。
この「恁麼」も同じですね。
「仏法の大意」は何がなんだかわからない、説明のしようがない、だから「あれ」だの「これ」だの、そういう言葉でいいわけです。
しかしそれこそが何よりもこの瞬間をとらえた言葉でもあるわけなんですね。
一瞬一瞬姿を変えていくこの「真実」を、「かくかくしかじか、酸素がこうなって、血液がこうなって~」と科学的な言葉で言い表せたとしても、そのように言ってる瞬間にはその対象はもうあとかたもなく消えてなくなっているんです。
どんなに頭の良い科学者でも、この「真実」を言い当てることなどできないのです。
ということは、「世界の真実は諸行無常である」というのも本来おかしなことに気付けるんですよね。
今、指を差し出す。
今、自分の鼻を曲げてイタイイタイ!となる。
それが仏法の全てなんですね。
仏法の正体なのです。
そんな仏法の正体を言葉であらわすとしたら「恁麼」という以外ないのです。
言い当てられないから「アレ」という言葉を使うわけですから。
恁麼とは?道元禅師の見解
ここまでは筆者の単なる言葉遊びです。失礼いたしました。
それでは道元禅師はこの「恁麼」のことをどのようにお説きになられているのでしょうか?
道元禅師がおしるしになった『正法眼蔵』第十七に『恁麼』の巻というものがあります。
そしてこの『恁麼』の巻の冒頭には次のような言葉がでてきます。
恁麼の事を得んと欲せば、すべからくこれ恁麼の人なるべし。すでにこれ恁麼の人なり、何ぞ恁麼の事を愁えん。
つまりこういうことですね。
そのようなこと(真実)を得ようとするならば、そのような人となる修行が必要である。ところが、人はすでにそのような人となっているのだから、どうしてそのようなことを憂う必要があるのだろうか?
道元禅師は真実のことを「そのようなこと」、つまり「恁麼」という風におっしゃるんですね。
もっと言えば、
人ははじめから恁麼の人である。すなわちそれは、人はみな仏道の人であり、悟りの人であるということである。そして人だけではなく、目の前に展開するあらゆるものが恁麼であり、真実を現成している。ということは、憂うこと自体も恁麼であるわけで、憂いではない。
このように道元禅師は「恁麼」についてお説きになっておられます。
「恁麼」は人間の価値観や、概念、思想を越えたところをいっているんですね。
お読みいただきありがとうございました。
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