本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。
今回は『普勧坐禅儀』本文の、
という部分を読んでいきたいと思います。
まず 初めに前回の、

のポイントを振り返りたいと思います。
- 「声色の外の威儀たるべし」はかの「香厳撃竹大悟」の故事から引用した
- 「声色」というのは、「人間」の感覚の世界
- 「知見」というのは、「人間」が培った知識の延長の世界
- 仏法はその「声色」や「知見」の延長の世界を指すのではない
- それらとは別にある「生命の実物」こそが「仏法」であり、「大自然の在り方」である
- そしてその「大自然の在り方」を「実践」しているのが「坐禅」である
それではポイントをおさらいしていただいた所で、本記事の内容に進んでいきたいと思います。
況んや復た指竿針鎚(しかんしんつい)を拈(ねん)ずるの転機、払拳棒喝(ほっけんぼうかつ)を挙(こ)するの証契(しょうかい)も、未(いま)だ是れ思量分別の能く解(げ)する所にあらず。豈に神通修証(じんずうしゅしょう)の能く知る所とせんや。声色(しょうしき)の外(ほか)の威儀たるべし。那(なん)ぞ知見の前(さき)の軌則(きそく)に非ざる者ならんや。然(しか)れば則ち、上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡(えら)ぶこと莫(な)かれ。専一(せんいつ)に功夫(くふう)せば、正に是れ辦道なり。修証(しゅしょう)は自(おの)づから染汙(せんな)せず、趣向更に是れ平常(びょうじょう)なる者なり。
正しい生き方に出会う事それが「悟り」

今回はこの部分の解説をしていきたいと思います。
参りましょう。
能力が「ある」、「ない」は関係ない
「然れば」というのは、
そのような訳であるから
ということですね。
そして、上智下愚を論ぜず、というのは
仏道修行をする能力には「優れている」とか「劣っている」とかは問題ではない。
という意味になります。
また、利人鈍者を簡ぶこと莫かれ。というのは、
「利口」であるとか「馬鹿」であるという様な区別する事も一切無い。
という意味になります。
これらを繋げて読むと、
そのような訳であるから、仏道修行をする能力には「優れている」とか「劣っている」とかというのは問題ではない。また「利口」であるとか「馬鹿」であるという様な区別する事も一切無い。
となります。
これが今回の内容ですね。
まず先に述べさせていただきました。
今回「38回目」を迎える「普勧坐禅儀」。『坐禅儀』はこれまでにも中国の祖師方によって数多く書かれておりますが、坐禅儀の上に「普勧」という字が付いているのは道元禅師のこの『普勧坐禅儀』だけであります。

「普勧」というのは、普く勧めるという事で、普く一切の人々の為の『坐禅儀』であります。
なので或る特定の「エリート」や「優秀な選手」だけに向けられたものではないのです。
誰でも彼でも坐れる「坐禅」について、学べる『坐禅儀』であるわけです。
ですから『普勧坐禅儀』という風に名前が付けられた。
ここは大切なことなので再掲です。
仏道においては「志」だけが重要。それ以外は取るに足らない
その昔、インドのお釈迦様の弟子に周利槃特(シュリハンドク)という人物がいました。
この周利槃特というのは、非常に頭が「馬鹿」であったんですね。「愚鈍」であった。
至極「愚鈍」であったと言われている。
自分の名前さえも覚えられなかった。
なので周りのみんながとても心配したんですね。
「お前は首から名札をぶら下げたら良いんじゃないか?そして名前は何かと聞かれたらこの名札を指さして私の名前はここに書いてある通りですと言えばいいじゃないか!そのようにすればお前が名前を覚えられなくても良いじゃないか!」という風に言うわけです。
そして実際に周利槃特にそのようにさせたんです。
しかしこの周利槃特、ついには自分に名前をしるした「名札」が首にぶら下がっている事すらも忘れてしまったんですね。
非常に「愚鈍」であったんです、この周利槃特は。
お釈迦様に関してもこの周利槃特に対して様々な手を尽くして導こうとします。
例えば、

お前は「箒」を持って庭を掃きなさい。そして一掃きする度に「払えたまえ、清めたまえ」と唱えなさい。
といった感じで、親切に導こうとする訳です。
皆の苦労の甲斐もあって、この周利槃特は一生懸命庭掃きをしている内に真実に目覚めることができたと言われているんです。
この至極「愚鈍」であった、周利槃特ですら真実に目覚める事が出来たというんですね。
そしてこの周利槃特は真実に目覚められてからは、「十六羅漢」の中の一人にも数えられるようになったのです。
「仏道修行」においては「利人」も「鈍者」も関係がないんですね。
これが要するに今回の肝となる部分です。
ある修行僧が道元禅師に次のように質問をします。
坐禅修行というものは「出家」していても「在家」であっても「男」であっても「女」であっても、出来るのでしょうか?
すると道元禅師は「志の有る無しによるべし。」と答えられるのです。
これは『正法眼蔵弁道話』の中で述べられていることですが、「坐禅修行」というのは「志」が有るか無いかによって決まるというんですね。
「出家」か「在家」かということは関係ないし「男」や「女」といった性別も関係ない、要は「志」が有るか無いかという事が非常に重要であると。
「志」さえあればいい。
今回の「上智下愚を論ぜず。利人鈍者を簡ばず。」というように「頭がいい」、「頭が悪い」というのは「論ずる」対象にはならないというのですね。
そんなものは仏道修行において一切関係ないし、取るに足らないということなんですね。
「悟り」とは人間が「正しい生き方」に出会う事
そもそも道元禅師のおっしゃる「悟り」とは何でしょうか?また周利槃特が出会った悟りとはどういうものか?
我々は「お悟り」というと、なんだか気分が爽やかになるような事だと思っている。
「坐禅」をして「精神統一」をしてその結果、急に「能力」が目覚めたような爽やかな気持ちになれる。
そのようなものを我々は「悟り」という風に受け止めております。
しかし道元禅師のおっしゃる「悟り」というのは本当にそのようなもののことを言うのでしょうか?
また周利槃特も「悟り」に出会えたというが、その「悟り」とはこのような心境に目覚めた事を言うのか?そしてその結果、何も怖い物が無くなったことを言うのか?
違いますね。
「悟り」というのはそのような精神的な話ではないし、何かしらの能力に目覚める事を言うのでもありません。
「悟り」とは、簡単に言えばこの世界の正体のことです。これ以上も以下もない、この世界の正体。その正体に息づくこと。出会うこと。生きることです。
そしてそんな命を今、ここ、この自己がいただいていることに気づくことです。
この世界では足を組めば痛いです。肌をつねれば痛いです。あるいは花は枯れ、私も年を取ります。風が吹き、自動車の走る音が聞こえる。
この世界では今述べたようなことが確実に起こります。事実です。しかし事実だということはそれがこの世界の正体だということです。それがこれ以上も以下もないこの世界の真実なのです。
それに気づくこと。常に仏(事実)に満たされていることに気がつくこと。それをありがたく頂戴すること。そのような世界に皆が生きており、何も心配することがない。いつどこでも100の仏の命をいただいていることに気づくこと。
長々と語ってきましたがこれが要するに「お悟り」です。これ以上も以下もないもの。これ以上も以下もない命を常に生きていること。そんな「もの」に常に生かされていること。実際に自分自身もそのような命を生きていること。
ここに気づくことなんです。
事実がすべて尊いんです。事実がすべて仏、悟りなんです。よってその事実をただ、いただく。あるいは行じることが我々の本当の役割であり、務めであるわけです。
仏の世界にいきた我々「仏」の道なんですね。
なので足を組むわけです。道元禅師も只管打坐をおすすめになるわけですね。


今のことを踏まえると悟りについての形状が見えてきます。それは「身心決定」のことを言います。
- 「この修行の方向で間違い無いんだ!」
- 「只管打坐で間違いないんだ!」
- 「道元禅師のお示しになるこの坐禅で間違いないんだ!」
- 「我々の修行はこれで良いんだ!」
という風に自分という「人間」に決着していく事が「身心決定」であり、「悟り」であります。
人間が「正しい生き方に出会う事」が「悟り」と言ってもいいかもしれません。
それも結局は「精神論」じゃないの?と思われるかもしれませんが、そうではありません。それは真実なのです。
それに人間は「正しい生き方」に出会ってこそ、救われるんですね。それを可能にするのが悟りなのです。
精神論とは違いますね。
「全体」に生きる、それが人間の「正しい生き方」
前からも話しておりますが、「仏法」は全体の話であります。今の話も要するにこの「全体」の話なんです。悟りとは「全体」なんです。
例えば「海」であれば、「高波」があったり、「凪」があったり、その表面的な様子を含めて「海」であるわけです。
我々もそのことに気付く事が「正しい生き方」であり、「悟り」であるというんですね。
しかし我々人間はこの海でいう所の表面的な「波」の部分だけで生きております。
例えば、「最近宝くじが当たって急に人生の風向きが変わって来た!ラッキーだ!」
なんていうのは所詮、海で言う「大波」の部分のようなものであります。
もしくは「最近会社をクビにされて借金地獄だ、もう人生おしまいだ・・・。」なんていうのも「海」でいえば「静かな凪」の様子でしかない。
そのような「表面的な部分」に始終してしまっているのが我々人間なんですね。
しかし我々人間の本来の「在り方」はそうではありません。
「大波」、「小波」、「静かな凪」、それら「全て」をひっくるめたこの「命」であります。
その「命」こそが我々の「全体」であり、その「命」の実践こそが本来の「正しい生き方」なんですね。
話は戻り、それはこの世界の事実がそうだということです。いつどこでも年をとる。花が枯れる。自動車の走る音がする。足を組めば痛い。そういった世界の真実が常に展開しているわけです。それが「全体の命」、「真実の命」だということです。
なのでその真実の命を行じる。この世界の事実を行じる。これが正しい我々の生き方、あるいはそれがそのまま悟りなのです。
それが「坐禅」だということですね。この世界の事実、この世界の正体、悟り、それが「坐禅」なのです。
「上智の人」、「下愚の人」との違い、それは認識の違いだけ。
頭が悪かろうがよかろうが、誰もがこの世界の事実に生きている。誰もがこの仏の事実を常に100いただいているということがわかるわけです。
「これ」だけやっていればいいんです。坐禅だけしていればいい、掃き掃除だけしていればいいんですね。それが100の仏をいただいているからです。それが最も尊い瞬間だからです。
それに気づけるか、気づけないかの話なんですね。
しかし頭のなかで今のことを気づくというのでは本当ではありません。本当の気づきとは「庭をはくこと」、「坐禅をすること」なのです。
なぜなら頭の中での気づきとは存在していないからです。それは気づきのようであって、気づきではないからです。
足を組むこと、掃き掃除をすること、これこそが本当の気づきです。これこそが誰もがこの仏の事実を常に100いただいているということを証明しているのです。
今回の『普勧坐禅儀』にもあるように、道元禅師は「上智下愚を論ぜず」と言っています。
「上智の人」、「下愚の人」の違い、それは「概念」や「認識」、「観念」の違いでしかないんですね。
つまりこれは人間の頭の中の出来事の違いでしかないんです。
人間の頭の中で作り出した物事の違いでしかないですね。
そのようなものは「我々の命」に一切関係ないんです。頭の中でこねくり回しているだけでは出会うことはできないのです。
バカでも「坐禅」を組むこと。バカでも「庭はき」をすること。そこで出会っているこの世界の正体が本当のお悟りなんですね。
なので道元禅師は「上智下愚を論ぜず」とおっしゃるわけです。
今回例に挙げた周利槃特もこれができたから、悟りに出会えたわけです。真の道を歩むことができたわけです。
今回の、
の上堂において道元禅師が一体何が一番おっしゃりたかったのかを明確にして今回は終わりにしたいと思います。
今回道元禅師が我々に一番お伝えしたかった事、それは「生命の実物(悟り)」において、「上智下愚」等、持ち出す必要はなく、それ以前の「全体の命」が「仏法の真実」であるということなんですね。
目の前に広がるのは「真実」であり、我々人間もその「真実」の命を生きているのに、「概念」という「一部分」だけに囚われてしまってはもたいないぞ、という所でしょうか。
正しい生き方に出会う事それが「悟り」-まとめ-
今回は、道元禅師がしるした『普勧坐禅儀』の、
の部分を解説してきました。
最後に本記事のポイントを振り返りたいと思います。
- 仏道修行(命)において能力があるとか、ないとか。頭が良いとか悪いとかは一切関係ない。
- 誰でも彼でも坐れるのが「坐禅(命)」であり、道元禅師のおすすめになる『普勧坐禅儀』である。
- 仏道修行(命)は、「志」によるから頭が良いとか悪いなどは「論ずる」までもない。
- 「正しい生き方に出会う事」それが「悟り」
- 「正しい生き方」というのは「命」の実践、「全体」の実践。つまり「坐禅」
- 「概念」は「命」の「一部分」でしかないのにそれだけに囚われているのが今の人間。
以上、お読み頂きありがとうございました。
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