人間、誰かと比べる必要はありません。
仮に職場で自分より優れている年下の人間がいたとしてもそれで一向に構いません。自分というのは他にはおらず、また自分というものしかここにはおらず、自分は自分をすれば良いだけだからです。
俺は俺にしかなれません。俺は俺にしかできません。俺は俺にしか務まりません。結局は俺は俺にしか生きることができないのです。我々は誰しもが、そこでこうした大変立派なことを行なっているわけです。
時にこの坐禅も俺にしかできません。そこでは俺しかこの坐禅をできないのだし、俺しか俺を生きれないのだから、他人より自分が劣っていようが、優れていようが、そんなのはあまり関係はないのです。
生きるということは自分をすることです。生きるということは坐禅をすることです。比較のできない絶対的なもの、それが坐禅であり、この命であり、この自分であり、この人生、この一挙手一投足です。全ては坐禅です。我々は生まれ落ちてから、そうしたものを必ず授かり、またその後も約束されているわけです。この人生というのは坐禅のことであり、それは比較のできない絶対的なものです。我々の人生、また人生を生きるということは、坐禅ということなのです。
あるいは「生きていれさえいればいい」、「生まれてきただけで良い」という話にもなっていくわけです。
それにそうした相対的な目から見れば、人間にはそれぞれに誰にもない魅力が1つや2つあるもの。また同じように劣っているものも必ず持ち合わせているものです。人間というのは必ず「誰かより優れていて、劣っているもの」なのです。
だから安心していい。生きていればいい。我々は生まれてきただけでいいわけです。そしてそうしたことを「事実のこと」とするために、今ここで、自分は自分をすればいい。坐禅をすればいいのです。
我々は生きていればいい。そこで生まれてきただけでいいわけです。優秀で、誰からも認められ、勉があり、見た目に花がある。そうしたことが偉いわけじゃありません。責任感が強いのが偉いわけじゃありません。
ここでは自分が自分を自分することが何よりも偉いわけです。あるいは生きていればいい、生まれてきただけでいいということが本当のことなのです。坐禅を行うことは、今述べたように、それが本当になることであり、たった1つのことをたった1つにしていくことであり、本当に誠実ということであり、大自然の大自然、根本道理ということだからです。
それにもっと簡単に言えば、この世には自分しかいないわけで、その自分が自分を行うこと以外、あるもの、また評価すべきものもないわけです。
なので誰が本当に偉いのか?という話に限れば、自分が自分を自分している人間が1番偉いということになるわけです。
仕事ができたり、大手の企業に勤めていることが偉いわけではありません。アメリカにはアメリカの言い分、ロシアにはロシアの言い分、小さい国には小さい国の言い分がそれぞれあるわけです。
責任感が強いこと、何よりです。役職がつくこと、出世すること、有名になること、何よりです。
しかし本当に偉いことは、「生きていれさえいればいい」、「生まれてきただけで良い」ということで、そのために自分が自分を自分することです。坐禅を組むことです。


コメント