先日縫い物をする機会があって、「針」を使いました。その針を誤って自分の指に刺してしまったんですね。今回はその時の話です。
「指に刺したくらいでどうってことないではないか・・・。」この記事をお読みの、あなたはきっとそう思われるでしょう。
しかしとんでもなく痛かったんです、、痛いものは痛いのです。我慢できないくらい痛いのです。
この「針を刺した痛み」は誰かと比較できない「宇宙一杯の痛み」であり、我々の真実の「命」なのです。
我々は無条件で生きることができる。
我々は普段から生身の体で生きております。
- 手が熱湯に触れればアチッと言って手を引っ込める。
- 鐘の梵鐘も意図せず、自然と聞こえてくる。
- 目の前に展開しているものがごく当たり前に見える。
そういう隠し用のない、生身の「命」を生きているわけです。
これらを「生命の実物」という言葉として、一旦横に置いておきましょう。
我々はこの「実物」が無かったら生きていくことができません。
例えば「熱湯」に手が触れた時、熱さを感じずにいれば大火傷をしてしまいます。また「針」だらけの壁が目の前にあったとして、それが見えなかったらぶつかってしまい、大変危険です。
また「熱湯」が熱いと感じるのは紛れもなく「確かな事」である一方で、不思議とそこには理由というものがありません。
熱いから熱い、それは誰にとっても熱いわけです。

だからこそ、また誰もがそこでその熱い「熱湯」が手に触れると熱いと感じる事が出来るからこそ、「生命の実物」なのです。
理論的なことはわからないけれど必ずそうなってしまうわけです。理論的なことはわからないけれど、誰かれかまわず、そのような命の作用をきちんと必ず持っているわけです。誰もが紛れもない「確かな命」をいただいているわけです。
そしてもし「これ」がなかった場合、これほど危険な話はありません。「実物」があるから我々は生きることができるのです。
時に、きちんと生きていれば腹が減る。そして何かを食えば腹の中できちんと消化をする。あるいは疲れれば眠くなる。眠くなれば、寝てしまい、いびきをかく。またその間にもちゃんと呼吸が行われる。
解明はできないし、野暮ったくもあるけれども、無条件で、そのような命を今こうしている間にもいただいているわけです。
つまり無条件で我々は生きることが出来る、生きることが許されているのです。
我々にとって一番重要な「こと」が、ここでは無条件で出来るのです。我々にとって一番重要な「力」が、ここでは無条件で持つことができるのです。
そしてそれがこれからも常にあり続けるのです。こんなにもすごいこと、ありがたいことはありません。これ以上のこともないのです。
誰もが常に仏法者
このことを、あるいはこうした「生命の実物」のことを「仏法」と呼んでもいいのかもしれません。
熱湯に手が触れると「アチッ!」となるのはこれは「実物」の話で、これは決して「概念」の話ではありません。生命の実物に関わる非常に重みのあるお話です。
もとより我々の命は「概念として、どうのこうの」ではなかったのです。一生それが解明されなくてもいいのです。そもそも解明などできないのです。
熱湯に手が触れて「アチッ!」となるのには「理由」はなく、またその時誰かと比べて「アチッ」となっている訳でもないのです。それは相対的に誰かの熱さと比較して作られた熱さではないということでもあります。紛れもない真実だということです。
誰かと相対的に比べる事無く、絶対的な真実の元、あなたは「アチッ!」となった。または「アチッ!」となることができる。あるいは冒頭の話のように、小さい針でも、指を刺せばもう痛さのあまり、のたうち回る。
こんなにも安心できることは他にありません。我々は無条件で守られている。無条件で生きることができる。無条件で最高の生き方をさせてもらっている。
そこでは仏法が常に見守ってくれているからです。あるいは私が常に仏法「そのもの」だからです。我々は常に仏法者なのです。
従って誰とも比較などしなくていいのです。常に誰とも比較のできない命を生きているのです。誰とも比較できない人生、誰とも比較できないということが我々の人生なのです。
ここでは自分が自分を自分すればいい、ただそこで安心して生きていけばいいのです。
私は全てです。仏法そのものです。誰もが宇宙いっぱいの命として、宇宙いっぱいであり続けるのです。私こそが宇宙そのもの、森羅万象の全て、そのものなのです。

事実、今であればこうして涼しくもあり、暑くもある微妙な陽気も寸分狂わずに直接肌で感じることが出来るのは、我々と宇宙の間に垣根がないからです。我々がそのまま宇宙だからです。


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