我々はいつの時代も、常に我欲に支配されており、そのせいで苦しんでおります。人間社会においては戦争が起きたり、詐欺が起きたり、威圧的になったり、悩んだり、迷ったりしますが、全てこの「我欲」のせいです。
もちろんそうしたことも因縁時説であり、どうすることもできないものであり、また思わされていることで、大自然の大自然であり、「思う」という生命の実物のことで、時に「真実の位置付け」として異論なくあるわけです。
しかしこの世界には「我」というものがなく、我々はその世界と同時であり、同事です。もとよりここには「我」というものがないのです。いたずらに我々は自分勝手にそうした架空の「我欲」を存在させ、自分勝手にその「我欲」というものに苦しめられ、自分勝手にそうしたものを受け入れているだけです。
「それ」を放り出したら天地いっぱいのものとなります。仏法はもとより、坐禅はそのためのものであり、自分が天地いっぱいになるためのものであり、人が天地いっぱいになるためのものです。坐禅をして無欲無心になるのではありません。坐禅のその行為自体がすでに「我を捨てている」わけです。
自分を投げ捨てると、そこでは天地いっぱいを手に入れることができます。人を本来の天地いっぱいに帰すもの、人を本来とするもの、あるいは人と天を繋ぐもの、人を解放するもの、人を救うもの、人を解き放つもの。それが仏法であり、坐禅です。
天地いっぱいの坐禅。天地いっぱいのこの命です。我々は死ねば灰になります。食えば消化します。疲れれば横になります。また必ず生きることができます。必ず死ぬことができます。もとより我々は、そうした天地いっぱいの命を生きているのです。
人の人生を存分に活かし、人の可能性を十分に発揮してくれるもの、それが坐禅であり、仏法です。あるいは人を放棄すること、人をやめることがこの坐禅であり、それこそが我々の本当の人生であり、本当の可能性なのかもしれません。



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