「春」になると桜がさき、「夏」になれば蝉が鳴き出します。「秋」は紅葉が咲き誇り、「冬」には雪が降り積もります。
それは誰かの指示でそうなっているのではなく、自然とそうなっております。しかもそれが一寸も違うことなく、毎年同じように繰り返されるのです。
どのようにしてそうなっているのか、なぜそのようになってしまうのか、恐らく今後の科学を持ってしても解明されないことでしょう。
もしこの「理」が崩れれば、世界は存在しません。人間も、私も生きていくことができません。
しかしちゃんと来年になれば春が来て、また夏が来ます。いつも平常無事。何も心配することはありません。
いきなり地震に見舞われてしまうのも、日を追うごとに白髪が増え、顔の皺が増えるのも、あるいは疲れれば横になり、眠くなれば寝てしまうのも、さらに寝ている間にも消化をし、怒っている間にも呼吸をしてくれるのも、肘が外側に曲がらないのも、水面にきちんと船が浮かぶことも、いつかみんな死んでしまうこともそうです。全てそうした「平常無事の世界(全体の全体)」にいる証拠です。
真理とは何か、真実とは何か、悟りとは何か。そのようなものを常に追い求める我々ですが、その背景にはいつもただこの「平常無事の世界」が展開しております。私自身がそうなのです。
「自力」でも、「他力」でもなく、我々はただその「平常無事」に任せ切って、生かされ続ければいい、明日も頑張って生き続ければいい。そうすること、そのように生きること、「坐禅」はそのためにあるもので、同時に役立ってきたものだと思うのです。
そしてそのような我々のお姿は、真に安心しきっており、同時にこの世界の全てであり、この世界の真理である。つまり本当の「お悟り」なのかもしれません。






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