この世界のあり方としては、よく「空」であるという風に説かれます。有名な般若心経にも「一切皆空」とあります。
これは非常によく聞く話で、実際に今もこのことに関して興味や、疑問を持ったりしている人は多いのではないかと思います。
意外なことに、これまでこのブログでも触れてこなかった「空」について今回は少し触れてみたいと思います。
(今回の話の前身、および詳細はこちらとなります。※弊blogで最も読まれている記事です。)
さて、このようなことを聞くと、まず我々は「それは中身がないという風なこと」を連想します。「何か」に対して、その中身が空っぽだということ、存在していないものだ、という風に考えてしまいます。
しかし実際はそのような意味なのではなく、これは何か特定の器に対しての「中身がない」という状態のことではないのです。
「空」とは、むしろその逆で「あるもの」、「存在」のことを言っています。そしてそれはもちろん唯一無二の、我々にとってこれしかない「今、ここのこと」を言っております。この世界の真実のことを言っております。れっきとして存在しているもの、確かな存在のことを指しているのです。
よって、従来のイメージのような「空虚」だということではないんですね。
この世界というのは「垣根」がないのです。境界がないのです。ここからここまでは「〇〇」である、という線引きができない。そのような個別の存在が何一つない。これは「これである」というものがない。従ってここでは「これはこれである」という定義が何もできないのです。
例えばここでは鳥の鳴き声が自分の耳を震わせますし、いつでもどこでも、どこからやってきたかわからない酸素によって、寝ている間にも平気で呼吸をすることができます。
我々が普段食べている「お米」というのも、大地や虫、太陽、水、このようなものたちの働きがあって、あのような姿になるわけで、事実としては「お米」というのは水でもあり、大地でもあり、太陽でもあるということなのです。さらにそれを食べて我々は生きていけるわけですけれども、そのお米が私の口に運ばれるためには、スーパーやその駐車場、そこで働く従業員の方々の存在がなければなりません。
この世の「存在自体」や「存在行動」というのは全てそのような成り立ちなのです。
もっとわかりやすく言えば、今は真冬ですが、その寒さによってブルっとしますし、この時期に真水に手を浸していると痛くなってきます。全宇宙が私で、私が全宇宙なのです。全てが繋がっているのです。「繋がっている」というのが唯一我々の証明であり、同じく正体であり、性質であり、真実なのです。
「お米」や、この「私」という物体をはじめ、「この世界」のあらゆるものには境界がありません。「全て」はこの瞬間において「全て」なのです。全てがこの瞬間に全てと同時、全てがこの瞬間に全てを成しているのです。この世界に常に存在しているのは「全体」だけで、個別の存在というのはその「全体」の一部見え方の部分でしかないのです。
チョコレートというのも、全体。その瞬間における、全体の一部見え方なのです。
「ここからここまでは〇〇である」という境界は何一つなく、従ってこれは〇〇であるという定義がないわけです。
このようなことがこの世界の真実なのです。この世界の「唯一」なのです。
昔のよく考えられた人も「このような様子をなんと言ったらいいのか・・・」ということだったのだと思います。
そこでこの「空」という言葉を当てはめたというわけです。あるいは「什麼」や、「禅」などとも言ったりします。また「常に流れ続けている様子」を指した「無常」という言葉や、考え方もこれに近いかもしれません。
ここでは物事が2つに分かれることは決してありません。あるいはそこで流れ続けております。これは〇〇であるという定義が何もできないわけです。そもそも私自身がその「全体」のため、その全体から離れ「それ」を外から見るということができないわけです。「何かを見ようとする」という行為や「定義をする」という行為自体が不可能なのです。
ここでは「何かを/見る」ということができないのです。ここではそこで見ている「誰か」もいなければ、「何か」もないからです。あるいは「これは〇〇である」と定義する人物がいないのです。
そもそも「自分が/何かを見たり、自分が/何かを思ったりしている」という誤解も、そこではその向こうに見る対象があるから、思う対象があるから生まれてくるものだということです。それらがこの世界に存在しているから起こるものなのです。我々は全て同じ「点、座標」にいること、同じ現象として生きているということ。それもつまりは全てこの世界で溶け合っているということなのです。
自分の行為というものは、例外なく他なのです。全体なのです。
ここではどうしても2つに分かれない、どうしてもみることができない、客観視することができない。よってどうしたってそれを正しく言えないわけですね。
「その状態」に相応しい言葉は何か、ということで今回の「空」や「什麼」、「禅」という言葉を当てはめているのです。
さらに突き詰めていけば、例えばこの世界のことを「空」だと言ってしまったなら、それは「空」という事象になるわけです。「この世界は空である」という定義が生まれてしまうわけです。したがってこれも実は、誤りのわけですね。
それにそれは「この世界は空であると思う」という「思想活動」にも、「思想媒体」にもなるわけです。そしてそれは「私が/思う」という世界を分割する行為にもなるわけです。
無論「俺が/思う」ということは、ここには存在しません。つまり「空」というのも単なる、人間的な思想なのです。
やはり「什麼」や、「禅」、今回の「空」という思いや、言葉も、近しいようで正しくはないのです。むしろ遠いのです。
それは単なる個人の思想であり、個人の言葉だということです。
そのように世界を捉えようとしたり、世界を言い表そうとする行為、あるいは世界は〇〇であると思う、行為や、悟ろうとする行為自体、全てが「虚空」なのです。まやかしなのです。それこそまさに「空なるもの」と言ってもいいかもしれません。
今、世界的に見て中国共産党の暴走が続いております。その勢いは凄まじく、個人的にはいずれ全てがこの中国に飲み込まれてしまう、中国に同一化され、我々日本をはじめ世界のあらゆる国々やそこに住まう人々、そのマイノリティ、アイデンティティ、イデオロギー、古くからの文化、そういったものもいずれ全てなくなってしまうのではないか、そのような危機感を覚えております。
しかし今回の話、および真実に立ち返ると「中国」という存在がそもそもないわけです。国境がないわけです。飲み込もうとする側、飲みこまれる側という風にも分かれないわけです。
中国を不審に思う「自分」もおらず、不審だと思ったり、何かを思ったりする「思想行為」自体もここにはないわけです。それは「全体」なのです。ここはただの「全体」のみです。今この瞬間全ての一切は、全てと溶け合っているのです。全ては全てなのです。
世界というのは何があっても平穏です。常に1つです。そのような辛い思いすらも「全体」であるということ。全体にやらされた、仏にやらされた全体の活動だということです。
なので仮にそこで辛い思いをさせられようと、殺されようと、何があっても大丈夫だということなのです。あるいはどうすることもできないということなのです。
仮にこの世界の何かを探ろうとしたり、真実を言い当てようとしたり、悟りを得たいと思うのならば、今ここ、この自分のこの鼻を思いっきり捻じ曲げて「いたたっ!」とするしかないわけです。
今、ここ、この自己しかこの世界にはないからです。その時の「自己の痛み」、「自己の生命の実物」だけが文字通りの「全て」で、それがつまり真実であり、本当の「空」だからです。全てだからです。
正しくは「空」と称するのではなく「いたたっ!」だったわけです。あるいは「空」で言いたいところの「世界の全て」や「真実」というのは「いたたっ!」でいいわけです。
あるいはもっと穏やかなやり方がいいというのであれば、坐禅を組むわけですね。
坐禅はこの世界の唯一(自己)が、唯一(自己)をすることだからです。常にこの世界の「今」だからです。常にこの世界の「存在」だからです。常にこの世界の「真実」だからです。
この世界の間違いない、確実な「それ」。唯一の存在である「それ」。この坐禅が正真正銘の「それ」だからです。
我々には自己が自己を自己すること(坐禅)以外、生きる方法がないのです。「何か(生死)」がないのです。今回の「真実」も「空」も、何もないのです。
結局は坐禅なのです。
自己が自己をすること。それだけが我々の生であり、死なのです。それだけがこの世界に存在しているものなのです。古来よりこの世界で続いているものなのです。
坐禅だけが存在してきたのです。坐禅だけが存在しているのです。坐禅だけが存在し続けるのです。
そして今回の話で見てきたように、私というのは「全体の命」そのものであり、また「全体の命」が私の命そのものであり、したがって我々の一挙手一投足も全体によって生み出されるものであり、どうすることもできないものであり、あるいは「自己」というものがここにはありませんので、それは「自己が自己をすること」なのではなく、実は「全体が全体を全体される」ということなのだ、ということです。
我々は「全体に導かれながら生きている」し、「全体を導きながら生きている」のです。つまりは「全体」なのです。
我々が生きることは全体が生きるということ。あるいは全体に生かされるということ。全体に、あるいは仏に導かれるということなのです。
いずれにせよ、今、ここ、この場所で「自分の意思」で坐禅を組めばいい。全ては「このことだけ」のためにあるわけです。「それ」だけが全てだからです。「自分の意思で坐禅をすること」、それが言葉通り「全て」に通じているからです。
そしてそれが今回の「空」であるということで、「真実」であるということです。
今、ここ、ここで自分の意思で足を組むことだけをすればよく、人生それだけをしていけばいいのです。
「空」とは何か、真実とは何か、我々や世界の命の正体において、実はそのような参究は蛇足でしかないのです。あるいはこの世の参究全てが、蛇足でしかないのです。
誰においても今、そこ、その瞬間、全てが「全て(坐禅)」だからです。



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